◆38202 日本語と漢字 二
漢字には【音】と【訓】があるが、漢字伝来の初期には、訓(倭語・日本語)と音(漢音、韓音)がある。異説も多いだろうが、概ね、訓はまだまだ日本に文字が無かった時代の話し言葉、音は、漢字の伝来とともに伝わってきた、漢字本来の読み。とでもいえようか。
漢字が伝来したとき当時の日本人は相当戸惑ったはずである。しかし時代がたつにつれて漢字文化を次第に咀嚼してゆき、従来の日本語を漢字で表記するようになった。これには相当の時間がかかったであろう。初期には平易なものから始まり、次第に高度な表現もできるようになって行ったであろう。しかし、在来の日本語を捨てて漢字文化に切り替わったわけではなく、一種の翻訳文化が形成されたはずである。
たとえば、「山」をゆびさし、「ヤマ」といえば、渡来人は「山」という文字を書いて「サン」といい、「カワ」を示せば「川」という文字を書いて「セン」といったであろう。同じように「カミ」を示せば、「神」という文字を書いて「シン、あるいはジン」とよんだであろう。つまり「カミ」は日本の言語、「神」は渡来文化。「神社」を「カミモリ」といわず、「ジンジャ」と音読みするのは、「神社」という語彙が仏教と同じ外来文化だということになる。
次第に漢字に慣れてゆくうちに、漢字の一音を藉りて、これで日本語を表現する方法がとられるようになった。「萬葉仮名」はその霊で、ほかにも、神の名称、古い神社などにこの表音文字の霊が見られる。
この方法で表示皿田表記は、漢字には意味が無いから、この表記から、表意を酌むことはできない。
更に時代が下がると、音と訓を混用する折衷文化が生まれた。
「重箱読み(じゅうばこ)」などといわれるのは、上が「音読み」、下が「訓読み」である。
これに対し、「湯桶(ゆとう)」といわれるものは、上が「訓読み」、下が「音読み」である。
一般に「〇〇神社」などと称び慣わしている呼称は、「固有称(前半)」が倭訓(和訓)であり、「普遍称(後半)」は、音読みの例が多い。つまり、【湯桶読み】である。
神のお名称もまた、神社の固有称もまた倭訓(和訓)が多いことに留意しておく必要がある。
漢字には【音】と【訓】があるが、漢字伝来の初期には、訓(倭語・日本語)と音(漢音、韓音)がある。異説も多いだろうが、概ね、訓はまだまだ日本に文字が無かった時代の話し言葉、音は、漢字の伝来とともに伝わってきた、漢字本来の読み。とでもいえようか。
漢字が伝来したとき当時の日本人は相当戸惑ったはずである。しかし時代がたつにつれて漢字文化を次第に咀嚼してゆき、従来の日本語を漢字で表記するようになった。これには相当の時間がかかったであろう。初期には平易なものから始まり、次第に高度な表現もできるようになって行ったであろう。しかし、在来の日本語を捨てて漢字文化に切り替わったわけではなく、一種の翻訳文化が形成されたはずである。
たとえば、「山」をゆびさし、「ヤマ」といえば、渡来人は「山」という文字を書いて「サン」といい、「カワ」を示せば「川」という文字を書いて「セン」といったであろう。同じように「カミ」を示せば、「神」という文字を書いて「シン、あるいはジン」とよんだであろう。つまり「カミ」は日本の言語、「神」は渡来文化。「神社」を「カミモリ」といわず、「ジンジャ」と音読みするのは、「神社」という語彙が仏教と同じ外来文化だということになる。
次第に漢字に慣れてゆくうちに、漢字の一音を藉りて、これで日本語を表現する方法がとられるようになった。「萬葉仮名」はその霊で、ほかにも、神の名称、古い神社などにこの表音文字の霊が見られる。
この方法で表示皿田表記は、漢字には意味が無いから、この表記から、表意を酌むことはできない。
更に時代が下がると、音と訓を混用する折衷文化が生まれた。
「重箱読み(じゅうばこ)」などといわれるのは、上が「音読み」、下が「訓読み」である。
これに対し、「湯桶(ゆとう)」といわれるものは、上が「訓読み」、下が「音読み」である。
一般に「〇〇神社」などと称び慣わしている呼称は、「固有称(前半)」が倭訓(和訓)であり、「普遍称(後半)」は、音読みの例が多い。つまり、【湯桶読み】である。
神のお名称もまた、神社の固有称もまた倭訓(和訓)が多いことに留意しておく必要がある。