暘州通信

日本の山車

24998 與鹿と武川久兵衛

2007年02月09日 | 日本の山車
24998 與鹿と武川久兵衛
飛騨屋久兵衛こと武川久兵衛は、江戸時代に蝦夷の物産を扱って莫大な産をなし、
青森県の大間には商館があった。加賀の銭五、銭屋五兵衛とも親交があったというが、詳しいよくわからない。礼文島には銭屋五兵衛ゆかりの地がある。大坂天満に飛騨屋久兵衛の出店があった。久兵衛は号を鳩亭といっていたらしい。
飛騨屋久兵衛は南飛騨、萩原(現在下呂市)にある臨済宗妙心寺派の禅昌寺の願主で本堂を寄進し、その建築を請け負ったのが谷口家であった。
禅昌寺の落慶法要には、駿河松隠寺の名僧、白隠が招かれている。白隠は、木曾福島を経て飛騨にはいったが、その後高山にも足をのばし宗猷寺に滞在して碧巌録を説き、越中からは百八十名にもおよぶ僧侶が聴講したといわれる。国府(現在高山市)の安国寺も訪れている。
余談が長くなるので戻る。與鹿は主人武川久兵衛から文箱の注文を受けている。
武川久兵衛の出店の近くに、伊丹岡田家の店があった、
主人岡田糠人は、篠崎小竹の門に学んでいる。


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24766 谷口與鹿の名称

2007年02月09日 | 日本の山車
24766 谷口與鹿の名称

谷口與鹿のよみは「たにぐち よろく」である。
自分で、与六、與麓と書いたものもある。号を無醒(むせい)といったのは、酒が好きで醒めることがなかったから。俳の号は元機(げんき)。
匠号は、宗咸「そうかん」。
高山では読みがわからず苦心したらしい。かって、令禾、富田稔彦氏から「むねたけか?」と聞かれたことがあるが、正しくは「そうかん」である。

(「日本の山車・岐阜県」・寥郭堂文庫資料。


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24452 谷口與鹿旅立ちの衣装

2007年02月09日 | 日本の山車
24452 谷口與鹿旅立ちの衣装

「谷口與鹿が高山を出立したときは、綿入れを着ていたが、あまり暑くなったので綿を抜いてしまい、着物を裏返しにして着ていった」という言い伝えが残されている。
たまたま出会った知人の見た姿とあり、與鹿の奇行として知られているが、誤りである。與鹿が着ていたのは、鶴の羽で織った鶴毟衣(かくしょうい)である(ただし、毟は略字。正字は文字がない)。背に霊和琴(玉堂琴)の鑑製品を背負っていた。麒麟臺で童子が弾いて琴とおなじ型(上記写真)である。このあと與鹿はほとんどこの姿で過ごしたらしい。
浦上玉堂の若い姿そっくりだったという逸話が残されている。
淹留先であった、鹿島屋岡田家主人岡田糠人の還暦祝に出版された周甲図にもこの姿で描かれ、照顔斎、大和田屋金兵衛が描いた與鹿図もこの姿である。
照顔斎が二条家より花の本を許され、京にのぼったとき同行し、孝明天皇にも拝謁したが、このときは橋本香坡がかって妻の静子に仕立てさせた鶴毟衣であった(「日本の山車・岐阜県」・寥郭堂文庫資料)。


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