たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

犬山のレイラインその8 迦邇米雷王

2025-01-31 09:57:58 | レイライン


犬山神社と、払い所のレイラインは後の、伊勢に向かう途中で出来たものでしょう。

推測の域を出ませんが、その時には、犬山神社には倭姫と、サタヒコとアメノウズメの子である

迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)が住んでいたと思います。

迦邇米雷王は、アメノウズメの死後ずっと倭姫に育てられていたのではないだろうか?

というより、それ以前の、丹波にいる時から、サタヒコとアメノウズメそして倭姫は、

おそらく比沼麻奈為神社に住んでいたと思います。

ですから、倭姫と、迦邇米雷王は強いつながりがあります。

 サタヒコが、三種の神器を伊勢に運ぶ時には、犬山で船を作ったということはすでに書きました。

その時、サタヒコは、三種の神器の近く、つまり三光稲荷神社付近で、

尾張大印岐の娘である、眞敷刀俾命(マシキトベ)を妻にして住んでいたと考えます。

伊勢から帰ってきてから、彼女を妻にしたかもしれませんが、2~3年の違いです。

そうすると、眞敷刀俾命の夫とされている人物は、乎止与命(オトヨ)=サタヒコということになります

二人の間に出来た子は、建稲種命と宮簀媛 と言われていますが、建稲種命は架空の人物と思います。

しかし、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)と、宮簀媛は異母兄弟なので彼が建稲種命の

モデルかもしれません。

以前にも書きましたが、氷上姉御神社は、本来は「火神姉御神社」だったそうです。

たしか、火事があったので、「火神」を「氷上」に代えたと記憶しています。

ですから、現在はスケートに関する人が参拝に来るそうです。

さて、迦邇米雷王は、後の「神大根王」つまり「金山神」なので、火の神様なのです。

そうすると、火神姉御神社の「火神」は、迦邇米雷王のことで、

「姉御」は、宮簀媛(玉姫)ということになります。

そして、その「火神姉御神社」は、伊勢から持ち帰った辰砂を陸揚げする港だったと思います。


彼は後に、伊久良河宮に移ります。そこは、元伊勢と言われます。

おいらは最初、どう考えても倭姫が、伊勢に行く途中滞在した場所とは思えなかったので

元伊勢ではないと考えてきました。

でも、倭姫は意外とエネルギッシュに伊勢から、あちこち移動しているようです。

よく考えれば不思議でもなんでもないですね。むしろ当たり前でしょう。

自分の育てた迦邇米雷王のいる伊久良河宮に行くのは当たり前です。

だから、伊久良河宮は元伊勢と言われているのでしょう。

そして、そのルートの途中にあるもう一つの、元伊勢といわれる「酒見神社」も、元伊勢と言われますけど、同じ理由で、伊久良河宮に行く途中に滞在した場所なのでしょう。

ちゃんとした理由がありました。


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犬山のレイラインその7 彦坐王が最初に来たところ

2025-01-30 07:34:19 | レイライン
彦坐王は、美濃の五社神社にその拠点を構えていました。

おそらく、長良川の砂鉄が目的だったのでしょう。

しかし、今回の犬山のレイラインを見てみると、最初に腰を落ち着けた場所は

この、三光稲荷神社付近ではないかと思うようになりました。

もう一度レイラインを見てみましょう



その当時、五社神社付近は何もなかったのではないだろうか?

一方、犬山の三光稲荷神社付近には東の宮古墳の被葬者と思われる 

尾張大印岐(おわりのおおいみき)がすでに住んでいたと考えるのが妥当かと思います。

犬山城のある場所がそうかもしれません。

どのようないきさつで彦坐王が、犬山に来たのかはわかりません。

しかし、このレイラインは、犬山を起点とすると考えるのが正しいと思います。

五社神社を起点とするには、地理的にも時間的にも無理があるでしょう。

すると、彦坐王たちが最初に滞在した場所は、犬山ということになります。

その時に、三角縁神獣鏡を尾張大印岐(おわりのおおいみき)に渡したと考えると

全てがつながるように思えます。







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あけましておめでとうございます

2025-01-01 17:31:00 | Weblog


絵を描かなくなりました・・・仕事が忙しすぎ!

ここもなかなかUPできません・・

隣の家と、妹のところにはしめ縄を作ります。

昨年は、宝船を作りましたけど、ことしは、時間がなく断念・・・

でも、せっかく青刈りした古代米があるので、即席で自分用に作ってみました。



とても人様にはプレゼントできない出来ですけど、とりあえず画像UP

初詣も行ってきました。

いつものように、尾張戸神社、白鳥塚古墳。その後 方縣津神社。

そして、諏訪神社(岐阜県岐阜市岩崎2丁目17−20)に行きました。

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犬山のレイラインその5 犬山神社

2024-11-26 17:18:46 | レイライン
どうにも犬山神社が気になります。もう一度、犬山から見た夏至の日没のラインを見てみましょうか。


夏至の日没が、岐阜の五社神社になるようにセットします




地図ではよくわかりませんけど、先ほどのライン上に、犬山神社の本殿の位置に冬至の日没が来るようにセットします


すると、夏至の日の出のラインが「祓所」を通ります。

測量地点は、何もないところですけど猿田彦神社のほぼ真正面です。



この場所には、その昔何かがあったと考えたほうがいいのかもしれませんね。

そして、犬山神社から見た夏至の日の出に祓所があるということは、

犬山神社は、倭姫が関係してもおかしくないと推測します。

倭姫は、巫女ですので。

もしかすると倭姫が住んでいたところかもしれません。

犬山神社正面








犬山神社から見た測量地点



おまけの画像です

姫亀神社(大宮女大神)は、あめのうずめ が祀ってあるところですけど

鳥居のトンネルをぬけたところに


ありました!

サタヒコの行く所には、アジサハヒメ(あめのうずめ)の御霊が祀ってあるところが必ずあります。













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犬山のレイラインその4 妙感寺古墳もう一つのレイライン

2024-11-18 08:04:11 | レイライン
こちらのラインのほうが古いですね。


旧妙見宮奥之院 (巌屋神社)から見た夏至の日の入りのラインです。



妙感寺古墳の前方部を通ります。




両方の名前ですけど、「妙見宮」「妙感寺」つまり、「みょうけん」と「みょうかん」

これって、もともと同じ読み方なのかもしれませんね。

妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀ですけど、このラインは、4世紀の前半です。

「みょうけん」という言葉自体は古くからあったのかもしれません。

「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者とのこと。

ヘブライ語でそれに似た言葉がないか調べましたけどわからず・・・今後の課題です

旧妙見宮奥之院 (巌屋神社)は、内々神社の奥宮です。

その位置関係は、犬山と春日井をつなぐ道の途中になります。


内々神社の主祭神は、 建稲種命、日本武尊、宮簀媛

宮簀媛=玉姫でしょう。

建稲種命、日本武尊は、架空の人物と思います。

モデルとなる人物は、日本武尊=景行天皇    建稲種命=迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)

そうおもいます。

こちら参考にしてください 




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犬山のレイラインその3  妙感寺古墳

2024-11-11 05:37:04 | レイライン


今回は少し手こずりました。

かなり以前から、気になっていたのですけど、古墳の全体像が分かる画像を見つけたので

かなりいい線にたどり着けたと思います。

まずは、妙感寺古墳の資料を見てみましょうか。

犬山市のHPより引用します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古墳は日蓮宗一翁山妙感寺の境内に位置しており、周辺や墳丘を含めて発掘調査は行われておりません。また出土遺物なども確認されておりません。

古墳の築造年代
5世紀前半

古墳の規模
墳丘長   約95メートル
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
入口の画像がないので、グーグルから拝借します。



ここからはおいらの画像です。

坂になっています。そこを登ると


桜の巨木が出迎えてくれます。

その東側には


正面です


東側は、墓地です。この右側に通路があります。



階段を登ります。


あれが、前方部ですね



前方部から見た後方


ここで見ているだけでは、大きさがはっきりわかりません。

今回見つけた、古墳の地籍図
を、レイラインの地図に重ねると、ようやくたどり着くことができました。





おっと、レイラインをまだお見せしていませんね。ごめんなさい。。。


大平1号墳から見た冬至の日の入りです。



2号墳はそのライン上には無いのが気になります。


そのラインが、妙感寺古墳を通ります。

古墳の地籍図を現在の地図と重ね合わせると


現地で見ているよりも、かなり大きいと思います。

緑色の線が、レイラインです。その線上にある赤い〇の場所が起点と思います。

古墳のくびれ部分の少し離れたところですね。

これは、青塚古墳でも同じ場所になります。

そうすると、かなりこのラインは精度が高いと思われます。

おいらは、この妙感寺古墳の被葬者は玉姫、つまりミヤズヒメと考えています。

こちら参考にしてください


その他、このブログの右上にある、「検索」に「氷上姉御神社」と入れて、その右にあるところで「このブログ内」を指定して、エンターすると色々出てきますのでそちら参考にしてください。

早い時期の記事は、まだ資料不足で間違ったところもあるかもしれません・・・ご了承を。。。








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犬山のレイラインその2 琴平社

2024-11-03 15:39:05 | 歴史
三光稲荷神社の東側には、市神社があります。その他にも祠があります。

もう一度地図を見てみましょう



地図を拡大すると、針綱神社の南東に、「琴平社」があります。

でも、位置が違います。google地図でも間違いがあるんですね。

正しくはこの位置です。




鳥居の奥が琴平社です。




その右側に市神社があります。


左上に見えるのが琴平社。




鳥居をくぐり




階段を登ります


地図とは字が違いますね。正しくは「金比羅神社」ですね。




さらに市神社の右隣には、「秋葉社」があります。




さらに右には、多くの祠があります。


誰もこちらには来ません。おいらもそうでしたけど・・・

さて、「金比羅神社」を調べると、

金比羅神社の総本宮は、香川県仲多度郡琴平町にある「金刀比羅宮」です。

祭神は、大物主神

「金刀比羅宮」これって、金の刀と書きますよね。サタヒコの時代では「金」とは鉄のことです。

鉄でできた刀。もうここまで書くとお分かりでしょう。

彦坐王の御霊を宿した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)もしくは、

草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言いますが、それが保管されていた場所が、ここではないだろうか?

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である
熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の2つがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちら参考にしてください。こちらもどうぞ。


スサノオ=大物主=彦坐王でしょう。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、サタヒコの母親、つまり彦坐王の妻の御霊を宿してあります。

サタヒコは、ここに二人の御霊を並ばせて祀ったのではないだろうか?

いかがでしょう?

ちなみに、その横にある「秋葉社」の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。

秋葉山に鎮まる神で「秋葉大神」(あきはのおおかみ)とも称される。

これは、サタヒコとアメノウズメの子である迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)と同一でしょう。

こちらこちら参考にしてください。

つまり、秋葉大神=火之迦具土大神=迦邇米雷王=金山彦神=神大根王 ということになります。

火の神様ですね。

サタヒコが伊勢に行く頃は、まだ幼いですがここ犬山に連れてきていると思います。

こちら参考にしてください。こちらこちらもどうぞ。
















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犬山のレイライン

2024-10-20 06:12:31 | レイライン
犬山城は国宝で有名ですけど、犬山は、サタヒコが伊勢に行く途中で船を建造した場所と思います。

参考にしてください。こちらも

その場所はおそらく、桃太郎神社付近と思いますけど、丹波から持ってきた「鏡」「勾玉」

「剣」は何処にあったのだろう?

犬山城には、三光稲荷神社が、あります。

ご祭神は、宇迦御魂大神 猿田彦大神 大宮女大神

創建は明らかでないが、天正14年(1586)の伝承がありと言われているようですけど、

レイラインを見ると、300年頃のサタヒコが伊勢に行くときの滞在した場所と考えます。

まだレイラインをご紹介していませんね・・・もう少し待ってください。

祭神は、猿田彦大神はとうぜん、サタヒコです。

大宮女大神は誰かというと、アメノウズメです。姫亀神社に祀られていました。

アジサハヒメですね、探していたんですよ。サタヒコは、ここにもちゃんと連れてきていました。

宇迦御魂大神は誰かというと、サタヒコの姉、つまり垂仁天皇の皇后であるヒバスヒメです。

倭姫、景行天皇の母親です。垂仁天皇の皇后ではありますが、父親の彦坐王の死後

無理やり妻にさせられたのではないだろうか?きっとすごく美人なんでしょう。


話を戻します。サタヒコの母親の御霊を宿した玉( 八坂瓊曲玉 やさかにのまがたま )は何処にあったのだろう?

以前は東の宮近くの白山平という場所かと思いましたけど、違うかもしれない。

三光稲荷神社のすぐ隣に小さいですけど、 市神社 というところがあります。



この市神社の祭神はおそらく神大市比売(かむおおいちひめ)と思われます。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『古事記』にのみ登場する神で、須佐之男命の系図に登場する。大山津見神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、大年神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

須佐之男命=彦坐王です。

大山津見神=川上摩須

神大市比売=櫛名田比売 つまりサタヒコの母親ですね。

大歳神=サタヒコ そして、宇迦之御魂神=ヒバスヒメ でしょう。

おっと、お待たせしました。レイラインです。

まず、五社神社がサタヒコの生まれたところ






猿田彦神社の一の鳥居付近と思います。



この矢印のところから冬至の日の入りを見ると犬山神社があります。


ここは、犬山城歴代城主(成瀬氏)が祭神と言われますけど、このレイラインが存在するならば

歴史は、300年頃になります。最初は、ここがアジサハヒメを祀った場所かなと思いましたけど

先ほど書いたように、姫亀神社に祀られています。

とするとどういう場所だろう? もしかすると倭姫が住んでいたところではないだろうか?

残念ながら、これ以上は分かりません。

さて、もう一つのレイラインはというと、


五社神社の少し北にある諏訪神社のレイラインですね。





針綱神社からのレイラインにピタリです。

以前ここにも書きましたけど、諏訪神社はサホヒコが住んでいたところと思うのです。

サホヒコ=伊勢津彦=大国主 と思います。さらに言うと天照大神も同じでしょう。

伊勢の内宮に祀られている天照大神は女性ではなくサホヒコつまり伊勢津彦ではないだろうか。

何度も書いていますけど、サホヒコの死後、御霊を鏡に宿して伊勢の地に帰した。

その途中の場所が、この犬山の地でしょう。

彼ら、彦坐王ファミリーが五社神社にいた時から、

犬山の「東の宮」を中心とする一族とはなじみが深かったのでしょう。

もしかすると、五社神社に行く前には、この犬山の地に住んでいたのかもしれない。

このレイラインが、犬山からのラインなのでそのようにも思えます。

そして、もうひとつ



猿田彦神社鳥居から見た五社神社へのレイライン上に各務山があります。かがみやまです。

各務=鏡でしょう。この各務山は現在その姿をとどめてはいません。



ほとんど削られています。何か関係する場所があったのではないでしょうか?

今となっては、何もわからないでしょうね・・・

最後に、「剣」(草薙剣)は何処に?

これが分からない。

以前の推測では、丹波で作っているようですけど、

その後、白山神社付近でもう一振り制作をしていると考えます



ここは砂鉄が取れます。そこで製鉄をしていたと推測します。

彦坐王は、この場所で亡くなっているのでしょう。墓もこの場所ではないだろうか?

その地で、剣を制作して御霊を宿したと考えるのが適当かと思います。

ですから、草薙剣は2本あり、一つは熱田神宮にありもう一つは、天皇家にあるのではないだろうか

犬山での保管場所は分かりませんけど、玉( 八坂瓊曲玉 やさかにのまがたま )と一緒に保管されたと

考えるのが適当かと思います。








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白鳥塚古墳の被葬者の再考 その2

2024-09-22 08:06:21 | レイライン
サタヒコの住んでいた場所の近くには、多くの場合もう一つの場所、つまり奥宮があります。

確認していきましょうか



眞名井神社(籠神社奥宮)




飯野高宮神山神社は、猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭神としています。

伊勢の猿田彦神社境内には、佐瑠女神社があります。ここも、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が御祭神

琵琶湖にある、白鬚神社の対岸には千代神社があります。現在の場所は移転したところのようです。

椿大神宮には、別宮椿岸神社があり天之鈿女命が主祭神です。

大縣神社には、姫之宮 奥宮があります。





まだ他にもあるかもしれません。

これって、サタヒコがアジサハヒメ(アメノウズメ)の亡骸と一緒に移動していたと考えることができないでしょうか?

そして、最後は白鳥塚古墳で一緒に眠りについた。



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白鳥塚古墳の被葬者の再考

2024-09-22 05:56:16 | レイライン
以前、箸墓古墳の被葬者は「彦坐王」と推測しました。

それまでは、白鳥塚古墳の被葬者も「彦坐王」と考えていましたが、違うでしょう。

白鳥塚古墳ですけど、

「南北方向に主軸を持つ二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されている。」

とのことです。つまり、二人埋葬されているわけです。

一人は、サタヒコでしょう。



もう一人を、彦坐王と考えていましたけど、亡骸を再度移動させて箸墓古墳に埋葬したとは

考えられないこともないけど、違和感を感じます。

尾張戸神社古墳から箸墓古墳に移動したのかもしれない。

ちなみに、尾張部神社古墳には棺はあるのかどうかは,現時点では明確に確認されていないそうです。

おいらだいぶ前に、棺の中はからっぽだったという話を聞いたことがあるけどあれは何だったのだろう?

気を取り直して、尾張部神社古墳から、箸墓に「彦坐王」の亡骸が、移動したとすると、

白鳥塚古墳のもう一人の被葬者は誰でしょうか?

もしやと思い、広沢神社(広沢天神)からの位置を調べると、ほぼ真北に大碓命墓がありました。


ですが、少し誤差があります。50mほどでしょうか?

逆に、大碓命墓から真南に線を引いてみます。



広沢神社(広沢天神)より東に50mほどを通ります。

もしかすると、一の鳥居かな?確かめないで勝手に想像してはいけませんね。



なかなか時間が取れないので、訪問することは出来ません。

このことは棚上げにしておきましょう。

ちなみに、猿投神社西の宮は、猿投神社東の宮からの冬至の日の入りのライン上にあります。







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京都御所

2024-09-16 09:03:46 | レイライン


一度訪問したことがあります。

hpはこちら


平城京のことを調べていて、「そういえば、京都御所について以前書いたことがあるなぁ」と。

ありました。こちらです。

気になったので、もう一度レイラインを調べてみました。



伊久良河宮からの冬至の日の入りのラインです。


京都御所を通ります



引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した[6][7]。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。


土御門内裏跡付近を通りますね。


推測ですけど、このレイラインができたのは4世紀中ごろかもしれない。

または、日吉大社を起点とするレイラインとすると(同じラインですが)その時代以降なのですが

日吉大社の出来た年が推測できませんでした・・・

どちらにせよ、現在の土御門内裏跡付近にサタヒコたちの関係する何か特別なものがあったと考えるのが

しっくりとくると思います。

御所の鬼門にあたる猿ヶ辻はそこだけ築地塀が凹んでいて、これは鬼門除けを示すのだそうです。

御所を守護する日吉大社の神使が猿なのだそうです。

これって、サタヒコ(猿田彦)のことかなぁ。。。



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平城宮

2024-09-15 08:55:22 | レイライン


時代は、
............................................................................
707年 元明天皇(女帝)が即位する
710年 平城京に都をうつす
712年 「古事記」が完成する
...........................................................................

サタヒコの時代とは400年ほど違います。

ですが、レイラインがあります。


白鳥塚古墳の棺の場所と思われる場所から冬至の日没を見ましょうか



平城宮第一次大極殿を通ります


距離は、およそ130km

サタヒコの時代の技術がまだ引き継がれています。驚きです。

誰が測量したのだろう?サタヒコの時代の測量士たちが後に景行天皇に仕え

武内宿祢と呼ばれるようになったと推測します。

その、子孫でしょうか?

平城京の時代のことについては詳しくありません。コメントは控えます。

あえて言うなら、藤原不比等が関係しているのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS  後からふと思ったのですけど、サタヒコの時代、もしくはもう少し後に、この場所に何か重要なものがあったのかもしれない。

それが,400年後まで存続していて、第一次大極殿をその場所に上書きするように建てた。

そして、平城京がその周りに出来たと考えたほうが現実的かもしれません。


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箸墓古墳の被葬者は誰

2024-08-13 16:51:53 | レイライン


最初は、倭姫の古墳かと思っていたけど、違いましたね。

改めて、箸墓古墳からのレイラインを見てみましょうか



鏡作坐天照御魂神社を通ります。

なので、鏡作坐天照御魂神社に関係する人。

そして、斎宮の特異点からの春分の日の日の入りをもう一度調べました。

斎宮の特異点については、こちらこちらを参考にしてください。

前回は、箸墓古墳のくびれ部分から計測していますけど、鏡作坐天照御魂神社のレイラインは

後円部の真ん中からの測定なので、そちらが被葬者の場所かと思います。

それから、この時代の測量者たちは、春分の日のレイラインを、

その日の前の日に測定をしているようなのです。

春分の日のレイラインは、およそ4年でほぼ同じところに戻ってきます。

調べてみると、今年ではありませんでした。2026年の3月20日の春分の日です。

そして、その前日の特異点からの日の入りは



後円部の真ん中を通ります。

被葬者は、サタヒコと関係の深い人物と思われます。

箸墓古墳から見た、茅原大墓古墳のレイラインは、真ん中より少しずれます。


これはどういうことかというと、

茅原大墓古墳は、そこから見たレイラインの上に箸墓があるということ。

つまり、箸墓より後に設計されたということです。

なかなか建設許可が下りなかったんでしょう・・・・(笑)当然でしょうね。

さて、これだけの事実をあわせもつ人物は誰?

なかなか答えが出ませんでした。でもわかりました。

彦座王でしょう。

おいら、あまりにも白鳥塚古墳を意識しすぎていたようです。

以前、このように書いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「南北方向に主軸を持つ二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されている。」

とのことです。つまり、二人埋葬されているわけですよね。  ”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彦坐王は、いったん白鳥塚古墳に埋葬されたかもしれません。

しかし、その後箸墓古墳に移動したと考えると、すべてのつじつまが合います。

それをやったのは、景行天皇と思います。

偉大な、おじいちゃんですからね。


これで、奈良の気になるレイラインは大まかに調べることができました。

まさか、箸墓古墳の被葬者が彦坐王とは思いませんでした。

いつものことですけど、また新しい事実が分かると、今まで調べたことが違ってしまうこともあります

それを繰り返しています。

でも、その結果、だんだんと精度が上がってきているならば嬉しいな。
















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茅原大墓古墳の被葬者

2024-08-13 12:28:08 | レイライン
西殿塚古墳の被葬者は、ヒバスヒメと思います。

そこと、茅原大墓古墳を線で結ぶと、行燈山古墳と渋谷向山古墳があります。

でも、よく見ると行燈山古墳は後円の真ん中を通ります。

渋谷向山古墳は、くびれの場所を通ります。

このラインは、被葬者の場所を意味しているのでしょう。なぜ場所が違うのかはわかりません。

どちらにせよ、ほぼ同じ時期に作られているようです。


箸墓古墳も同じ時期なのです・・・訳が分からんくなってきた・・・

茅原大墓古墳は、帆立貝方古墳という形。


調べると、前方後円墳として築造が許されなかったことのようです。



分丘長 86m これも築造時期は同じころ。

ヒバスヒメは、垂仁天皇の妃です。しかし、垂仁天皇は、彼女の父親である彦坐王の死後に

美濃にやってきて、彼女を妃にしています。おそらく、美濃は侵略されたのだと思います。

狭穂姫(サホヒメ)命は、架空の人物。サホヒコ=伊勢津彦を伊勢から追い出したのは天日別命。

垂仁天皇本人、もしくは兄弟かもしれません。

295年にホムチワケが出雲に来ています。しばらくして倭姫がサタヒコの元に来ています。

ホムチワケは、架空の人物。

サホヒコとサタヒコが、奈良に行って垂仁天皇を武力で脅したと推測します。

ヒバスヒメは人質のようなものなので、武力衝突はなかったかもしれません。

包囲網を作ってジワリと締め上げた?

それに負けた、垂仁天皇は交渉に使者を出した。

それが、ホムチワケの物語ではないでしょうか?

倭姫は、人質としてサタヒコの元に来たのだと思います。

でも、姉の子供なので優しくしたみたいですね。

詳しくは、こちら参考にしてください。   

話が長くなりました。

そういうことで、茅原大墓古墳の被葬者は、垂仁天皇とすると、

二つの古墳は倭姫と景行天皇ということになります。

大きいほうの渋谷向山古墳の被葬者が、景行天皇でしょう。


行燈山古墳は倭姫になります。








崇神天皇は、桜井茶臼山古墳と思います。

すると、箸墓の被葬者は誰?







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ホケノ山古墳

2024-08-13 09:56:46 | 歴史



全長約80㍍とほかの古墳と比べるとやや小さいですね。



おそらく、この地域では、最古の古墳ではないだろうか?

レイラインは、見つかりません。



もしかすると、被葬者は開化天皇(かいかてんのう)かも?



開化天皇の生誕は200年ごろと推測。



妻は竹野姫。彦坐王の母親です。竹野姫は、後に丹波に帰っているようです。

崇神天皇の母親は伊香色謎(いかがしこめ)命で、別の人のようです。


サタヒコの母方(丹波)の系図


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),

                    ↓

七御子・建諸隅命 (川上摩須)    丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇  
                                  ↓                  

八御子・倭得玉彦命   川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王    (兄) 崇神天皇          
                              ↓ 

九御子・若都保命                  サタヒコ=朝廷別王 
      ↓                     ↓ 

   高材比売(たかきひめ)  ーーーーーー     迦邇米雷王

こちら参考にしてください



三輪山がきれいに見えます


箸墓古墳もすぐ近くです

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