暘州通信

日本の山車

◇20447 祭は神賑わい

2009年07月23日 | 日本の山車
◇20447 祭は神賑わい
 本来、祭は祖神を中心として生活を営む一定の地域のい一族縁者の総会ともいえる。出身地を離れて生計をたてているものも、正月と盆には帰省するのはごく一般にみられる習俗である。しかし、この正月、盆よりも祭が重視される地域もすくなくない。木曾谷では、たとえ、「お正月、お盆には帰れなくてもせめて祭には帰りたい」といわれる。滋賀県余呉町の「茶碗祭」は奇祭だが、祭のときには故郷を離れ他の地区にでていても、祭にはかならず帰って祭に奉仕するといわれる。いい習慣だと思う。
 祭は神と歌舞、飲食をともにし一日をともに楽しむ。饗会(なおらい)といい、神と同じものを食べ、酒を酌み神人ともにたのしむ。その場所を「饗場(あえば)」といい、
石川県能登には「あえのこと」がおこなわれる。
 平素日常の御法度もこの日はかなり寛大に見過ごされ、神も少々の無礼を咎めたりせず、酒が入るとかなり卑猥なことばが飛び交い、唄が歌われる。天照大神がお隠れになったとき、天の岩戸のまえで歌舞飲食をし、天鈿女命が裸身で舞って居並ぶ神々の喝采をあびた姿は、忘年会など、古今変わることは無い。
 祭には、神人が同じものを食べ、飲み、歌舞音曲をたのしみこの日は無礼講で、少々行過ぎた行いも黙認され、神様も別に罰を下したりしない。
 抑圧された武家政治のおこなわれた江戸時代、行過ぎた行為も祭ゆえに見過ごされる例は多かった。万民はこの日は為政者の抑圧から解放されたのである。
 ともに山車を曳き、神と歌舞飲食を共にするのはおおきな楽しみであった。秩父音頭に「秋蚕(あきこ)しもうて 麦蒔き終えた 秩父祭を待つばかり」とあるが、祭には他郷からも多くの人が招かれ、屋臺歌舞伎が上演された家々の二階は上等の桟敷で、窓を開け放って飲食しながら芝居を楽しんだ、
 山車は荘厳されて、観客の目を驚かせたのしませた。
 江戸時代には山車、屋臺の華美法度を禁じる触れがなんども出されているが、一時はなりをほそめても、いっこうに効き目は無かったようである。
 山車は当初からその姿であったのではなく、練り物、風流、傘鉾などを経て次第にげんざいのかたちへと発展移行してきた。しかし、神人ともに歌舞飲食する神賑わいの精神は一貫している。民謡、民舞、文学、美術、藝能、建築、彫刻などの総合文化発展にはたした山車の役割は大きい。