
先日、ある町の職員の方が相談に来られました。このたび社会教育計画を策定したので、それに基づいて社会教育関係の事業を根本的に見直したいとのこと。相談と言っても、もう既に彼なりのビジョンや実行するための方法・手段はちゃんと考えられていたので、アドバイスなどすることはほとんどありませんでしたが…。
社会教育主事として、彼は、「住民主体の地域づくり」を実現したいという熱い思いを持っています。自分に求められている仕事をきちんとわきまえているところに感動しました。いえ、当たり前といえば当たり前ですが、そうでない職員も多いもので^^;
中央集権から地方分権へと言われて久しいですが、地方分権の行き着くところは、「地域主権」だと思います。つまり、自分の住まいに一番近いところ(地域)で、それぞれの住民の皆さんが自治を行うのが基本。地域で解決できない問題は、市町村という自治体でカバーする。市町村ができない部分は都道府県が、都道府県ができない部分は国が、という「補完性の原則」が地方自治の原則です。自分たちの住んでいるところの問題は、役所任せにしないで、まずは自分たちで解決方法を考えようよ、ってことです。
なんでもかんでも行政に頼るのは、日本人特有の悪い癖で、それは、明治以来、「公(おおやけ)」というのは「行政」つまり「お上」のことだという間違った思い込みのせいでもあります。「公園」というのは、行政が作ってくれるものだから「公園」なんでしょうか? 違いますね。「公園」は、みんなが誰でも使えるから「公園」なのです。つまり、「公」は、本来、「住民みんな」という意味なのです。英語で言えばpublic。パブリックを略したのが「パブ」(イギリスの居酒屋)ですが、パブは、もちろん「行政が作った飲み屋」ではありません。誰でも集える公共の飲み屋だからパブなんですよね。
民主党政権が言っていた「新しい公共」とは、まさにこのことを指していたわけで、行政だけでなく、住民も一緒に「公共」を作っていこうという動きでした。いえ、過去形ではなく、考え方としては今も脈々と受け継がれていますが。
訪ねてきた彼の計画には、ワールドカフェ形式の住民ワークショップの案もありました。1年かけてじっくりと住民の皆さんの意見やアイディアを聞いて、それを施策や事業に反映させていく。これこそ本来の「公共」の在り方ですね。そして、それを「社会教育」から仕掛けていこうという姿勢がうれしい。そういう流れがほかの市町村の社会教育にも広がることを願いつつ、陰ながら応援していきたいと思っています。
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