暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 26

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 26

龍澤山 禅昌寺(りょうたくざん ぜんしょうじ)
下呂市萩原町中呂

 龍澤山 禅昌寺の開山は、恵心僧都、源信が、萩原町桜洞に庵をひらき、観音菩薩像を彫刻して霊場を開いたのに始まると伝える。後円融天皇のとき皇后の安産祈願のため勅使が遣わされ、無事皇子誕生となったことから【大雄山 圓通寺】の寺号が与えられた。この皇子がのちの小松帝である。
 しかし、その後一時衰微していたが、享禄元年(一五二七)に三木大和寺直頼により再興された。
三木直頼は、高山松倉山に松倉城を築城した三木自綱の祖父(一説では父?)にあたる。
三木氏の居城である松倉城が落城すると、寺号は、龍澤山 禅昌寺となった。三木氏の菩提寺であることには変わりがない。
 臨済宗妙心寺派の別格寺班で、寺格は十刹に数えられる名刹で、江戸時代中期には、北海の物産を扱って巨財をなした【飛騨屋久兵衛】の菩提寺であったことから、本堂が寄進され建立された。普請は谷口五兵衛宗儔と、弟の紹芳による。
 建材はすべては【楢泉庵主、横山彌右衛門】によって調達され、大野郡清見村八日町(現高山市)で調達され、飛騨街道を中呂まで運ばれた。建築材を運搬するため、石浦(高山市)と宮村のあいだにあった口と目番世の橋が架け替えされている。
【飛騨屋久兵衛】と、【楢泉庵、横山彌右衛門】は昵懇のあいだとなった。

 本堂の落慶法要には駿河国原宿(現静岡県沼津市)の高僧、慧鶴 白隠禅師が招かれた。白隠禅師は、中仙道木曾福島宿を得て飛騨入りし、法要をつとまたあと、萩原を経て高山にはいり、宗猷寺では『碧巖録』の講義が行われたがこれには越中富山から一〇〇名を超える僧、尼僧の参加があったと伝わる。このとき、白隠禅師は楢泉庵、横山家に止宿している。白隠禅師は、そのあと、飛騨國府の古刹である、安國寺に足を運び、各地で墨蹟、画を残している。

 龍澤山 禅昌寺には、すり鉢に添えられた擂りこ木にとまる小鳥が描かれ

  うぐいすを まねたとて みそさざい

 の軸が添えられた画幅その他の書がある。



◆01339 楢泉庵 横山家 25

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 25

飛騨東照宮(通称 松泰寺)
高山市西之一色町

 創祀は、高山藩三代藩主、金森 重頼(かなもり しげより)により、高山城中に東照権現社が勧請され、美濃赤坂(現大垣市)より転居した西之一色村の鴻巣氏により、寛永五年(一六二八)に現在の西之一色村尾崎に遷座となったと伝わる。
 元禄五年(一六九二)に東耀山松泰寺寶珠院が開山し、飛騨東照宮の別当寺となったが、奇しくもこの年は金森氏が改易となって、出羽國上ノ山(山形県)へと転封になっている。金森氏はこのわずか三年後にふたたび移封となって、美濃の郡上藩に移されたが、宝暦八年(一七五八)に一揆を咎められ断絶となった。
 今も歌われる、郡上のかわさきの歌詞にある、

  郡上の八幡出てゆくときは
    雨の降らぬに袖絞る

 とは、このときの悲哀をうたったものと言われ、飛騨高山からも多くの縁者が見送りに訪れたと伝わる。
 現在の祭神は、
トクガワイエヤスコウ 源朝臣徳川家康公
オオヤマクイノカミ 大山咋神 山王神
オウジンテンノウ 応神天皇
ハヤタマオノカミ 速玉男神 熊野神
クシミケツノカミ 櫛御気野神(櫛御食野命) 熊野神
キクリヒメノミコト 菊理姫命(白山比命 白山神
イザナギノミコト 、伊邪那岐命 
イザナミノミコト 伊邪那美命
摂社
金龍神社
祭神
カナモリナガチカ 

 江戸時代中期に本殿が改築された。交渉には名工中川吉兵衛がかかわったており、白虎、青龍、玄武、朱雀の四紙彫刻があったが、なぜか現在見当たらない。本殿と唐門および透塀は岐阜県指定文科財に指定されている。

建材、彫刻材の納入したのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 24

2016年03月09日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 24

飛騨國分寺 三重の塔
高山市総和町

 飛騨國分寺は、聖武天皇の発願により、天平十三年(七四一)に建立されたと伝わる。境内東北隅に七重の塔礎石がのこる。創建時飛騨のような小国に七重の塔が建造されたのは驚きであるが、すべて飛騨國のいわゆる斐太ノ工の手になるものだったと伝わる。
 しかし、この七重の塔は 弘仁一〇年(八一九)に火災によって失われ、斉衡二年(八五五)ころ再建された。この塔は五重だったと考えられている。
 天正一三年(一五八五)金森長近が可重(ありしげ)とともに飛騨入りし、三木自綱(姉小路氏)の松倉城を攻めたとき、この兵火にかかって炎上した。
 元和元年(一六一五)、金森可重氏により三重塔が寄進されたが、寛政三年(一七九一)に暴風雨により倒壊。その後しばらく塔のない状態が続いたが、その三一年後の、文政四年(一八二一)にいたり、三代目水間相模守が請負い工匠を小笠原氏が務めて再建されたのが現在の三重塔である。筆者はその設計図を拝見したことがある。
 小笠原氏の後裔である笠原烏丸氏のお話によると主要な建材は八日町の楢泉庵主、横山彌右衛門により納入されたもので、その材木の対価はおよそ五百両に近いものだったという。塔心となる巨大な原木は、目処(めど)に太い縄を通し八日町湊より、善男善女数百人により、これを激励する木遣の采配により雪道を曳き、現地では【めでた】をうたって散会した。

 三重の塔建造の材木大五百両とは、莫大な金額であるが当時の屋臺建造には、少なくとも一〇〇〇両位はかかったものであった。











◆01339 楢泉庵 横山家 22

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 22

了徳寺 鐘楼
高山市(旧清見村)牧ケ洞

牧ケ洞了徳寺ノ鐘楼は谷口延儔(與鹿の兄)の建立。四方の彫刻は谷口與鹿。
高山上三之町の屋臺である惠比壽臺建造の前年にあたる。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 19

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 19

飛騨総社 樂臺

 工匠は松田亮長。当初谷口家が手掛ける計画であったが、谷口與鹿が高山を不在にしていたため松田亮長が担当することになった。でダン彫刻は初夢三夢にちなみ、櫟文峰(あららぎぶんぽう)が、四季の草花を描き、これに源氏香を添えて源氏物語のと関連を持たせている。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 18

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 18

應龍臺
應龍は千年を経ると飛龍になるといわれる霊獣であるが、当屋臺は、谷口與鹿と、松田亮長ノ両名の作になる應龍が無数日彫刻されていたと伝わる。
谷口與鹿と、根付彫刻でも著名な松田亮長(まつだすけなが)によって建造された屋臺であったが、惜しくも火災にあい焼失した。長江の一部は分散されていて一部は残ると伝わるが、現在所在が知れない。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 17

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 17

鳳凰臺
高山市大新町
 谷口與鹿の最後の屋臺彫刻がのる。與鹿の牡丹とも賞される谷口與鹿だが、牡丹は、キンピウゲ科(Ranunncuruceae)に分類されていたが、近年新たにボタン科がたてられることがある。三心皮のもの、五心皮のものがあるが、当、鳳凰臺には、三心皮のものが彫刻される。
 ふつう、牡丹を彫刻してくれと頼まれれば花を彫るものであろうが、花ではなく地味な種子を彫刻したところに與鹿の自信がうかがえる。とうてい余人にはまねできない。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料
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◆01339 楢泉庵 横山家 15

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 15
崑崗臺
高山市片原町
林和靖(りんなせい)にちなむ屋臺。
かつてからくり戯が演じられた。一部失われているが当時の人形が伝わる。林和靖は梅を大層愛したといわれ、ながい冬をへて梅が咲くのを喜んだという。唐子はそのようなことはお構いなしに、菜の花を摘んでくる。林和靖のかわいがっていた鶴は主人の心情をくみ、短い春がゆき、梅が終わろうとしているのを憾み、唐子の摘んできた菜の花をついばんで捨てようとする。唐子は怒って弦を追い回すが鶴は容易につかまらず、せっかく積んできた菜の花をすっかり捨ててしまう。
 からくりが演じられる機関樋(からくいとい)の上に置かれたかごから黄色の鮮やかな菜の花が乱舞しながら散るのが見もので、見物衆は飛騨地方で【茎立茄(ふくだつな)】とよばれるこの菜の花を拾っって持ちかえった。
 このからくり戯は、現在岐阜県養老町でにおいて高山から伝わったものがいまも上演されていて、高山祭で次に復活するからくり戯ではないかと期待されている。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 14

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 14

石橋臺(しゃっきょうたい) 
高山市上二之町上組
臺名は、謡曲の石橋にちなむ。
建造は、文久三年(一八三六)起工、(慶応元年(一八六五)の竣工。
彫刻は浅井和助。
石橋臺見送り
 石橋臺見送りは、現在は複製品に架け換えられているが、本歌は、【朝鮮毛綴・ちょうせんけつづれ】と伝わる。きわめて尠い【綴織。つづれおり】で、産地は、朝鮮半島、また、中国北部、あるいは中国北部の産ともされるが不明な点が多い。現在は朝鮮半島にはまったく保存されていないと記述したが、その後、韓国のソウルにある、

【ソウル歴史博物館】
所在地 ソウル特別市 鍾路区 新門路2街 2-1
電話番号 02-724-0274~6
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=491
 に、二面が保存されていることがわかった。

 山車にかけられる懸装品としては、当、石橋臺見送りのほか、三重県上野市の上野天神祭りに曳かれる、上野新町の山車、【薙刀鉾・なぎなたほこ】の胴幕が朝鮮毛綴といわれ、
滋賀県日野町の【日野祭の山車】、【水口町の山車】にもかけられるとの情報があるが、詳細は不明。
 大津市の【天孫神社祭礼】に曳かれる、【神功皇后山】の旧胴懸である、【楼閣庭園圖】は朝鮮毛綴だと伝わる。
 京都【祇園祭】に曳かれる山車、【岩戸山】の旧見送りは、前懸となっていた【玉取獅子、鳳凰、虎、鶴】が、朝鮮毛綴だといわれる。
 さらに、 放下鉾(ほうかほこ,ほうかぼこ) 京都市下京区新町通四条上ルの山車、【放下鉾・ほうかほこ】の懸装品が朝鮮毛綴。 京都市下京区室町通四条下ル鶏鉾町の山車【鶏鉾・にわとりほこ】の【日月鳳凰に牡丹圖】の【二枚継(にまいつなぎ)が朝鮮毛綴。
 丹波町で曳かれる山車の見送幕である、【楼閣風景圖】が朝鮮毛綴。
 京都府亀岡市にはいくつかの朝鮮毛綴が伝わり、【鍬山神社祭礼】で曳かれる山車、【武内山】の、
 胴懸、【窓繪對瓶圖】、【四花瓶圖】は、安永六年(一七七七)、朝鮮李朝一八世紀作。
 胴懸、【窓絵四蝶圖】、【四對花瓶圖】は、安永六年(一七七七)。朝鮮李朝一八世紀作。
 後懸、も安永六年(一七七七)。朝鮮李朝一八世紀作。
 袖幕 【五羽鶴図】これも、安永六年(一七七七)の作。
 さらに、山車、【浦島山】の胴掛幕、【玉取獅子】」が朝鮮毛綴。
 京都府宮津市の山車にも朝鮮毛綴が架けられると伝わるが、詳細不明。
 など貴重な作が伝承される。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 12

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 12

・大八臺
 高山の屋臺で演奏される屋臺囃子のなかでも、八幡祭の「大八」はとりわけ著名である。大八臺で演奏される「大八」を、そのままか、または何んらかの形で編曲して演奏する屋臺は、八幡祭の
金鳳臺、豊明臺、鳳凰臺鳩峰車などであるが、秋の八幡祭の屋臺のみにとどまらず、春の山王祭の石橋臺、崑崗臺、鳳凰臺、琴高臺、青龍臺惠比壽臺、大國臺などでも演奏される。
 大八臺が正調「大八」であるのは当然として、他の屋臺組でもこれを編曲した「大八崩し」が演奏される
しかし、かっては曲名はおなじでも、その大八崩しは演奏される屋台組によって微妙に音色や調子が異なったものである。
 これは、囃子を指導する師匠や口伝に個性があり、伝承の課程で各屋臺組独自の曲に変わっていったからである。
 「大八」という屋臺囃子は高山の祭囃子固有の優雅なお囃子で、他には例を見ない。
 では「大八」はどのような過程からうまれたのだろうか?
 江戸時代、文化五年(一九〇八)、ふたりの子供をつれ、背中に琴を背負った浦上玉堂が高山を訪れた。もとは白だったであろう着物とも思えない衣服は、長旅にすっかり汚れ、ほこりと汗にもつれた蓬髪は、見る人の眉をひそめさせた。この姿で玉堂は各地を旅し、しばしば物乞いと間違えられて追い払われた。ふたりの子供は春琴と秋琴である。
 玉堂の旅姿を伝える古書はこう誌している。玉堂はこの足で、千種園に田中大秀を訪ね旅装を解いた。
 大秀は、京都で本居宣長に学んだとき、玉堂を知り、琴の教えを受けた昵懇の間であった。この玉堂の高山訪問は驚喜をもって歓迎された。
 大秀が玉堂の来飛を望んだのにはいまひとつおおきな理由があった。
 下一之町の屋臺の改修にあたり、大秀はその相談を受けていた。国学者である大秀は、従来他の屋臺とは趣を変え、すべて和風で
仕上げる構想を練っていたが、おなじ高山町内で漢学の学問所を開く赤田臥牛もこれには賛成していた。
 しかし、各地を放浪する玉堂の所在を掴むのは、至難のことで、臥牛は「白雲中の鶴を探すより難しい」といって嘆いた。その鶴が高山に舞い降りたのだから、そのよろこぶは一様ではなかった。文化五年、玉堂は水戸藩で逗留し、薬種商の感章堂主人の岩田健文に、琴の指導をしたことがつたえられているが、高山を訪れたのはこのあとのことではないかと考えられる。水戸から高山へ道筋は不明だが、中仙道から、碓氷峠を越え、さらに野麦峠を経て高山入りするという旅程だったのではないだろうか。
 高山に旅装を解いたのは、旧暦の七月。暑い夏の盛りであった。
 歓迎を受けた玉堂がさっそく弾琴の披露をしたのは言うまでもない、
大秀は笙、篳篥、琵琶の名手でもあり、玉堂に和して旧交をあたためた。
 その席には赤田臥牛も招かれた。
 玉堂の琴に話しがおよんだ。
 いま一「こと」といえば「筝」をさすのだろうが、「琴」にはこの「筝」と「琴」がある。おおきな違いは、筝は「琴柱」を立てるのに対し、「琴」はこの琴柱がない。
玉堂や大秀が弾いた「こと」はこの「琴」である。
玉堂が大切にしてどこへ行くにも携えた琴は、やはり高山にも持ってきていた。
 大秀は、この玉堂が持つ「琴の複製作りたい」と希望したところ、玉堂は快諾した。しかし、問題はその材料であった。
 大秀からこの話を聞いた臥牛は意外な提案をした。
 臥牛の手元に老杉の材があるというのである。
 この杉は、浅水の地で、日夜、千年の歳月をせせらぎを催馬楽の音として聞きその生命を終えた。その杉材は、ほとんどお堂の建造に用いられたが、いくらかの余材があり、縁あって臥牛の手に入った。
 臥牛はその杉材を提供すると申し出たのである。
 玉堂の琴について
 玉堂の琴を手本に「かんぞう(複製)」する依頼に応じたのは、彫刻の名匠、中川吉兵衛であった。
 吉兵衛は五日ほどでこれを作り上げたが、玉堂はその間付きっきりだったという。
出来あがるや、玉堂は白木のままの琴に絃をはり試し弾きをした。
 固唾をのんで見守る大秀や人々の前で弾き終わった玉堂は、首を傾げていたが、もういちど弾き終わるや破顔して「自分のもつ玉堂琴にまさるも劣らない」と絶賛した。
 大秀が喜んだのは言うまでもない。
 玉堂は大秀を訪ねるほか、飛騨にはもうひとつの目的があった。
 それは「催馬楽」の旧地である、阿左美豆(あさみず)の地を訪ねることであった。
 話しを聞いた一同はその不思議な因縁話に驚いた。
 大秀は、日を選んで酒肴を調えさせ、羽根の阿左美豆の地に玉堂を案内して一日清遊したが、
 玉堂は出来あがった琴を
携え、浅水の地で川傍の石上に坐って数曲を弾き、さらに自ら編曲した「催馬楽」を披露したが、この曲を聴いて感動しないものはいなかった。
 玉堂は、名工、中川吉兵衛をたたえ、この琴は「漆をかけなくても、このままで申し分ない」といい、「浅水琴」と命名した。
このときの様子を玉堂は「浅水琴記」としてに残している。
 浅水橋は、いわゆる催馬楽の歌曲なり。
 戊辰の歳、余は飛騨の高山に遊び叢桂園の主人訪う。
 主人、嘗テ国風を善くす。固より余が知音なり。
 琴酒の余、余に二謂って日く、浅水橋は昔本州の益田川に在り 橋断ゆること今に二百又余年。 
 是を憾となすのみ。
 余行きて其の処に至り、 川上に琴を把りて浅水の曲を鼓す。
 山雨新たに晴れて、流水潺々たり。
 心を洗い思いを滌いで去る。豈に主人、此の巻を出して題を索む。
 展観すること数四。
 酒を呼んで此を書す。
    
大秀もまた、浅水橋について和歌を詠んだ。
  浅水の橋の古こと万代に しらべ伝へむ琴ぞ此こと
 このあと玉堂は、大秀の需で、大八臺の改修工事に意見を述べ、屋臺囃子の作曲と、その演奏の指導を行ったが、やがてできあがった曲を演奏する指導を受けたのは屋臺組を差配していた「大八」の人々であった。
 この屋臺と、優雅な屋臺囃子に満足した屋臺組では、この事跡をながく記念するため、改修なった屋臺を「大八臺」と名づけた。
 このとき「文武」「蘚花」などの琴曲も教えられたというが、屋臺囃子としていつごろまで演奏されていたかはわからない。
 大八臺の上臺には衣桁が五つ備えられ、それには、担当する楽器により五式に色分けされた伶人衣装がかけられていた。
 いまは小幡に変っている。
 秋祭に曳かれる「大八臺」を見ることなく、屋臺囃子「催馬楽」を聞くこともなく玉堂は二人のこどもを連れて飛騨を去った。
 浦上玉堂はこのあと、大秀の紹介で古川町の酒造家である蒲家に一夜の宿を借り、もとめられて「曳杖野檎図」をのこしている。
 船津(神岡町)では、大森家にわらじを脱いだ。
 さらに越中富山を経て、金沢に至り、暫らく滯在したあと、会津に向かった。
 大秀が玉堂を飛騨古川の酒造家である蒲家に紹介した書翰があるが、それによると、
 玉堂先生御出拙家に六十日程御遊、尤拙家は右の事故八幡山勝久寺等に被居候。
 詩画等も被致誠に天下第一の風流士に御座候。
 何卒御世話奉了等潤子共今夜一宿御願申上候。
 とあって、玉堂が高山に滯在したのはおよそ二ヶ月あまり、高山を離れたのはいまの十月中旬から下旬頃だったと思われる。 玉堂が高山滞在中、中川吉兵衛により二面の琴が作られた。一面はさきの「浅水琴」で、今一面は謝礼として赤田臥牛に贈られた。
その琴は、赤田誠修館にしばらく保存されていたが、臥牛の二代目である章齋のとき、谷口與鹿に譲られた。與鹿はかたときもこの琴を手放さなかったというが、こんどは、與鹿がこの琴を手本にしてもう一度つくることになった。 その琴が、上一ノ町の屋臺「麒麟臺」の下臺に彫刻される「唐子遊戯図」のなかで唐子が弾琴する琴である。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料
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