goo blog サービス終了のお知らせ 

カクレマショウ

やっぴBLOG

備えあれば“少しの憂い”で済む。

2012-02-27 | ■社会/政治

東日本大震災からまもなく1年を迎えようとしていますが、家族を失った人たちの悲しみ、悔しさが癒えるわけではありません。

 

今朝の毎日新聞でも、防災庁舎にいて津波に流され今も行方不明だという南三陸町の役場職員のお父さんが、やりきれなさを語っていました。昨日、遺体が見つからないまま葬儀をすませたという。

 

防災庁舎に行けと命じたのは町長であり、息子は天災ではなく人災に遭ったのではないかと彼は言う。町長は、高さ12mの防災庁舎に避難すれば「6mの津波」に対しては十分という認識だった。しかし、それは町長の「判断ミス」であり、高台への避難を指示するべきだったのではないか…。この1年、その父親は町長に3度の「真相究明の質問書」を送り、町長からもその都度回答を受け取っているという。適切な指示があれば、息子が津波に呑まれることはなかった…。割りきれない思いは十分すぎるほど伝わってきます。

 

でも、あの状況で「適切な指示」が可能だったのか、とも思う。大川小学校の出来事とも通じます。裏山に避難させれば助かったのに、学校がそういう指示を出さなかったから子どもたちの多くが犠牲になってしまった。親としてはたまりませんよね。学校や教育委員会に対して憤る気持ちは分かります。助かった校長が、子どもを亡くした保護者に「申し訳ありませんでした」と頭を下げるのを見るのは、なんだか本当にしのびない。「申し訳ない」のは、きちんとした誘導ができなかったことか。ただ、私には、「大津波が来たこと」自体に対してまで彼が謝罪しているようにも見えました。そんな必要は、もちろん全くないのに。

 

「天災」なのだから、犠牲者が出ても仕方ない、なんてとても割り切れるものではありません。ましてや遺族にしてみたら、なぜうちの子が…うちの親が…という気持ちになるのは十分分かる。でも、だからといってあれは「人災」だった、と言い切れるものなのか…。あれだけの甚大な被害をもたらした天災に直面して、人間は「適切な指示」はおろか、なすすべもなかったというのが本当のところではなかったのか。

 

もちろん、だからといって、手をこまねいているわけにもいかない。天災に対して、人間は、少なくとも「適切な指示」ができるように準備しておかなければならない。大人に対する「適切な指示」はともかく、子どもたちに対しては絶対に必要なことです。

 

さらに、何よりも大切なのは、自分の命は自分で守る、ということではないのか。そういう「力」を身に付けさせるのが「防災教育」です。口幅ったい言い方ですが、「人のせいにしない」というのは災害時の一つのマナーでもあるでしょう。自分の責任で自分と家族を守ること、最低限、それくらいはできるようにしておきたい。

 

「備えあれば憂いなし」…とは必ずしも言えないことも震災は教えてくれました。でも、「備えあれば“少しの憂い”で済む」ということは確かですね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。