暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 11

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 11

琴高臺 本町
貫名海屋と琴高臺
儒者として、書画家として名高く、ことにその書は江戸時代の三筆といわれ能書で知られる。阿波徳島の人で、本名は吉井氏。画ははじめ藩の絵師、矢野典博に狩野派を習ったが後に南画に転じた。書はおなじ徳島の西宣行について宗法を学んだが、成長するに従い自分が武士として不適なのを悟り僧となることとした。叔父を頼って高野山に行き、そこで空海の古法帳を臨摸して書家としての腕を磨いた。その後中井竹山の「懐徳書院」に入りのちには塾頭まで進んだ。この懐徳書院は片山北海一派の「混沌社」とともに、当時大坂における二大学派の一つであった。
このころ伊丹郷町より懐徳書院に学ぶ人が多く、加勢屋七兵衛、紙屋七郎右衛門、岡田著斎らがあった。この懐徳書院の門人に岡田著斎があったことがのちの谷口與鹿の後半生に大きな関わりを持ってくる。岡田著斎は通称を鹿島屋利兵衛といい、岡田糠人の父である。酒蔵業を営むかたわら学び、懐徳書院では三ツ村崑山ともっとも親しかった。 著斎は中井履軒の薫陶を受け、その著述である「七経孟子逢原」三十冊を模写した物が今に伝わる。與鹿はまたこれを借りて模写したのである。文政八年(一八二二)十月十五日に死去した。中井履軒は晩年幽人と号し、宗学を修めたが文化十四年(一八一七)八六歳で死去した。履軒は甥の蕉園(中井竹山の子)とともにしばしば伊丹に遊んだ。
 海屋は四国、中国から九州を歴遊したが、長崎では僧鉄翁らと交友があった。
その後東海道から中仙道を漫遊して江戸に出たが、天保八年(一八三七)に高山に入り翌九年(一八三八)までおよそ一年間滯在した。
 海屋の作品は飛騨地方に数多く残されているが、その多くは新装なった赤田誠修館に滞在した。 海屋の滯在の足を長引かせたのは、本町一丁目に建造中の「琴高臺」であった。
 海屋は高山滞在中に松倉山東中腹にある寥郭堂にあそび、漢詩を残している。
 琴高臺は旧臺名を「布袋」といい、文化四年まで曳いた。そのあと改造されて、琴高臺と名を変えた。命名は赤田牛だったが、じつは富山県の八尾に琴高臺があったことからそれ以上の屋臺を建造しようという意欲があった。
 天保九年(一八三八)春の山王祭りにめでたく竣工して曳かれたが、この年の屋臺曳順は記録によると、
番外 神樂臺
 一 三番臾
 二 太平樂
 三 黄龍臺
 四 五臺山
 五 大國臺
 六 龍神臺
 七 殺生石
 八 石橋臺
 九 崑崗臺
 十 琴高臺
十一 南車臺
十二 鳳凰臺
十三 黄鶴臺
十四 麒麟臺
宮本 青龍臺
 の十六臺総揃いで、高山の町は大火、大飢饉をわずか数年で立ち直り、
見事な復興をなしたのだった。 いまはこのうちの何臺かは失われ、この豪華な曳き揃えを見ることは出来ない。 琴高臺の臺名は、中国の「列仙伝」にある琴高仙人の名を取ったもので、琴高は趙の国の人であった、宗の康王に仕えていたが、河北から山西地方を二百年にわたって放浪し、ある日祭壇を設けて潔斎し「龍の子をとってくる」といって水に潜っていった。
皆は水辺で待ったが、果たして約束の日が来ると赤いおおきな鯉に乗って帰ってきた。皆は驚いたが、琴高はそのまま祀堂にすわったまま一ヶ月、ふたたび水に戻っていったという。布袋から琴高臺に改称されたのは、文化十二年(一八一五)のことで、二十四年を経た天保九年(一八三八)ようやく名実備わった優美な姿を現したのだった。
設計、彫刻、鯉の作品いずれも谷口與鹿。大幕は與鹿の下絵をもとに藤井孫兵衛が画き、新宮豊次郎が刺繍をした。
 與鹿の生家があった同じ組の屋臺で、このとき與鹿は十七歳であった。
 この屋臺の学術考証は、二代目誠修館二代目の赤田章斎、意匠、工匠技術は中川吉兵衛が指導した。
この年海屋は六十一歳であった。飛騨の匠の技に驚嘆し、京都に帰ってからもその強い印象を人に語った。
この海屋の来飛は、のち谷口與鹿の運命を決めることになる。 
□汎論
 岐阜県高山市は、いまでも旧国名の「飛騨」をつけて「飛騨高山」とよばれることが多い。「飛騨」の語義は不明とされるが、古い表記は「斐太」である。島根県の簸川、関東に多く見られる氷川などに通じる「ヒ」の國で、茨城県の常陸、大分県の日田、宮崎県の日向(ひゅうが)などに通じる。新潟県には斐太と斐太神社がある。奈良県には、滋賀県には「飛騨」の地名がある。「ヒ」は古代出雲系氏族にちなむと考えられる。
 熊本県も噴煙をあげる阿蘇にちなんで「火の國」とよばれるが、こちらは「ヒの国」ではない。
 高山は左甚五郎に代表される名工、「斐太の工」でよく知られるが、その系譜には謎が多い。全国には斐太の工が建立した神社、仏閣、また彫刻にも優れたものが多く残るが、これらは斐太の工が各地を遊行移動しながら建立したものが多い。また、江戸の蔵前、難波の天満、京都の二条などに出先を構えて、社寺建築受注の出張所がおかれていた。しかし、普通は半農、半工の暮らしだったようである。
 春の高山祭は、旧山王祭である。明治の以後は日枝神社と改称されたが、祭はいまでも「山王祭」とよばれており、東京の日枝神社の祭を「山王祭」とよぶように、定着した呼称には愛着と伝統がある。高山祭の山車は夙に有名であるが、その淵源は、豊臣秀吉の死去七年目の慶長九年(一六〇四)八月十二日より十八日までに齋行された、「豐国大明神臨時祭禮」に遡る。
 豐国大明神臨時祭禮には、長らく豊臣秀吉とともにあった「金森氏」の、長近(ながちか)、可重(ありしげ)親子が、奉行として加わり、臨時祭禮の終了後に拝領した品々を領国飛騨高山に伝え、町衆が高山の鎮守とした山王宮の祭禮にこれら拝領品を用いた祭が行われた。これが春の高山祭「山王祭」の濫觴である。
 春の高山祭「山王祭」で曳かれる山車「屋臺」は、
・樂臺 上一之町上組の歴史は、太鼓臺にはじまり、あらゆる山車(屋臺)に先行する 。現在の形態は露臺式で、御神幸の獅子舞の演奏を行う。厳密に言えば山車でも、屋臺でもない。
・三番叟 上一之町中組は二層の上臺前部に張り出された機関樋のうえで、機巧人形によ る三番叟で、鈴の段、黒き翁が演じられる。三番叟人形は神の依代である。
・麒麟臺 上一之町下組。
・石橋臺 上二之町、神明町は、ながらく休止していた機巧人形による獅子舞が近年復活 した。
・五臺山 上二之町中組は、江戸時代に中国の故事、「邯鄲(かんたん)」にちなみ、盧 生が能楽の「邯鄲」にあわせて舞う機巧人形戯があったと伝えられる。
・鳳凰臺 上二之町下組は、高山の山車(屋臺)のうちでも京都祇園祭の鉾に似ており真 木を高く上に鉾をたてていたが、現在は短くなっている。下部を「網かくし」で覆う。・惠比壽臺 上三之町。
・龍神臺 上三之町中組には、もと八幡祭の旧山車大八臺より、人形「猩々」を譲り受け 、のちに機巧を行う屋臺となった。機巧人形猩々(龍神)が依代となっている。
・崑崗臺 片原町は上臺で林和靖(りんなせい)と唐子の機巧戯をおこなう山車(屋臺) だったが現在は休止している。林和靖と唐子が依代である。
・大國臺は、上臺の俵の上に本座人形、大國主命がのる。
・青龍臺は、江戸時代に「娘道成寺」が演じられていて、狂言の役者が依代だったことが ある。
・琴高臺 本町一丁目。
 樂臺以外、山車(屋臺)と日枝神社には関連がない。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 10

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 10

龍臺
 龍臺は、文化一三年(一八一六)谷口與兵衛紹芳が主任工匠となり改造をおこなった。明治一三年、谷口與三郎宗之により修理された。中臺欄間波間の飛龍彫刻の下絵は現存する。彫刻も宗之である。宗之は谷口與鹿の兄延儔の子で、叔父と甥の関係である。明治一九年に大改修が行われた。
初期の龍神臺は、屋臺を舞臺として藝能を演じる藝屋臺で、おなじような歴史を持つ青龍臺や、飛騨市・古川祭の白虎臺と共通する屋台だったと考えられる。
長濱祭では屋臺のうえで歌舞伎などの藝が演じられるが、この影響は裏日本、丹後一帯、舞鶴市(現在はなし)、小松市小松こども歌舞伎、小矢部市石動(現在はなし)、礪波市出町子供歌舞伎、入善町(現在はなし)、宇奈月(現在はなし)などにひろく伝播していた。
江戸時代の高山は上方からは「北陸」とみられており、北陸文化の影響を強く受けた。
本町の琴高臺は越中八尾の同名屋臺の影響を受け、赤田臥牛が命名して建造されたものである。文化年間までは舞臺藝として「龍神」が舞われたが、改修時に下一之町から猩々の人形を譲り受けてこれを祭神にまつり、やがて人形が所作をおこなう「龍神」が完成した。竹生島と比定されるが、「猩々」である。
見送りは二幅あって、試楽には玉泉の龍、本祭は久邇宮朝彦親王の書をかける。
今の屋台の屋根は神明造であるが、旧龍神臺の屋根は唐破風だった。
道行の屋臺囃子は龍神臺は蘭陵王を崩した編曲がつ演奏される。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料



◆01339 楢泉庵 横山家 9

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 9

惠比壽臺
 谷口與鹿がこの屋臺のを手がけたときの屋臺の名称は殺生石で、同名で完成するはずだった。谷口家には殺生石の設計図がある。
作業が進むにつれて、改称の話が進み、できあがったとき「惠比壽臺」と命名されたのは、異国情緒豊かな見送りの入手にあった。
この見送りの脇にたつ「手長、足長像」の彫刻下絵も谷口家にある。他にも、明らかに惠比壽臺のものと思われる何枚かの下絵も残っている。
半月円の窓に彫刻した龍、親子竜はみごとな量感を持つが、與鹿が一番苦心したのは見送り桁の両脇に立つ手長・足長像であった。
與鹿は彫刻の題をきめるにあたって赤田章斎に教えをうけたが、その章斎が闇を得て死去したあとは、その子誠軒に拠った。
赤田誠修館で書籍を借覧し、ようやく行きついたのが、「山海経」だったが、これは写本で図がなかった。この手長足長図が與鹿に届くまで二年近くかかってしまい製作は遅れにおくれ、酒屋の支払いは嵩むばかりで町内でも閉口した話が残されている。
しかし、完成した惠比寿臺はあまりにも豪華で曳くのが憚られるほどであった。
この手長・足長の評判を聞いてわざわざ諏訪の立川和四郎富重が訪ねてきたが、和四郎もこれを見て、愛知県豊田市の挙母祭山車、半田市の山車、静岡県静岡市の浅間神社におなじ手長足長を彫って収めた。評判を聞いて彫られた根付はかなりつくられたらしい。
信州諏訪に手長神社、足長神社があり、「テナヅチ、アシナヅチ」に凝らした解釈があるが誤解である。

惠比壽臺 逸話
惠比壽臺は上三ノ町上組の屋臺で、文化三年(一八〇六)まで芦刈の名で曳かれた。世阿弥作と言われるいわゆる直面ものに題をとった能の芦刈にちなむもので、からくりがあった
一時は芦売りまでに零落した日下左衛門が妻と再開しその後立身する。というもの。
京都の祇園祭にこの芦刈を題にした「芦刈山」がある。
文化四年(一八〇七)に花子と改称されたが、これも狂言に名をとったもので、歌舞伎で演じられる身代わり座禅をからくりで演じて見せるものだった。
人気のあるからくりだったが、わずか三年演じられただけで、文化六年には姿を消した
風俗を紊し好ましくないというお達しがあったからである。まだ見ていなかった人はたいへん残念がった。
文化七年には殺生石と改名された。
これは後鳥羽院の頃洞御所にあらわれた、美女の玉藻の前はひとり院の寵愛を受けるが、じつはこれは金毛九尾をもつ狐が化けたもので、陰明師の阿倍清明に見破られ下野の石にされるというもの。
これを謡曲の殺生石にのせてからくりを演じるものであった。のちこのからくりは、人形とともに古川に譲られた。
山車(屋臺)の曳行記録はしばらく途切れるが、休臺の年もあるところを見ると、かなり傷みがすすんでいたのであろう、十一年後の文政四年(一八二一)に夷の名で曳かれたときにはすでにからくりは上演されなかった。弘化三年(一八四六)より、嘉永元年(一八四八)の三年におよぶ改造は、まったく新臺の建造であった。
通例として、それまですでに屋臺を保有していた屋臺組は、あたらしく建造する場合でもその誇りにかけて、新造とは言わない。大改造、大改修などという。
この屋臺の大改造は谷口與鹿が二十五歳から二十七歳にかけての大作である。
もうすでに與鹿の腕を知った人たちは何の疑いも持たなかった。
こんども、前以上の立派な屋臺を造ってくれるだろう。その期待は與鹿にとっては重かった。
一作ごとの評判が高ければつぎはより以上のものが求められた。
この惠比壽臺には何を造るか? 與鹿はその課題に悩んだ。しかもこの屋臺は造る前から夷臺と臺名が決まっていた。というのも、この屋臺組では高山の屋臺でも随一といわれる猩々緋の大幕を持っている。
近くでみるとさほどではないが、遠くから見るその美しさは比類がない。これに気をよくしている組みの人たちは、京都よりオランダ渡りといわれる秘蔵の織物を入手した。このタペストリー加工して見送りに懸けたところ、たいへんな評判となった
異国情緒にあふれたもので、世人の目を驚かすのに充分であった。組の人たちは、この異国の婦人の見送りがあることを自慢にし、屋臺の名を夷臺と決めてあったのである。しかし、旧屋臺と異人の見送りは、何かしっくりと馴染まなかった。
この点は組みの人たちも十分承知していて、こんどの屋臺ではこの見送りと屋臺とを調和させた屋臺に仕上げてもらいたい。しかも、再来年の春には曳けるように。
と念を押されていた。いくつもの条件が建造着手前に約束されていたのである。
與鹿は自ら築いた世評故に、呻吟することとなった。
来る日も来る日も、この空間処理に腐心した。
例によって酒に浸る日がおおくなった。半年は瞬く間に過ぎたが與鹿は全く仕事のかかろうとしない。こんなことで間に合うんだろうか?
組の人から不満の声が洩れはじめる。
大黒屋、栃尾屋、西瓜屋、洲岬などから大晦日の請求書が回ってくる。その金額を見て組みの人は驚いた。明けても全く仕事にかかろうとしない、酔いが醒めるとどこかにでかけていく。
與鹿は昨年新装なった赤田静修館にいた。
書庫にはおびただしい漢書が積まれていたが、そこには章齋の姿はなかった。このようなとき相談に乗ってくれた章齋はいない。
途方にくれる與鹿は、ついに一巻の書に出逢った。「山海経」である。
紐とくと、まことに難解な書であった。しかし與鹿は丹念に読み進んでいった。目が輝きを帯びてくる。「其の六」まで読み進んだところで、與鹿の手が止まった。
ついに求めるものと出逢ったのである。
「山海経 その六」の「海外南経の海外」のところに、

その西南隅より東南隅にいたるもの、とあり
長臂の国は、周尭国の東にあり、
魚を水中に捕らえ、両手にそれぞれ一匹を持つ
さらにその先、「其の七」には、
海外西経の海外その西南隅より東南隅に至るもの、
の項には、
窮山は軒轅国の北にあり、
その丘は四匹の蛇が絡み合う。
野には鸞鳥が歌い、鳳凰が舞う
民は鳳凰の卵を食い、
甘露を飲み、
欲しいものは思いのまま、
百獣はあい群れてすむ。
その北にいる人は、両手に卵を持って食い、
二羽の鳥が前にいて、彼の行くところをいつも導く。
龍魚は陵に住んでいる。
その様相は鯉のようで、
神仙はこれに乗って九野を行く。
白民の国はその北にあり、
身体は白く、髪を振り乱している。
乗黄という馬がいるが、
狐のようなさまで、背には角がある。
これに乗れば、寿命は二千年を得るという。
粛慎の国はさらにその北にある。
雄常という樹があり、
昔、中国の皇帝の代理が、この樹皮から布を作ったことがある。
長股の国は、雄常の樹の北にあり……

うむ、長股の国か……

長股の国は、雄常の樹の北にあり、
その国の人は股が長く、髪を振り乱している。

うむ……
長臂の国
長股の国
……
長臂の人
長股の人

與鹿はここでついに求めるものにであった。よし、これだ、これを彫ろう。
こうしてついに原案は決まった。しかし、この山海経は写本であったので画がなかった。赤田臥牛が彦根の龍草盧のところで書き写したものだった。しかし、いったいどんな風貌をした人なのだろうか、これがわからないことには手のつけようがなかった。臥牛と同行した人たちも他界している。與鹿はまたしてもはたと困った。
惠比壽臺は立派にでき上がった。
曳き綱に曳かれて、屋臺蔵を出る惠比壽臺を、一目見ようと人が群がったが見た人は一様に感嘆の声を放った。
黒塗りの見送り枠に収まった見送りは、左右に並び立つ長臂人、長股人によって一段と引き立った。この彫刻を見た子供が、思わずおおきな声で「てなが、あしなが」といったが、このよびかたが、この屋臺を親しみのあるものにし、すっかり馴染みふかいものになった。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 8

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 8

五臺山
創建年代は不明である。
寛政年中(一七八九-一八〇一)の記録があるのでこの当時すでにあったと推定されている。文化四年(一八〇七)頃には盧生の臺名ででており、操人形があった
盧生のからくりは、いわゆる「邯鄲の夢」を人形が演じるもので、人生の栄枯盛衰はまるで夢のように儚いというたとえで、盧生が進士の登用試験である科挙にむかう途中、邯鄲の旅宿で、道士の呂翁から枕を借りて眠ったところ、宿屋の主人が炊事をするまでの間に栄えたり衰えたり、長い一生の夢を見た。という故事である。枕既済、枕中記ともいう。文化一二年(一八一五五)臺名をそれまでの「迦陵頻」から「五臺山」に改めている。
明治二三年から三年かけてで大修理を行い現在の形になった。
基枠(臺輪)は欅材で黒漆塗り、金具付き。
車輪は御所車で、基臺の内にはいる内輪車、黒漆塗り、金具付き四輪車
下臺には六体の彫刻「飛び獅子」がある
製作は諏訪の和四郎といわれるが、谷口與鹿である。
中川吉兵衛の紹介状とともに、與鹿がほぼできあがった獅子の彫刻をもって諏訪に赴き、和四郎の監修を得たあと、獅子を持ち帰って仕上げて屋臺に収めた。当時無名だった與鹿より、和四郎の名の方を喜んだ。
諏訪の和四郎作との誤解があるが、獅子にあわせて屋臺を造るわけではないので、仮に和四郎が彫刻するとすれば、屋臺全体と微妙な納まりの寸法、全体の調和を考えないと彫刻にはかかれない。したがって和四郎が彫刻を依頼されれば、高山まで「出づくり」しないと作れないわけである。
後日與鹿は、この獅子について「往年の作などとくと鑑賞いたさせ美を採り拙を捨て……」といっている。この六体の獅子は谷口與鹿の作である。
上臺と、中臺の欄間には極彩色の華麗な牡丹が収められているが、これも與鹿の作である。いわゆる「與鹿の牡丹」とし著名である。
中臺には獅子と牡丹を刺繍する緋羅紗の大幕をめぐらせている。
この獅子と牡丹の下絵は円山應挙が描き、京都の西陣で織ったもの。
後部にかける見送りは、「雲龍昇天図」。幸野楳嶺の原画をもとに、やはり西陣で織ったもので明治二一年の作。
幸野楳嶺の美術展が、滋賀県立美術館で開催されたが、年譜の中でも彼の代表作のひとつとして位置づけられていた。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料


◆01339 楢泉庵 横山家 7

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 7

樂臺
上一之町 
神樂臺は道開きともいい、すべての屋臺の先頭を曵く。神樂臺の演奏で獅子舞がおこなわれる。楽人は五人で、二人は大太鼓を打つ。両面から同時に打つ両面打ちで、太鼓の両側で体を神楽の外に水平になるまで反らせて打つ。わずかでも打つ呼吸があわないと音が歪み、たいへん難しい打ち方であるが、平然と打っているのはたいへんな技量である。
神楽の前で行われる獅子舞の頭は、京都の臨時豊国祭で用いられたもので、祭に参加した金森長近が高山の山王宮に寄進したもの。頭が大きく、油単も他の獅子舞とは異なり茶色である。他の獅子舞はすべて深い緑色である。高山祭の嚆矢となった格式と由緒を誇る。屋根のない無蓋車で上臺には屋根がない。総社祭の神樂臺は高山の山車の中で唯一屋根をもつ。上臺の勾欄は四方を切る。太鼓枠を立て枠の中に大太鼓を吊る。
建造は谷口家が関わっているが、その時期は文化年間と推定される
見事な巻龍の彫刻は谷口與鹿が安政三年に帰郷のときに彫刻したものである。
正面中臺の胴の間には蕨手の枠を入れ、枠のには簾をさげ神鏡をかける。
大幕上部には注連縄を刺繍する。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

.◆01339 楢泉庵 横山家 6

2016年03月05日 | 日本の山車
.◆01339 楢泉庵 横山家 6

 上町の鎮守は片野町から遷座された山王宮であり祭礼は春季に齋行される。山王宮は、明治期に日枝神社と改称された。
したがって、祭礼は 日枝神社祭礼のはずであるが、市民のほとんどは【さんのうまつり】とよぶ。神幸祭には二基の御神輿が担がれ、裃に一文字笠の警固が供奉し、闘鶏樂が奏され、日本三大山車祭の最も右に出るといわれる豪華絢爛な屋臺が随行する。
 試楽が終わると、御神輿は赤い橋として親しまれる中橋の西南詰めにある御旅所に安置され、翌日の本樂の神幸祭をへて、神社に還御となる。
 この二基の御神輿をけんぞうしたのが、権守谷口五兵衛宗儔(そうきょう)であり、その建材を提供したのが楢泉庵主、横山彌右衛門であった。

◆01339 楢泉庵 横山家 5

2016年03月05日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 5

 旧高山市の西南にある松倉山は姉小路氏(三木自綱(みつきよりつな)によって松倉城が建造された山として知られるが、それ以前は、日氏によりオオヤマクイノカミ(大山咋神が祀られる神南備山だったと推察される。三木自綱は、松倉城が落成するまで、旧善應寺のあった地を仮寓とし、このすぐ南の小丘陵里宮としてまつられていた、大山咋神の小祀と併せて、豊前宇佐から勧請した八幡宮と一緒に併祀して、松倉譲の鎮守としたが、金森氏に攻められて松倉城が落城したのち、八幡宮は、花里村へ、大山咋神は、片野へ、善應寺は高山町東山(現高山市)にそれぞれ移された。戦火に荒らされた旧善應寺は解体され、丹生川村下保にあり、これも武田信玄に攻められて本堂が焼失するなどで失われた本堂再建に使われたが、その余材の一部で質素な小堂が再建された。これを【寥郭堂(りょうかくどう)】という。
 天神山に高山城を築城した金森氏は、城と向き合う地に浄土真宗の照蓮寺を白川郷から招きその中間となる衣斐坂(えびざか)をくだったところから西に向かって城下町を開き、一ノ町、二ノ町、三ノ町、片原町、宮川をはさんで向町、そのうらどおりが裏町とよばれたが、やがて向町は本町に、裏町は有楽町とよばれるようになった。これより南にある、西町、河原町、神明町の界隈に当たる城下町を【上町(かみちょう】と総称する。
 照蓮寺カラ西に下る坂を【文右衛門坂(ぶんえもんざか)】といい、この通りより北側は、寺内町(じないまち)大町(下一ノ町)、下二ノ町、下三ノ町、これがさらに北に発展して一ノ新町、二ノ新町、さらに大新町へとつづきその先は越中回お堂につながっていた。寺内町、大町、下二ノ町、下三ノ町、一ノ新町、二ノ新町、大新町これに八幡町、左京町の範囲をおおむね【下町(しもちょう】と総称する。

 上町の鎮守は片野町から遷座された山王宮であり祭礼は春季に齋行される、
 下町の鎮守は櫻山八幡宮である。祭礼は秋季に齋行される
 この春秋の祭が、よく知られる高山祭である。
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◆01339 楢泉庵 横山家 4

2016年03月04日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 4

 横山家の庵名となっている【楢泉庵 (ゆうせんあん)】の由来は、弘化年間に、加賀を経て飛騨入りした豊後(大分県)日田の漢学者である広瀬旭荘(ひろせきょくそう)が、邸宅の東に連なる飛騨山脈の秀麗な連山に驚嘆のまなざしを向けつつ明舞したと伝わる。広瀬旭荘は、豊後日田の遠思楼(えんしろう)、咸宜園(かんぎえん)で多くの塾生を指導した広瀬淡窓(ひろせたんそう)の弟にあたる。後年横山家を訪れた中国の画家で知られる胡鐡梅(こてつばい)の揮毫した【楢泉庵】の偏額が掲げられている。

◆01339 楢泉庵 横山家 3

2016年03月02日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 3

 元禄四年(一六九一)、金森氏が転封隣、飛騨は幕府の直轄地となった高山城は加賀藩へのお預けとなり、代官所は知行の石高を改めるため検地を行った。元禄検地と呼ばれ検地帳(水帳)が作成された。
 飛騨は山国であるため、貢租となる米が江戸に送られることはなく、一定の日に、信濃国福島、美濃国、越前国、、加賀國金沢、越中富山に米の相場を問い合わせる「5箇所聞き合わせ法」により平均をとり、これを基準として米に見合う対価を納税する方法がとられていた。
 のちに、江戸は火災が多く街衢の発展から木材の需要が多く、飛騨国も貢租を材木で納税する「山方米(やまかたまい)」の制度が定着した。飛騨地方の河川沿いの産地から木材を伐採し、河川の流れを利用して運搬するのである。
 飛騨川(益田川)は、上流で伐採した木材を金山下原(現下呂市)で、「綱場」とよばれる、川に綱を張って流れてくる材木を集めここで筏に組んで下流の八百津湊ま河川輸送により尾張国に送られた。
 高山町では、清見村八日町(現高山市)に湊が開かれ上流から流された材木はここで集めて刻印をあらため筏に組んで、河口の富山藩西岩瀬湊に運び、ここで、北前船に積み替えて江戸に送られた。
 富山藩では、旺盛な藩内の材木の需要を満たした常願寺川、黒部川などの上流から伐採した木材を得ていたが到底満たしうる量が満たされず、陸奥青森方面から材木を買い付け、御用商人の伏木の回線問屋によって運ばれていたが、代金の決済が「つけ」であったため、材木が粗悪であったという。これらの事情から、飛騨の材木が尊ばれた。この湯女事情から、飛騨の民間財が富山に送られたがこれを一手に扱ったのが横山家であった。
 高山町清見村八日町に集められた民間材は富山藩笹津湊で陸揚げしここから各地に運ばれた。
 北前船の船主として知られる東岩瀬の森家の邸宅はひだの材木を使い飛騨の大工によって普請されたが、その間取りは高山市の重要文化財に指定されている日下部家住宅とほとんど同じである。このことから、近年前後して文化財に指定されることになったが、建築時期は日下部家よりも古い。


◆01339 楢泉庵 横山家 2

2016年03月02日 | 日本の山車
 
◆01339 楢泉庵 横山家 2

 金森氏の藩政期、神通川水系の支流である、宮川、苔川(すのりがわ)は、淡水産の川苔が自生し、川苔は、日本海側に注水系には見られないことからぐ貴重な自然体系の遺産であったが、高山市の発展に伴い自然に消滅するところとなったのは惜しまれる。

宮川、苔川は、その水運を利用して高山町の町づくりの建設に必要となる材木が運搬された。またその上流に当たる大灘村(減高山市)は、いわゆる斐太ノ工の居住した地域で、地域の中心となったのは千島村(現、高山市千島)であった。





◆01339 楢泉庵 横山家 1

2016年03月02日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 1

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西部を流れる川上川左岸、八日町に重厚な石塀をめぐらす宏壮なたたずまいの邸宅がある。これが素封家で知られる横山家である

天正 年、豊臣秀吉の命を受けて飛騨入りし、姉小路氏(三木氏)を討って飛騨の国主に封じられた金森氏は。六代にわたって飛騨を統治し、現在の高山市の基礎を築いたが、元禄四年(   )に、出羽上山(現。山形県上山市)に転封となって移り飛騨は天領として幕府の直轄地となり、金森氏の下屋敷が代官所に当てられ、明治維新まで江戸幕府が直接統治するところとなった。
 金森氏の知行は、通説三万八千石、内高五万三千石といあわれるが、美濃の上有知(美濃市上有知(こうずち)、摂津河内の金田(現。大阪府守口市)に飛び地となる所領があり、越前国勝山(現、福井県勝山市)、飛騨茂住(現在岐阜県飛騨市)に間歩(鉱山)があって、実質的には十万石の格式があったといわれる。