この場所は、サタヒコが丹波から船を造る技術者を連れて来て、船を建造した場所と思います。
尾針神社付近がその場所でしょう。
祭神を見てみましょうか。
天火明命 ですね。丹波の製鉄技術者の系図を見てみましょうか。
天火明命は、この表の、一番上の「天香語山命」の父親と思います。
ウィキペディアより引用します
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一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったという。そしてその祖神・天火明命を祀ったことに始まるとされている[2]。
付近には同じく尾張氏ゆかりの式内社・尾治針名真若比咩神社が鎮座することから
尾張氏との関係が示唆されており、伊福部氏が尾張から西遷したとする説[3]や、
逆に吉備から尾張へ尾張氏が東遷していったという説[4]がある。
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最近、ふと思うのですけど、丹波の技術者と言う人たちは、まず、
レイラインの測量や、星を見て暦を作ったりする集団がいます。
製鉄をする技術者がいます。
そして、今回の造船をする集団がいるようです。
この人たちは、別々の人だろうか?それとも、同じ人がある程度仕事を兼ねているのだろうか?
どうなんでしょうね? それは今後の課題としておきましょう。
さて、なんでこの場所に来て、船を造ったのか?
サタヒコは、このころには「少彦名神(すくなひこな)」と呼ばれていたようです。
時代は、アジサハヒメを妻とする時より前です。
290年頃と推測します。
サホヒコとサタヒコは、284年頃には、すでに越に居たと思います。
その頃から、丹波、そして出雲に行っていたと推測します。
出雲での生活が落ち着いたのが、290年頃でしょう。
サタヒコは、岡山に来て、船で四国に渡ったようなのです。
淡路島にも遠征していると思います。
さらに足を延ばして、熊野にも行ってるのではないだろうか。
何故かと言うと、奈良を包囲しようとしていると思われるのです。
伊勢津彦=大国主と、サタヒコの崇神、垂仁天皇への逆襲でしょう。
でも、サタヒコの姉のヒバスヒメが奈良に居ます。
直接武力を行使するわけには行けませんよね。ジワリと包囲する作戦と思われます。
そして、ホムチワケが、出雲に行く話があります。294年頃と推測します。
これは、垂仁天皇が降伏して和解を求めに起こした行動ではないかと思うのです。
その年に、倭姫がサタヒコのもとに来ています。人質なのでしょう。
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