年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

追い込まれる

2011-05-19 21:25:40 | Weblog
                                          
 受身でする仕事の疲れは、攻めの仕事の疲れの2倍以上あるような感じがしている。攻めて行く仕事は、一旦立ち止まって、攻撃のシナリオを頭に描きながら、動きつつ修正を加えていくので、自分のペースを図ることができる、に対して受身の仕事は次から次へと流れ来る対象を全て拾い上げながら、処置するあるいは処理することになるので時間との戦い如何である。しかし攻めの仕事は自分のアイデアであったり知恵であったりすることが多くあるがゆえに、疲れの質が違う。で、今日も吐き気がしてくるような1日であった。フト、JPサルトル著「嘔吐」を思い出した。人生の意味を実存にもとめても無意味・・・などと。
 嘔吐すればすっきりしてくる、しかし吐き気の方は、ずっと続くので気持ちが悪く不安定である。

追い込む

2011-05-18 20:54:04 | Weblog
 野いちごの季節になった。夕暮れ時間が延びたので、夕方帰宅してもまだ外は明るいのを見計らって、山辺へ車を走らせた。といっても数分走ればすぐ山辺に入るので、放置されたみかん山に歩いていくと真っ赤に熟れた野いちごを見つけることが出来た。しかし、わずかしかなかったけれど、行った場所が悪かったのだろうか・・・                                    
 毎夜暗くなった川原に出て観察している。もうホタルが飛んでも良い時期になったから、今夜こそは・・などと心待ちにしているのである。でもまだ飛んでいないけれど後数日でホタルが飛ぶのを見ることができるだろうと思う。野いちご、ホタルの季節は、初夏の季節でもある。寒くもなく暑くもない、湿度も高くなく、空には雲も浮かんでいない、穏やかな初夏を迎えることができるのはありがたいと思う。一方震災のことを考えると、こちらでのんびりとすごしていてもいいもんだろうか、などとフト思いがよぎる。
                        
 少年院へ行く。J君と2回目の面接である。今後、施設を出てからの動き方を、いくつかのパターンとして選択しやすいように情報を置いて帰ったけれど、なんとなくスッキリしないでいる。私はいつでも誰にでも、自分で探せ、自分で考えろ、自分の力で動くようにと言っているけれど、今回のように過保護気味に接する様子に、少々嫌気がきている。自分のこれから行く道くらい自分でやって、失敗したりしながら生きていけばよいものを。                           
 
 

大事なことはインディアンに学べ

2011-05-16 00:00:00 | Weblog
 ―銀行に500$を借りに出向いたひとりのインディアンの年寄りの話―
 銀行員がさっそく所定の用紙を取り出してじいさまに質問した。
「まずはそのお金で何をなさるおつもりなのですか?」 「ジュエリーを街に持っていって売るつもりだ」
「ほー、では担保は何かおありですか?」 「担保?担保とはいったいどんなものだ?」
「えーとですね、担保というのは、貸す金額に見合うだけの価値のあるもののことですよ。おじいさん、車はお持ちですか?」 「あるともさ。1949年のシボレーのトラックだ」   銀行員は頭を振りながら、
「では、家畜なんかどうです?なにか家畜はいませんか?」 「おおいるともよ、馬が1頭いる」
「その馬は何歳ですか?」 「さあなぁ、もう歯がなくなっているぞ」 すったもんだの挙句、銀行員はなんとかそのじいさまに500$を貸すことした。

それから数週間後のこと・・・・・・・・
 くだんのインディアンのじいさまがふたたび銀行に姿を見せた。
 懐から紙幣をたっぷり巻いたものを取り出して「ほれ、借りた金を返しに来たぞ」と言った。そして銀行員にローンの支払い分を手渡した。「残りのお金はどうなさるおつもりですか?」銀行員からたずねられると、じいさまは応えた。「ティピのなかにおいとくさ」 「どうです、うちの銀行に預金なさるというのは?」
「預金?預金とは、なんだ?」「わたしどもの銀行にお金の管理をまかせていただくことです。お金をつかいたいときには、いつでも引き出せますから」
 インディアンのじいさまはカウンターに身を乗り出すようにして銀行員に聞いた。
 「で、あんたところにはどんな担保があるのかね?」
                                    
 近頃アメリカインディアンの本をなにげなく読んでいる。フンフンといいながら頭の中を掃除するようにして読んでいる。 

物忘れがひどくなった

2011-05-15 20:53:28 | Weblog
 今日は、清水寺貫主の講演を聞きに行く予定をしていたにもかかわらず・・・来週長男と次男の家族がそれぞれ来る予定になっており、家の片付けなどしたり、弟の病院送迎をしたり、必要なものを実家に取りに行ったりしていると、まったく思い出せなく、入場整理券を準備していたことすら忘れて、思い出したのは、夕方の妻の一言、アレレ聞きに行く時間なかったね・・で思い出す始末。

 これでは、ボケが始まるのは早いだろう・・と思うけれど、それはそのとき、なんとかなるだろう・・
                                           

振り返り

2011-05-14 00:00:00 | Weblog
 キャリアカウンセリングにおいて、私たちがよく使っている言葉に「振り返り」がある。今まで自分が過してきたあらゆる生活のなかから、遺跡を発掘するがごとく、丁寧に時間軸を追っかけながら、内的なものと外的なものとを選別し磨きをかけ、新しい自分を再発見することにより、自分の価値を見出す。あるいは人様に開陳するが如く、博物館に展示し品定めをしてもらう・・・つまり応募書類などに書き込んで、応募先に見てもらうなど、そのようなことをあつかましくもやっている。この振り返りによる、「気づき」によって自分の歴史再発見となるんだろう。
                                     
 はしだのりひことシューベルトの唄がラジオから流れてきた。題名は「風」、♪人はだれもただ一人旅に出て・人は誰もふるさとを振り返る・・・・そこにはただ風が吹いているだけ・・・・何かを求めて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ♪ 
 フト思った。カウンセリング中、振り返りの中で、風が吹いていることを発見することが大変大切なことではなかったのか・・・などと。しかし、右を見ても左を見てもカウンセラーの先生方は、マニュアルに沿って、クライエントの自分歴史の遺構を発見させるべく躍起になって、刷毛を持たせてやっている。しかし、いくら振り返っても、風しか感じらない、懐かしい風がさび付いた古釘の匂いととも感じるだけ、そのような答えが、唄の中から聞こえてきた。
 
 「こころ塾」の3周年総会あり。年々確実に階段を上がっている。そのような感想。

今日は死ぬのにもってこいの日

2011-05-13 00:00:00 | Weblog
 「今日は死ぬのにもってこいの日だ。
 いきているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
 すべての声が、わたしの中で合唱している。
 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
 今日は死ぬのにもってこいの日だ。
 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
 わたしの畑は、もう耕されることはない。
 わたしの家は、笑い声に満ちている。
 子どもたちは、うちに帰ってきた。
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。」                

 「わが子よ、もしおまえの目の後ろに雨が降れば
 明日の夜明けは、黒い夜明けだ。
 もしおまえの微笑みに陰があれば
 太陽は、空の黒い実をむすぶだろう。
 もしおまえの背中が、恐怖に濡れているならば
 煙はけっして、お前について行かないだろう。
 もしおまえの歌が恨み節のたぐいなら
 木立はおまえに答えをよこすまい。
 おまえは見ることができる、
 わたしたちが矢のように折ってしまった夢を。
 あるいはわたしたちが辿ったすべての道が
 たくさんの悲しみに覆われているのを。
 しかし、もし大地がおまえの身内に生きていて
 おまえがその根を自分の血で育てるならば
 おまえは樹木のように高く伸び
 月もおまえの勇気を讃えて、微笑むだろう。」
 
 「今知っていることすべてを
 もっと以前に知っていたならば
 人生を年寄りとして始めたことだろう、
 若さを置き去りにすることのほか
 人生に恐れることなど何もない
 そう言ってくれた老人たちにだまされた年寄りとして。
 そんな人生送って
 いったい何が面白かっただろうか?
 わたしのあやまちが
 わたしにどんな家庭をもたらしたというのだろう?
 このままでいるほうがいい。
 今やわたしは、若さよ帰ってこい、と願うこともできるし
 若さにこう言ってやることもできるのだから、
 老年とは、雨が降らなくても
 緑の丘がいかに豊かに見えたかを憶えていること 
 それ以外の何ものでもないのだと。」
                    ナンシー・ウッド著
 
久し振りに読むと数年前の感覚とは違う、と感じた。生は社会的なもの、死は個人的なもの、というように。

夜を通して

2011-05-12 20:40:47 | Weblog
 充分な睡眠時間が心地よい朝を約束してくれる。充分に夜を過した朝が気持ちの良い一日を送ることができる、となると、自分達の夜のありようが問われるのではないか。
 私が二十歳のころ、森山良子の唄の中で、たしか、「禁じられた恋」という唄が流行っていて、その中の歌詞に・・・あ~なたをも~とめ~やみの中を~かけてゆきたい~・・・そのような唄があった。この唄を初めて聞いたのは京都のアパートで過した自分の闇夜の当時である。確かに求めるものが強く高いものであればあるほど、闇夜の中をくぐらなければならない、ようになるのではないか、と思ったりする。別に男女の恋に限ったことではない。例えば死生観であったり、生きることの意味を求めたり・・・狭い場所から遠い宇宙を考える、真っ暗の部屋の中で自分について考える、闇の中からのみ生れる新しい希望の光を感じる。それには、やはり充分な夜を過すことが、次の心地よい自分を作るのではないか。
             
 30歳の人、子供が一人いて、ワケあり離婚した。そのとき自棄になって、様々な事件を起し、逮捕され、ながらく刑務所に入っていた。このたび仮釈放され出所、新天地を求めて、ここで働きたい、そして生まれ変わりたい・・・と話してくれた青年おり。
 本日新たな仕事をやるようにと、仕事を増やされた。大目に見て、量としてたぶん他の相談員さんの2倍になるのではないか、などと思うけれど、嫌な気持ちはまったくしない。喜んで引き受ける。きっとプライドだけで仕事に取り掛かろうとする、昔からの悪いクセが出たのかもしれない。残りわずかの職業生活、自分が潰れるか、潰されるかの競争だと考えると、とても愉快な気にもなるから不思議。お金儲けとか、得したとか、損したとか、良いとか、悪いとか、すきとか嫌いとか、チマチマしたフィールドから考えないことにする。難しいことは、大雑把に決断するだけである。厳しさだけが自分の教師であり、暗闇こそが先行きの道しるべになる・・・しかし自分は先行き短いけれど・・・トホホ

薫る5月

2011-05-11 19:55:04 | Weblog
急に蒸し暑くなった。この間までは、まだまだ寒い寒いなどと言って布団に電気毛布をしのばせていたのに・・・まだ我が寝床はそのままであるけれど・・・。昨年は、確か、暑い暑いなどといっている間に、秋が短くて、急に寒くなり冬がきたことを思い出した。今回も、じっくりと穏やかな春の陽射しの中を過したい気持ちがあるも、春が短くて、急に暑くなり夏が来るんだろうか?と思わざるを得ない。私たちは、秋に夏の厳しさから逃れたことで様々な想いを深めることが出来、春になれば厳しかった冬から解放される喜びを抱くことができる。厳しい暑さの夏、厳しい冬の寒さを耐えたご褒美として、秋の愁いがあり、春ののどかさであったりするんだろう。その時間帯が少なくなっていくと思うとどのような変化が自分達に現われてくるんだろうかと考える。
                                
 昨今の気候からみて、この地方は乾季と雨季の2シーズン制に移行する・・などと先行きを思ったりもする。四季のある温帯地方から四季のない豪雨か日照りかの日が多い地方になれば、自分達の意識の変化は、どのようになるんだろうか。砂漠地帯に生れたのはキリスト教、対して仏教が生れたのは森林地帯、森林地帯に生れた自分達の多くは、死後の世界観を仏教によって教えられる環境を持つことに対して、生か死の二者択一の例えば砂漠のような生活環境になれば、一発の事故により、一発の震災により、今の今まで話していた人が、突然に前触れもなく亡くなるなどの現実を思うと、自分達の心が乾いて無機質的な方向に行くのではないか・・・などと妄想してしまう。

 今の季節、目に見えるのは新芽、青葉、そして白や黄色や紅い花、それらから春を感じるだけではない。緑の木々から、香る生命力溢れた風の匂いが、生きている実感をもたらしてくれる。とくに栗の木から、クスの木からの香りが自分の背中の背筋をピシャっと伸ばしてくれる。

話し合い

2011-05-10 00:00:00 | Weblog
 
 自宅から塾へ通いながら勉強を続けている4男と、顔を合わす時間がほとんどない。夜遅く帰る毎日につき、私はその時間に寝ているからである。朝二人とも8時前後に家を出るからそのときに、チラッと話すくらいか。で、今朝の話は、成績優秀なグループとそうでもないグループの差が面白いと、話してくれた。前者は、あまり点数のよさを勝ち誇ることがないし、質問すればわからないことは知ったかぶりせず、わからないといい、わかることは親切に教えてもくれる。全てにわたって謙虚な姿勢である、に対して後者は、点数の良し悪しで一喜一憂し、良ければ勝ち誇ったようになり、悪ければ落ち込んでいる姿が目につく。だから全てにおいて上がり下がりの起伏が多い感情が見える・・・などとパンをスープにつけながら話していた。ところで先日大阪へ行き武者修行の模試を受けた結果の自己採点はいかがなものか、と聞くと、目標より低かったなどと謙虚でもない姿勢で話しておった。
                           
 テレビの天気予報によると今週は、雨模様のぐずついた天気になるとか。雨になれば、ブルーベリーに水撒きしなくとも良いから助かる。

母の日につき

2011-05-08 00:00:00 | Weblog
 
 今日は母の日だと知ったのは、ホームセンターで大量のカーネーションの鉢が置いてあったからである。次々と老いも若きも手に取っている買い物客を眺めながらも、自分は手に取ることがなかった。
 なぜか、コマーシャリズムのなかで“感謝”を強要されている感じがしないまでもない。問題は日常の中で、感謝の気持ちを具体的に現すこととはどういうことなのか、花の一つで表現することが最もふさわしいことなのか・・・などと喉に骨が引っかかったような按配で、毎年母の日を通過しておる。だから感謝する日常生活のありようを模索している日々から抜けきれないのかもしれない。もちろんっ反対に感謝されるってことは考えたこともないが。
                 
 長袖を着るのが暑くなった。しかし自分は、夏服を出していないので昨日一昨日ままの長袖シャツ。その格好で昨日の続きの畑の草抜きをする。上天気の下での作業、汗が出て蚊がブンブン飛んできたので、小1時間足らずで終了する。
 グリーンセンターで多年草の植物、しかも花の咲き終わった鉢を数種類、半額の値札に釣られて即購入する。今の花を楽しむことではなく来年咲くであろう花を楽しむためである。
 夕方、免許証書換え講習から帰ってきた妻が、カーネーションを母親に持っていき、奈良の母親には電話をしたと言った。4男は、毎年のジャイアントコーンアイスをプレゼントして、他の子達からは母の日の電話連絡があった、と話してくれた。なぜか最近からだの切れがない、体が重く感じている。