24998 與鹿と武川久兵衛
飛騨屋久兵衛こと武川久兵衛は、江戸時代に蝦夷の物産を扱って莫大な産をなし、
青森県の大間には商館があった。加賀の銭五、銭屋五兵衛とも親交があったというが、詳しいよくわからない。礼文島には銭屋五兵衛ゆかりの地がある。大坂天満に飛騨屋久兵衛の出店があった。久兵衛は号を鳩亭といっていたらしい。
飛騨屋久兵衛は南飛騨、萩原(現在下呂市)にある臨済宗妙心寺派の禅昌寺の願主で本堂を寄進し、その建築を請け負ったのが谷口家であった。
禅昌寺の落慶法要には、駿河松隠寺の名僧、白隠が招かれている。白隠は、木曾福島を経て飛騨にはいったが、その後高山にも足をのばし宗猷寺に滞在して碧巌録を説き、越中からは百八十名にもおよぶ僧侶が聴講したといわれる。国府(現在高山市)の安国寺も訪れている。
余談が長くなるので戻る。與鹿は主人武川久兵衛から文箱の注文を受けている。
武川久兵衛の出店の近くに、伊丹岡田家の店があった、
主人岡田糠人は、篠崎小竹の門に学んでいる。
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飛騨屋久兵衛こと武川久兵衛は、江戸時代に蝦夷の物産を扱って莫大な産をなし、
青森県の大間には商館があった。加賀の銭五、銭屋五兵衛とも親交があったというが、詳しいよくわからない。礼文島には銭屋五兵衛ゆかりの地がある。大坂天満に飛騨屋久兵衛の出店があった。久兵衛は号を鳩亭といっていたらしい。
飛騨屋久兵衛は南飛騨、萩原(現在下呂市)にある臨済宗妙心寺派の禅昌寺の願主で本堂を寄進し、その建築を請け負ったのが谷口家であった。
禅昌寺の落慶法要には、駿河松隠寺の名僧、白隠が招かれている。白隠は、木曾福島を経て飛騨にはいったが、その後高山にも足をのばし宗猷寺に滞在して碧巌録を説き、越中からは百八十名にもおよぶ僧侶が聴講したといわれる。国府(現在高山市)の安国寺も訪れている。
余談が長くなるので戻る。與鹿は主人武川久兵衛から文箱の注文を受けている。
武川久兵衛の出店の近くに、伊丹岡田家の店があった、
主人岡田糠人は、篠崎小竹の門に学んでいる。
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