暘州通信

日本の山車

◆38202 日本語と漢字 二

2011年03月06日 | 日本の山車
◆38202 日本語と漢字 二
 漢字には【音】と【訓】があるが、漢字伝来の初期には、訓(倭語・日本語)と音(漢音、韓音)がある。異説も多いだろうが、概ね、訓はまだまだ日本に文字が無かった時代の話し言葉、音は、漢字の伝来とともに伝わってきた、漢字本来の読み。とでもいえようか。
 漢字が伝来したとき当時の日本人は相当戸惑ったはずである。しかし時代がたつにつれて漢字文化を次第に咀嚼してゆき、従来の日本語を漢字で表記するようになった。これには相当の時間がかかったであろう。初期には平易なものから始まり、次第に高度な表現もできるようになって行ったであろう。しかし、在来の日本語を捨てて漢字文化に切り替わったわけではなく、一種の翻訳文化が形成されたはずである。
 たとえば、「山」をゆびさし、「ヤマ」といえば、渡来人は「山」という文字を書いて「サン」といい、「カワ」を示せば「川」という文字を書いて「セン」といったであろう。同じように「カミ」を示せば、「神」という文字を書いて「シン、あるいはジン」とよんだであろう。つまり「カミ」は日本の言語、「神」は渡来文化。「神社」を「カミモリ」といわず、「ジンジャ」と音読みするのは、「神社」という語彙が仏教と同じ外来文化だということになる。
 次第に漢字に慣れてゆくうちに、漢字の一音を藉りて、これで日本語を表現する方法がとられるようになった。「萬葉仮名」はその霊で、ほかにも、神の名称、古い神社などにこの表音文字の霊が見られる。
 この方法で表示皿田表記は、漢字には意味が無いから、この表記から、表意を酌むことはできない。
 更に時代が下がると、音と訓を混用する折衷文化が生まれた。
 「重箱読み(じゅうばこ)」などといわれるのは、上が「音読み」、下が「訓読み」である。
 これに対し、「湯桶(ゆとう)」といわれるものは、上が「訓読み」、下が「音読み」である。
 一般に「〇〇神社」などと称び慣わしている呼称は、「固有称(前半)」が倭訓(和訓)であり、「普遍称(後半)」は、音読みの例が多い。つまり、【湯桶読み】である。
 神のお名称もまた、神社の固有称もまた倭訓(和訓)が多いことに留意しておく必要がある。

◆38201 日本語と漢字 一

2011年03月06日 | 日本の山車
◆38201 日本語と漢字 一
 これは、仮説である。
 縄文時代は一般的に言って、前期、中期、後期に分けられる。この縄文時代中期は概ね紀元前四千年ころ。後期は概ね紀元前二千年ころで、弥生時代はそのあとと考えられているが、遺跡からの出土遺物を検証してゆくと、縄文時代末期の中ごろに当たる、紀元前三千年ごろにはすでに日本の一部では稲作が行われていたらしく、縄文遺跡出土遺物に米粒が見られ、弥生時代の始まりと考えられる紀元前二千年ごろよりはるか以前に米作が行われていたと推定されているが、縄文時代後期のなかばには、地域により弥生文化が縄文文化と錯綜しているところがある。また、弥生文化との複合文化が始まっていたのではないだろうかと想像される。
 縄文時代中期には、単純な名詞を話し、少数ながら単語も成立していたと考えられるが、日本全国に稲作が伝播して行った時期には、言語としての祖形日本語である倭語(和語)が交わされるようになり。紀元前の日本では言語としての日本語がほぼ成立し、大衆はこれを理解し、歌謡なども行われるようになっていたと推定される。
 山上には巨大な磐坐を築いて【カミ】を迎え、豊作、豊産、を祈願し、先祖に感謝を捧げる、素朴ながら切実な古代祭祀が行われていたであろうと考えられる。
 このころの記録方法として、一部には古代文字があったことが知られるが、歴史上大きな出来事は漢字の伝来であった。

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◇調神社2011/2/25(金) 午前 10:22
... 社伝によれば、開化天皇3年(紀元前156)に創建され、崇神天皇の時代に伊勢神宮の斎主・倭姫命が参向し ... 平安時代中期の延喜5年(905)に醍醐天皇が編纂を命じた法典である「延喜式 ... 浦和歴史文化叢書によると、調神社には古くから伝え ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomo4628tomo/11170384.html

◇110217▲『牛坂往来』(まいまいず井戸)・・・統領2011/2/17(木) 午後 6:39
... 五輪塔は、平安時代中期頃から個人の墓石や供養塔として造られた。上から空輪=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形) ... 一気に紀元前の世界にまで衆生を誘う。  平成21年4月21日 ... 国・重要文化財指定に際して「伝」が付された。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/petition16kenpou/51671924.html

◇岸田遺跡:青銅製の銅剣や把頭飾など出土 弥生中期の有力集落? /福岡2010/10/16(土) 午前 1:05
... 早良区早良4の「岸田遺跡」で見つかった弥生時代中期初頭(紀元前2世紀~前1世紀ごろ)の木棺墓と甕棺墓(かめかんぼ)5基から、青銅製の銅剣や把頭飾(はとうか ... 埋蔵文化財第2課は「岸田遺跡は周辺の有力集落の一つと考えられる。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/ta092961/35076478.html

◇794.紀元前後の鉄と社会2009/8/28(金) 午後 0:13
... 格が違う二大酋長がいたと。 高地性集落 弥生中期終わり、紀元前後に各地に続々と出てくる高地性集落。北九州沿岸から瀬戸内近畿にかけ ... ときには派手で個性的文様がでるが、人口の異動期・ヨコの文化伝達が強い時期は、土器は無紋化・共通化あるいは ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/33973626.html

◇第三夜 縄文中期に稲作の痕跡2005/7/20(水) 午後 3:53
... 高度な文明、文化の跡となるわけではないけれども、こういうものを見てもらいたい。 この 火焔土器 は縄文中期、ちょうど今回のニュースの時期と同じ頃のもの。 これを見て皆さんはどう思わ ... 1万年前から紀元前2,3世紀の協同研究をもっと積極的に行なう ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/jadd_s/7124236.html