年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

餅をつく

2015-12-22 00:00:00 | Weblog
 今日の相談業務を終えて塀の外に出る。そして駐車場に置いてある車に乗り込みスマホを開くと妻からのメールが入っていた。スマホなどは規則により塀の内側には持って入ることができない。よって何か用事ごとや緊急の連絡がある時には、直接私に連絡を入れることができないのだ。メールには、帰るときに、もちとり粉を買ってきて!とあった。そして自宅に帰る途中にあるスーパーに行って食料品の棚にある粉を探す。なかなか見つからないので店員さんに聞くことにした。すると店員さんは、もち粉を持ってきてくれた。ウヌ・・お餅をつくときにこれでいいですか?と聞く。すると店員さんは困った顔をした。もちとり粉ともち粉の違いについて私にはわからない。だから尋ねるも、店員さんにもわからないらしい。店員さんは私の家は小さい時からお餅をついたことがない、お餅はいつも買っていた・・、との返事が返ってきた。

 私がもの覚える時期から実家でも年末にいつも父は、杵と臼でペッタンペッタンついていた。私も杵を振り下ろす力が付くようになると、つまり中学生のころからは私と父が杵を、母が臼の横に立って取り、弟妹が丸める作業をワイワイ言いながらやっていた思い出がある。
 さらに昔、その父の実家では、朝の3時起きで家族総出で早朝から夕方までの一日をかけた年末行事であったらしい。男衆が数十もの餅をつく、合の手を打ちながら臼で手で取る。そしてつきあがったお餅を丸めるのは女の人・・というように役割分担があった。私も小さなとき、父親に連れられて何度か朝早く行ってお手伝いをしたことがある。小さな私にも役割を与えられたのは、もちとり粉を台の上にパラパラとふりまく係である。手はもちろんのこと着ている衣服が真っ白になった。もう一つ与えられた仕事は大きな釜から蒸気が力強く上がるように薪を竈(かまど)であるおくどさんに入れることであった。( 書きながら・・・おくど・竈などは消えた言葉になってると実感するが )今はいないがバァちゃんと何やら話しながらかまどの前に座り込み、おき火になったところでスルメを焼き香ばしい匂いが辺り一面に広がっていた。
 で本日、家で奥さんと二人で、昔から使っている「もちっこ」で餅つきをしようと。

 先日購入したもち米10kgを蒸してお餅を作ること、開始時間2時半でも終了したのは夜10時・・マイッタよ。不揃いのお餅は私が不器用に。

 午前中の連行されてきた刑余者は30歳の青年。成育環境を見る。父は有名大学の教授、母は元高校教員、妹は米国の大学留学中、その下の妹はフランスで結婚生活している。本人はラグビーで強豪校に入学するもレギュラーにもなれず、勉強の方も芳しくなく、両親から常に否定されながら生きている・・と記入されている。ぐれた時期もある。それでもがんばってある国家資格を取得し仕事をしていたが、職種を変えることはなかったが会社は1~2年で変わっていった。更に両親から馬鹿者扱いが続いた。自分の本当の気持ちを分かってもらったことはないという。今日私の前で吐き捨てるように話したことは、父とは思はないが、一度でも、私にすまなかった、と頭を下げてくれたら、と云った。アルコール依存、や薬物依存による犯罪かもしれない。多くの市民は、その青年に甘ったれんじゃない!などとカツを入れるんだろう。きっと。でも、家族の中で通常の「優秀」な家族の中にあって一人だけ否定され続け陰に居場所を見つけざるを得なかった人が、どのような叫び声を上げているのかの聴き分ける耳を持つことができなかった群の中にいることの不幸を想像せざるを得ない。本人が私に語ってくれることの一つに、自分は発達障害です・・と。そして父から刑務所に送ってくる荷物は毎回発達障害の本だけですとも。この家族は一人息子にどう対応しようとしているのだろうか・・。本人は私に満期を迎えるまでは帰住先を自宅にしています。引受人が母親になってますから・・と。そして以後は家を出ます、と。両親に対して逮捕され刑務所に収容されるまでは恨んでましたが、5年間の囚役生活で恨みの感情が無くなり感謝する気持ちになりました、とも。そして世間一般の人が言われるような、両親の様に立派な人間にはなれませんが、親とは離れたところで感謝しながらも、たぶん連絡取ることもなく親に頼ることもなく多くの人の助けを借りながら生活をしたいと考えています・・と明るい顔をして話してくれた。気がつくと予定の50分を過ぎていた。

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