暘州通信

日本の山車

.◆01339 楢泉庵 横山家 6

2016年03月05日 | 日本の山車
.◆01339 楢泉庵 横山家 6

 上町の鎮守は片野町から遷座された山王宮であり祭礼は春季に齋行される。山王宮は、明治期に日枝神社と改称された。
したがって、祭礼は 日枝神社祭礼のはずであるが、市民のほとんどは【さんのうまつり】とよぶ。神幸祭には二基の御神輿が担がれ、裃に一文字笠の警固が供奉し、闘鶏樂が奏され、日本三大山車祭の最も右に出るといわれる豪華絢爛な屋臺が随行する。
 試楽が終わると、御神輿は赤い橋として親しまれる中橋の西南詰めにある御旅所に安置され、翌日の本樂の神幸祭をへて、神社に還御となる。
 この二基の御神輿をけんぞうしたのが、権守谷口五兵衛宗儔(そうきょう)であり、その建材を提供したのが楢泉庵主、横山彌右衛門であった。

◆01339 楢泉庵 横山家 5

2016年03月05日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 5

 旧高山市の西南にある松倉山は姉小路氏(三木自綱(みつきよりつな)によって松倉城が建造された山として知られるが、それ以前は、日氏によりオオヤマクイノカミ(大山咋神が祀られる神南備山だったと推察される。三木自綱は、松倉城が落成するまで、旧善應寺のあった地を仮寓とし、このすぐ南の小丘陵里宮としてまつられていた、大山咋神の小祀と併せて、豊前宇佐から勧請した八幡宮と一緒に併祀して、松倉譲の鎮守としたが、金森氏に攻められて松倉城が落城したのち、八幡宮は、花里村へ、大山咋神は、片野へ、善應寺は高山町東山(現高山市)にそれぞれ移された。戦火に荒らされた旧善應寺は解体され、丹生川村下保にあり、これも武田信玄に攻められて本堂が焼失するなどで失われた本堂再建に使われたが、その余材の一部で質素な小堂が再建された。これを【寥郭堂(りょうかくどう)】という。
 天神山に高山城を築城した金森氏は、城と向き合う地に浄土真宗の照蓮寺を白川郷から招きその中間となる衣斐坂(えびざか)をくだったところから西に向かって城下町を開き、一ノ町、二ノ町、三ノ町、片原町、宮川をはさんで向町、そのうらどおりが裏町とよばれたが、やがて向町は本町に、裏町は有楽町とよばれるようになった。これより南にある、西町、河原町、神明町の界隈に当たる城下町を【上町(かみちょう】と総称する。
 照蓮寺カラ西に下る坂を【文右衛門坂(ぶんえもんざか)】といい、この通りより北側は、寺内町(じないまち)大町(下一ノ町)、下二ノ町、下三ノ町、これがさらに北に発展して一ノ新町、二ノ新町、さらに大新町へとつづきその先は越中回お堂につながっていた。寺内町、大町、下二ノ町、下三ノ町、一ノ新町、二ノ新町、大新町これに八幡町、左京町の範囲をおおむね【下町(しもちょう】と総称する。

 上町の鎮守は片野町から遷座された山王宮であり祭礼は春季に齋行される、
 下町の鎮守は櫻山八幡宮である。祭礼は秋季に齋行される
 この春秋の祭が、よく知られる高山祭である。
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