暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 24

2016年03月09日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 24

飛騨國分寺 三重の塔
高山市総和町

 飛騨國分寺は、聖武天皇の発願により、天平十三年(七四一)に建立されたと伝わる。境内東北隅に七重の塔礎石がのこる。創建時飛騨のような小国に七重の塔が建造されたのは驚きであるが、すべて飛騨國のいわゆる斐太ノ工の手になるものだったと伝わる。
 しかし、この七重の塔は 弘仁一〇年(八一九)に火災によって失われ、斉衡二年(八五五)ころ再建された。この塔は五重だったと考えられている。
 天正一三年(一五八五)金森長近が可重(ありしげ)とともに飛騨入りし、三木自綱(姉小路氏)の松倉城を攻めたとき、この兵火にかかって炎上した。
 元和元年(一六一五)、金森可重氏により三重塔が寄進されたが、寛政三年(一七九一)に暴風雨により倒壊。その後しばらく塔のない状態が続いたが、その三一年後の、文政四年(一八二一)にいたり、三代目水間相模守が請負い工匠を小笠原氏が務めて再建されたのが現在の三重塔である。筆者はその設計図を拝見したことがある。
 小笠原氏の後裔である笠原烏丸氏のお話によると主要な建材は八日町の楢泉庵主、横山彌右衛門により納入されたもので、その材木の対価はおよそ五百両に近いものだったという。塔心となる巨大な原木は、目処(めど)に太い縄を通し八日町湊より、善男善女数百人により、これを激励する木遣の采配により雪道を曳き、現地では【めでた】をうたって散会した。

 三重の塔建造の材木大五百両とは、莫大な金額であるが当時の屋臺建造には、少なくとも一〇〇〇両位はかかったものであった。












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