戦国時代の武将・柴田勝家を祀る「北ノ庄城址・柴田神社」は、ホテルから約10分の近くにあり、「歴史のみち・北の庄通り」を経てぶらりと散策してみました。
昨秋にも訪れていましたが、神社の境内には、昨年観光プロジェクトの一環として築城された「北ノ庄城」が今も残されており、五層天守閣など強化プラステイックで実に精巧に造られています。
狭い柴田公園の境内に築城されているために、高さは約6M位ですが周囲のビルに囲まれており今一つ趣がなく当時を偲ばれるものではないが、公園内には発掘された堀や石垣など当時の城郭の一部を見ることが出来て、ふくい歴史にタイムスリップすることが出来ました。
また、境内には勝家の銅像やお市の方、三姉妹(茶々・お初・お江)の銅像も並んで建てられており、大河ドラマの「江~姫たちの戦国」のお江人気で活気を呼んでいたようですが、この日は境内には人影なくひっそりとしていた。
資料館では、北の庄城や柴田勝家公に係わる豊富な資料が展示されており、今更ながら我がふるさと福井の誕生から歴史的形成過程を学ぶ機会となりました。
この後は、現在の福井県庁(福井城址)へと向かうが、福井城は家康の命により家康の次男である結城秀康が越前に入り、北ノ庄城を大改修して福井城となったようで、本丸の位置は約1Km近く離れており、その拡充の規模が推し量れます。
御本城橋から堀の中に入り一回りするが、石垣で囲まれた城内には当時の建造物など遺跡は無く、北の一角には、天守閣跡が残されています。
その一角の石垣は、あの福井大震災で崩れたが、そのままの状態で保存されていました。
さらにその脇には、「福井」の名前の由来にもなったと言われている名井戸「福の井」が今も残されています。案内板によると、元の「北ノ庄」の北は敗北に繋がるからと、「福」が居る「福居」に改名し、さらに「福井」となったそうです。
この井戸は、覗いてみると約5M位の深さでしたが、呼びかけると福々とした反響が帰ってきて幸せな気分を味わいますね~これが幸福度で日本一となった由縁でしょうか
天守閣跡に近い御廊下橋を渡り中央公園に戻ると、騒々しい一団に占拠されていましたので、これ何だろうと思えば、何と大飯原発再稼働の反対集会とデモが行われていた。
よく観察してみると物々しい警備の中で、地元の住民の皆さんではなく関西方面からの一団で、丁度細野大臣の福井訪問に合わせての抗議活動でした。それも宣伝カーを見ると左翼系の連中のようで、イデオロギー論争から出発している匂いがしてくる。
本来は、消費地が稼働推進派となり、供給側が反対派になる構図が一般的だろうが、大飯原発に関しては、その構図が全く逆のようで、もっと意見交換でイデオロギー抜きの議論が出来なのだろうか?と思いつつ、ホテルへ戻ってきた。