暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 3

2016年03月02日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 3

 元禄四年(一六九一)、金森氏が転封隣、飛騨は幕府の直轄地となった高山城は加賀藩へのお預けとなり、代官所は知行の石高を改めるため検地を行った。元禄検地と呼ばれ検地帳(水帳)が作成された。
 飛騨は山国であるため、貢租となる米が江戸に送られることはなく、一定の日に、信濃国福島、美濃国、越前国、、加賀國金沢、越中富山に米の相場を問い合わせる「5箇所聞き合わせ法」により平均をとり、これを基準として米に見合う対価を納税する方法がとられていた。
 のちに、江戸は火災が多く街衢の発展から木材の需要が多く、飛騨国も貢租を材木で納税する「山方米(やまかたまい)」の制度が定着した。飛騨地方の河川沿いの産地から木材を伐採し、河川の流れを利用して運搬するのである。
 飛騨川(益田川)は、上流で伐採した木材を金山下原(現下呂市)で、「綱場」とよばれる、川に綱を張って流れてくる材木を集めここで筏に組んで下流の八百津湊ま河川輸送により尾張国に送られた。
 高山町では、清見村八日町(現高山市)に湊が開かれ上流から流された材木はここで集めて刻印をあらため筏に組んで、河口の富山藩西岩瀬湊に運び、ここで、北前船に積み替えて江戸に送られた。
 富山藩では、旺盛な藩内の材木の需要を満たした常願寺川、黒部川などの上流から伐採した木材を得ていたが到底満たしうる量が満たされず、陸奥青森方面から材木を買い付け、御用商人の伏木の回線問屋によって運ばれていたが、代金の決済が「つけ」であったため、材木が粗悪であったという。これらの事情から、飛騨の材木が尊ばれた。この湯女事情から、飛騨の民間財が富山に送られたがこれを一手に扱ったのが横山家であった。
 高山町清見村八日町に集められた民間材は富山藩笹津湊で陸揚げしここから各地に運ばれた。
 北前船の船主として知られる東岩瀬の森家の邸宅はひだの材木を使い飛騨の大工によって普請されたが、その間取りは高山市の重要文化財に指定されている日下部家住宅とほとんど同じである。このことから、近年前後して文化財に指定されることになったが、建築時期は日下部家よりも古い。


◆01339 楢泉庵 横山家 2

2016年03月02日 | 日本の山車
 
◆01339 楢泉庵 横山家 2

 金森氏の藩政期、神通川水系の支流である、宮川、苔川(すのりがわ)は、淡水産の川苔が自生し、川苔は、日本海側に注水系には見られないことからぐ貴重な自然体系の遺産であったが、高山市の発展に伴い自然に消滅するところとなったのは惜しまれる。

宮川、苔川は、その水運を利用して高山町の町づくりの建設に必要となる材木が運搬された。またその上流に当たる大灘村(減高山市)は、いわゆる斐太ノ工の居住した地域で、地域の中心となったのは千島村(現、高山市千島)であった。





◆01339 楢泉庵 横山家 1

2016年03月02日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 1

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西部を流れる川上川左岸、八日町に重厚な石塀をめぐらす宏壮なたたずまいの邸宅がある。これが素封家で知られる横山家である

天正 年、豊臣秀吉の命を受けて飛騨入りし、姉小路氏(三木氏)を討って飛騨の国主に封じられた金森氏は。六代にわたって飛騨を統治し、現在の高山市の基礎を築いたが、元禄四年(   )に、出羽上山(現。山形県上山市)に転封となって移り飛騨は天領として幕府の直轄地となり、金森氏の下屋敷が代官所に当てられ、明治維新まで江戸幕府が直接統治するところとなった。
 金森氏の知行は、通説三万八千石、内高五万三千石といあわれるが、美濃の上有知(美濃市上有知(こうずち)、摂津河内の金田(現。大阪府守口市)に飛び地となる所領があり、越前国勝山(現、福井県勝山市)、飛騨茂住(現在岐阜県飛騨市)に間歩(鉱山)があって、実質的には十万石の格式があったといわれる。