「西京」という都市名は現在、中国には存在しません。ただ、かつて西安が一時「西京」とされていたことがありました(1930~43)。「西」の都は中国にとってはやはり西安です。私たちにとっては、「長安」という名前の方がなじみ深いかも知れません。
長安を初めて都にしたのは前漢(前202-後220)ですが、それ以前に、秦の始皇帝が定めた都咸陽(かんよう)もまた現在の西安の郊外にありました。始皇帝の墓陵である驪山(りざん)も、兵馬俑坑も、現在の住所は「西安市」です。さらにさかのぼれば、周(西周)が都とした鎬京(こうけい)もまた西安郊外に位置しています。黄河の支流である渭水(いすい)流域の渭水盆地に位置するこのあたりは、中国古代史上の一中心で、秦漢以降は「関中」と呼ばれていました。
漢代の長安は、現在の西安市よりやや北西に位置していましたが、隋(581-618)代に、新しい長安の町が築かれることになりました。これが現在の西安市にあたります。平城京、平安京が模倣したのも、基本的にはこちらの長安の町並みになります。
そして、300年にわたって中国を支配した唐(618-907)の歴史は、まさに長安とともにあったといっても過言ではありません。特に、その最盛期である玄宗(位712-756)の時代には人口100万人を超え、世界最大の都市として繁栄します。楊貴妃とのラブロマンスの舞台となったのもこの町です。
長安はまた「国際都市」でもありました。「シルクロードの玄関」として、ユーラシア大陸を貫くオアシスの道を通って、西方から様々な交易品が流入すると同時に、様々な人種や民族の人々が長安にやってきました。またそれにともなって、イスラム教(回教)、ゾロアスター教、マニ教など、様々な西方の宗教が伝えられました。キリスト教が初めて中国に伝えられたのもこの時代です。ただし、そのキリスト教は、「カトリック」ではなく、ヨーロッパでは異端とされたネストリウス派でした。「景教」と呼ばれたこのキリスト教、長安にもけっこう信者がいたと見られ、大秦寺という景教寺院に「大秦景教流行中国碑」という記念碑まで建てられています(ちなみに「大秦」とはローマのこと)。
このように、古代中国の主要な王朝の都として栄えてきた西安ですから、当然のように史跡や歴史的建造物には枚挙にいとまがありません。「西安旅游網」のサイトによれば、「西安には重要文物遺跡が314ヶ所、国家級、省級の重要文物遺跡が84ヶ所、博物館と記念館が約20ヶ所、遺跡や陵墓が約4000ヶ所、出土した文物は約12万点あります」とのことです。
そんな西安、私にとっては「大雁塔のある町」です。かつてシルクロード・ウォークの際、帰途に1泊したこの町で、大雁塔をめぐる一つの思い出があるからです。
観光地めぐりで、兵馬俑坑や華清池(玄宗と楊貴妃のロマンスの舞台となった温泉地)、碑林などには行ったものの、時間の都合で大雁塔に行けなかったのです。大雁塔といえば、長安のシンボルタワー。玄奘がインドから持ち帰った仏典・仏像を収めるために、慈恩寺境内に建てられた塔です。どうしてもこの目で“Big Pagoda”が見たくて、夕食後にひとりでバスに乗って出かけたのでした。当然、すでに門は閉ざされ、中に入ることはできませんでしたが、うっすらと夕闇の中に浮かぶ大雁塔の姿を拝むことはできました。
問題はホテルまでの帰りでした。地図を見ながら近くのバス停でバスを待っていたのですが、さっきまであんなに走っていた2両連結のバスが1台も通りません。あたりは真っ暗で人通りも少なくなり、だんだん心細くなってきた私に、中国人の若者が声をかけてくれました。なんとか片言の中国語と英語と筆談で状況を説明すると、彼は、もう最終バスが行ってしまったと言うではありませんか。えっ!どうしよう。ホテルに帰れない!? 蒸し暑い夜なのに、背中に冷汗が…。と、そのとき、彼がかなたを指さし、なんだか叫んでいます。見ると、別の通りをバスが走っていきます。わけがわからないまま、バスに向かって走り出した彼のあとを夢中で追いかける。バスに追いついた彼は、運転手に何事か告げると、バスは止まりました。どうやらこのバスでもホテルの近くまでは行けるらしいのです。私は息を切らしながらも、彼に「謝謝」を繰り返し、バスに乗り込みました。こうして、名前も知らない彼のおかげで、来たときとはたぶんずいぶん遠回りをしながらも、ようやくホテルに帰り着くことができたのでした。ホテルの正面玄関が閉められていて、開けてもらうのにもう一苦労、というオチまでついて。というわけで、西安といえば大雁塔。なのでした。
「大雁塔のある町」長安は、1928年の市制施行の際に「西安」と改称されています。
長安を初めて都にしたのは前漢(前202-後220)ですが、それ以前に、秦の始皇帝が定めた都咸陽(かんよう)もまた現在の西安の郊外にありました。始皇帝の墓陵である驪山(りざん)も、兵馬俑坑も、現在の住所は「西安市」です。さらにさかのぼれば、周(西周)が都とした鎬京(こうけい)もまた西安郊外に位置しています。黄河の支流である渭水(いすい)流域の渭水盆地に位置するこのあたりは、中国古代史上の一中心で、秦漢以降は「関中」と呼ばれていました。
漢代の長安は、現在の西安市よりやや北西に位置していましたが、隋(581-618)代に、新しい長安の町が築かれることになりました。これが現在の西安市にあたります。平城京、平安京が模倣したのも、基本的にはこちらの長安の町並みになります。
そして、300年にわたって中国を支配した唐(618-907)の歴史は、まさに長安とともにあったといっても過言ではありません。特に、その最盛期である玄宗(位712-756)の時代には人口100万人を超え、世界最大の都市として繁栄します。楊貴妃とのラブロマンスの舞台となったのもこの町です。
長安はまた「国際都市」でもありました。「シルクロードの玄関」として、ユーラシア大陸を貫くオアシスの道を通って、西方から様々な交易品が流入すると同時に、様々な人種や民族の人々が長安にやってきました。またそれにともなって、イスラム教(回教)、ゾロアスター教、マニ教など、様々な西方の宗教が伝えられました。キリスト教が初めて中国に伝えられたのもこの時代です。ただし、そのキリスト教は、「カトリック」ではなく、ヨーロッパでは異端とされたネストリウス派でした。「景教」と呼ばれたこのキリスト教、長安にもけっこう信者がいたと見られ、大秦寺という景教寺院に「大秦景教流行中国碑」という記念碑まで建てられています(ちなみに「大秦」とはローマのこと)。
このように、古代中国の主要な王朝の都として栄えてきた西安ですから、当然のように史跡や歴史的建造物には枚挙にいとまがありません。「西安旅游網」のサイトによれば、「西安には重要文物遺跡が314ヶ所、国家級、省級の重要文物遺跡が84ヶ所、博物館と記念館が約20ヶ所、遺跡や陵墓が約4000ヶ所、出土した文物は約12万点あります」とのことです。
そんな西安、私にとっては「大雁塔のある町」です。かつてシルクロード・ウォークの際、帰途に1泊したこの町で、大雁塔をめぐる一つの思い出があるからです。
観光地めぐりで、兵馬俑坑や華清池(玄宗と楊貴妃のロマンスの舞台となった温泉地)、碑林などには行ったものの、時間の都合で大雁塔に行けなかったのです。大雁塔といえば、長安のシンボルタワー。玄奘がインドから持ち帰った仏典・仏像を収めるために、慈恩寺境内に建てられた塔です。どうしてもこの目で“Big Pagoda”が見たくて、夕食後にひとりでバスに乗って出かけたのでした。当然、すでに門は閉ざされ、中に入ることはできませんでしたが、うっすらと夕闇の中に浮かぶ大雁塔の姿を拝むことはできました。
問題はホテルまでの帰りでした。地図を見ながら近くのバス停でバスを待っていたのですが、さっきまであんなに走っていた2両連結のバスが1台も通りません。あたりは真っ暗で人通りも少なくなり、だんだん心細くなってきた私に、中国人の若者が声をかけてくれました。なんとか片言の中国語と英語と筆談で状況を説明すると、彼は、もう最終バスが行ってしまったと言うではありませんか。えっ!どうしよう。ホテルに帰れない!? 蒸し暑い夜なのに、背中に冷汗が…。と、そのとき、彼がかなたを指さし、なんだか叫んでいます。見ると、別の通りをバスが走っていきます。わけがわからないまま、バスに向かって走り出した彼のあとを夢中で追いかける。バスに追いついた彼は、運転手に何事か告げると、バスは止まりました。どうやらこのバスでもホテルの近くまでは行けるらしいのです。私は息を切らしながらも、彼に「謝謝」を繰り返し、バスに乗り込みました。こうして、名前も知らない彼のおかげで、来たときとはたぶんずいぶん遠回りをしながらも、ようやくホテルに帰り着くことができたのでした。ホテルの正面玄関が閉められていて、開けてもらうのにもう一苦労、というオチまでついて。というわけで、西安といえば大雁塔。なのでした。
「大雁塔のある町」長安は、1928年の市制施行の際に「西安」と改称されています。
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