たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

潮御崎神社

2024-05-01 10:33:10 | 神社

本州最南端です。中央に見えるところがその場所です。(オゴクダ浜から撮影)



有料駐車場から少し歩きます。









ようやく訪問することができました。

以前このブログで、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」
に、いろいろと書いてます。参考にしてください。

画像を撮ることを忘れてしまいましたけど、隣に鎮守社として高皇産霊尊が祀られています。

上の画像の左側に少し写っていますね。

この左側には、天照大御神、大己貴命、猿田彦命を祀った祠があります。

おそらく、高皇産霊尊は、彦座王(サタヒコの父親)

そして、天照大御神、大己貴命は、サホヒコ

猿田彦命は、サタヒコ 本人ですね。

たしか、鳥居付近だったと思いますけど、そこから少し小高いところにも祠がありました。



行ってみると、金山彦命が祀ってあります。

おいらは、 金山彦命は、サタヒコとアメノウズメの間にできた子と思います。

ここに祀られていることで、その推測の可能性が高くなったなと思いますけどいかがでしょう?

神社から戻ると、灯台があります。これも画像を忘れました・・・




灯台の上から「静之窟」の場所を探しましたけれど、わからない



違う方向を探していました。もう一度、オゴクダ浜から撮影した画像を見てみましょう。


こちら側にあるようです。降りていく道があるようです。次回ですね。




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熊野速玉大社

2024-04-27 15:47:45 | 神社


熊野速玉大社

HPより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神倉山と新宮
 「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





とてもきれいなところです。


巨木があります







しめ縄が気になります



この作り方参考にしよう。できるかな?



この後、近くの、猿田彦神社・神倉三宝荒神社に行こうとしましたが、道が狭くて断念しました。

時間があったら徒歩で行きたいですね。もう一度来られるかな?






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石切劔箭神社上之社

2024-04-27 15:06:53 | 神社




祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子
「石切大明神」と総称される。


ここに来るまでの道が狭いんです。古道らしい。古いところは、何処もそうなんですね。



大阪の中心部でしょうか

当時は、この少し西まで海だったようです。






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高蔵神社

2024-04-17 08:06:06 | 神社

訪問した時は、桜がきれいでした。。。



都美恵神社から、15kmほどです。



階段を登ると


2本の杉が出迎えてくれます


樹齢は、500年以上でしょうか?久しぶりの巨木です。



祭神は、倉庫・延命長寿の神である高倉下命(たかくらじのみこと)

この神様がよくわからない

色々調べてみます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祭神は「高倉下命」で神武天皇の窮地を救った神様。
尾張にある熱田神宮の摂社「高座結御子神社」に祀られている尾張氏の祖である。

この地域は高倉下命の七代の後の子孫「倭得玉彦命」がこの地に移り住み氏神を祀ったことを起源とし、自信の氏神を祀った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記紀によれば、東征中の神武天皇は熊野で悪神の毒気により倒れたが、高倉下が剣を献上すると覚醒したとされます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
社伝によると、高倉下命より七代目の子 倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコノミコト)が伊賀国に一族とともに移住してきた

倭得玉彦命が祖神である天香語山命を祀ったとするのが当社創建由緒。

垂仁天皇の御宇(帝王が天下を治めている期間)とし、貞観三年(861年)に従五位下の神階を授かる国史顕在社である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、おいらが作った家系図を見てみましょうか


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
八御子・倭得玉彦命  (日本 得 魂 命)=天之御影神=天目一箇神 
       妹が 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーーーーーーー彦坐王             
                               ↓                 
                             サタヒコ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここにやってきた人は、サタヒコの母親の兄弟でしょうか。

垂仁天皇は、306年ごろに亡くなっていると思います。

倭姫が伊勢に行ったのは、297年頃と推測しますので、

その間に日本 得 魂 命はここにやってきたことになります。













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都美恵神社 その2

2024-04-17 05:03:00 | 神社
前回、伊勢津彦(=サホヒコ)は、美濃に行くとき以外、ここに来ることはなかったと書きましたけれど、

そうではなく、伊勢にいるときに、彼の生まれ故郷である奈良に行くことがあったのではないだろうか?

そうすると、このルートを通って、都美恵神社に滞在しているかもしれない。

その時には伊勢の辰砂を持って行ったと考えるのは妥当でしょう。

それを、崇神天皇が知り、辰砂を自分のものにしようと、伊勢の乗っ取りを考えたのかもしれない。


由緒をもう一度見ましょうか

 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。

伊勢津彦が、ここに滞在したのは、270年~280年ごろと推測します。

都美恵神社の起源は、そのころでしょう。

でも、中継地点としての機能はすでにあったと思います。



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都美恵神社

2024-04-10 08:48:40 | 神社





彦座王、サホヒコが奈良から美濃に来た道は何処だろうと思って地図を見ると、

木津川、柘植川、加太川、鈴鹿川を通ったのではないかと思い確認のため出かけました。



このルートでしょうか?

青い線の右端には、鬼太神社があります。

そこから西に向かうと、都美恵神社があります。






久しぶりの訪問です。







御由緒
 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。
因りて名を為しき云々」とあるこ とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた 神であることは事実のようだ。
 この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、
寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、
種々の古文書から明ら かであるし、
その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、
即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。
 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く 祀りつぎたいものだと思う。
村主 種次郎 記



この中で、伊勢津彦の名前が出てきますよね。石で城を作った場所がここだとは今まで気が付きませんでした。

でも、伊勢津彦=サホヒコは、いつ頃ここにやってきたのだろう?

美濃に行く途中、ここを通ったとは思いますけど、そのとき彼は、10歳ぐらいなので城を作ったのはその後のようです。

というよりも、彼が城を作ったという話は本当だろうか?

彼の足取りをしらべても、この地に来ることは考えにくいのです。

さらに、「もとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。」とありますが、彼女はおそらくサタヒコの母親でしょう。

そうすると、石の城はサタヒコが作ったのでは?

神社は、それ以前からこの地にあったと思いますけど。












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富雄丸山古墳その3 武内宿禰

2024-04-05 05:39:13 | レイライン

武内宿禰、いろいろ読み方があるようですけど、おいらは(たけのうちすくね)と呼びます。

以前このブログで書きましたけど、武内宿禰の祖先がサタヒコが率いる製鉄およびレイラインの測量集団かもしれないと

思っています。見つけました。こちらこちらです。参考になさってください。

景行天皇14年~ 没年不詳

317年ごろの生まれと推測します。

時代的には、富雄丸山古墳の被葬者といっても違和感がありません。

レイラインが、彦座王や、その息子のサタヒコ(猿田彦=ミカドワケノミコト)と関係してもおかしくはありません。

武内宿禰は、景行天皇の時代から仕えているので古墳の大きさからも適当と思います。

製鉄の技術を持っていたので、蛇行剣が見つかってもおかしくありません。

どうでしょうか?まだ調査が続いているのかな?ニュースが楽しみです。。。
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富雄丸山古墳その2

2024-03-31 15:58:28 | レイライン
こちらのニュースを見ました。

銅製の鏡が、出土したそうです。直径20cmほどで、3枚。三角縁神獣鏡ではないようです。

長さ14cmの漆塗りの櫛など、櫛9点も見つかりましたとのこと。

国内最大2.3メートルの長さの「蛇行剣」というものがすでに出てきているようです。

4世紀後半に作られた直径100メートルほどの円墳とのこと。

380年ごろの制作とすると埋葬されている方が亡くなったのは350年ごろでしょうか?

もう少し遅いかな?

サタヒコが、伊勢に行ったのは、300~303年ごろ。

そうすると、彼らと同伴していたとすることは不可能ですね。

鉄製の武器・武具といったようなものは見つかっていないそうです。女性かもしれないとか?

人物が特定できなくなってきました・・・





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富雄丸山古墳

2024-03-31 13:51:28 | レイライン
富雄丸山古墳  ( 奈良県奈良市丸山1丁目) ニュースはこちら

気になったので、レイラインを調べてみました

富雄丸山古墳からです



何か見つかるでしょうか?



右上、夏至の日の出の方向ですね。


高蔵神社の磐座に行く途中にある祠の場所です。

こちらで場所を特定しています

画像はこちらにあります

こちら参考までに

富雄丸山古墳は、円墳なので、サタヒコと一緒に行動していた技術者でしょう。

まだニュースの内容を詳しく見ていないので今日はここまで。。。


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三輪神社 ( 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪)に行ってきました

2024-03-31 08:34:18 | レイライン


久しぶりの探索ですね。。。



三輪神社 ( 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪)のHPです

少し右には、厳島神社があり、そこには銭洗い弁財天があります



これはやらない理由はありませんね。 しまった!最近、財布の中はあまりお金が入ってないのです。

しようがないので、50円玉を・・・でも、これでお金持ちになれます。。。





少し見づらいですね。右端に現在地があります。目指すは揖斐城跡です。一番上にあります。

でも、今日は体力があまりない。体を休めようと考えていたのですが、途中で地元の人にお会いして

元気をもらい、一緒に揖斐城跡まで行きました。


本丸跡です。


三輪神社の元の場所を尋ねましたが、それは分からないけども、お寺があった場所は分かるとのこと。

その場所は、この本丸跡の少し下です。


すでに通り過ぎたところでした。この右斜面の上が本丸跡です。

別の角度から



前回のアップの後でわかったことですけど、レイラインを見ると城跡から少しずれているのです。


今日の目的は、このずれを探ることです。



これで見ると、そのずれの距離は10mほど。

ちょうど、このお寺があった場所ではないでしょうか?

ただし、高蔵神社磐座の起点が違うかもしれません。

磐座の一番奥ならば、本丸の位置になるかもしれません。

どちらにせよ、三輪神社の元の位置はこの付近と考えていいでしょう。



途中から見える景色です



金生山が見えます

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三輪神社 ( 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪)

2024-03-23 17:03:04 | レイライン
三輪神社 (みわじんじゃ) 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322番地




近くに、野古墳群、養基神社朝鳥明神があります。

「御祭神神武天皇の御代長野県の諏訪大社の御祭神健御名方富命が当地に三輪神社に造営され三輪明神を祀られました」

主祭神 は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)つまり、タケミナカタが、父親を祭ったということでしょう。

この説明から、時代は300~350年ごろと推定します。

レイラインは高蔵神社磐座からです。かなり詳しい場所にセットしてあります。




揖斐城跡を通ります。三輪神社が元あった場所はそこかもしれません。



残念ながら、まだ三輪神社には、訪問していません。なにせ、つい先ほど分かったことですので・・・

なかなか書き込みが出来ません。仕事が忙しいので時間がない!   ← 言い訳。。。

この他にもいくつかレイラインを発見しています。機会があればここに載せたいですね。

そして、だんだんとこの時代のことが詳しくわかってきています。まあ、焦らずにのんびりと書いていきます。
 


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三種の神器

2024-01-03 09:32:29 | Weblog

三種の神器(草薙の剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉)とは 、皇位と共に歴代天皇に伝えられる国宝

「草薙の剣」、「八咫鏡」、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)

ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古事記には、八尺瓊勾玉(緒に通した勾玉)の後ろに、さらに『五百津之美須麻流之珠』(やさかにのまがたまのいほつのみすまるのたま)という、数の多さを形容した語が付く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「須麻」と言う言葉が出てきました。もしかすると

「川上摩須郎女命」の「摩須」から来たのかもしれません。

八尺瓊勾玉には、サタヒコの母親である「川上摩須郎女命」の御霊が宿っていると考えます。

「草薙の剣」には、父親の彦坐王の御霊が宿っているのでしょう。

ですから、「草薙の剣」と「八尺瓊勾玉」は、ペアになっているのでしょう。


そうすると、アジサハヒメは何に御霊を宿しているのでしょうか?

不明です。八尺瓊勾玉は複数あったのでしょうか?

現在の外宮の主祭神である、豊受大御神がアジサハヒメだと思うのです。







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丹生水銀鉱跡

2024-01-03 09:10:19 | レイライン
丹生水銀鉱跡
は、何度か訪問しています。

気になったので、レイラインを調べると


月讀宮を通ります。内宮の近くの月讀宮ですよ。


なんだかの理由、おそらくは、製鉄の場所を知られないようにするためでしょうか?

それとも、辰砂の保存の場所を隠すためでしょうか?

とにかく、外宮より奥にその場所を求めたのでしょう。

レイラインの通る場所に、月讀宮を作りさらにその奥の飯野高宮神山神社からのレイライン上に内宮を建てたことになります。

飯野高宮神山神社の主祭神は、猿田彦命、そして天鈿女命(あめのうずめ=あじさはひめ)

ちゃんと、あじさはひめの御霊も連れて来ていますね。

籠神社には、眞名井神社(籠神社奥宮)として

大縣神社には、姫之宮 奥宮として

猿投神社には、広沢神社として、サタヒコの住んだところにはアジサハヒメが祀ってあります。








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初詣

2024-01-03 08:04:31 | レイライン
初詣は、まず地元の神社にお参りします。白山神社です。

その後、尾張戸神社に行きその足で、白鳥塚古墳を訪問。








守山から東名高速に乗り、一宮インターで降りて岐阜に向かいます。

そうです。方県津神社に向かいます。

彦坐王(尾張戸神社)と、妻の川上摩須郎女命(方県津神社)がそれぞれ祀ってある神社です。

白鳥塚古墳は、おそらく彦坐王と、息子のサタヒコ(猿田彦)が眠っていることでしょう。

川上摩須郎女命は、おそらく奈良にある中山大塚古墳に眠っていると思います。

それからは、方県津神社の近くの諏訪神社に行きます。

始め、なんでここに諏訪神社があるのか分かりませんでした。

おそらくは、ここにはサホヒコ(後の伊勢津彦)が、伊勢に行くまで住んでいた所かもしれません。

とにかく、彼が祀ってある可能性が高いです。


最後に、洲原神社(岐阜県美濃市須原468−1−1)に行き、娘の安産を願ってきました。








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あけましておめでとうございます

2024-01-01 06:33:35 | Weblog


仕事の都合で、なかなか書き込むことが出来ません。←言い訳・・・

なんとか、しめ縄も作りました。

これ、しめ縄を3本使って作った宝船です。

初めてなんで、時間かかった!
その他にも、龍を作りました。画像撮るの忘れてしまった・・・



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