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カクレマショウ

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「アヒルと鴨のコインロッカー」─原作の「妙」が薄れるのは仕方ないにしても。

2008-03-30 | ■映画
2006年/日本/110分
監督 中村義洋
原作 伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)
脚本 中村義洋 鈴木謙一
出演 濱田岳 瑛太 関めぐみ 松田龍平 大塚寧々

伊坂幸太郎の同名小説を映画化。なにしろ、原作に相当「力」がある作品だし、構成上も映画にするのは難しいのではと思っていましたが、無難にうまくまとめたなという印象。ただ、言うまでもありませんが、この作品も、映画は映画。やはり原作を超えるものでなない。

伊坂作品を読むのは、これが初めてでした。1年ほど前に仙台に出張した際、駅構内の書店の伊坂幸太郎特設コーナーで見つけ、とりあえずこの本を買って帰りの新幹線の中で読んでみた。最初は、正直言って物語そのものにそれほど「引き込まれる」ことはありませんでした。おもしろい文章を書く人だなあとは思いましたが。新幹線の車中では、この物語が眠気に勝つことはなかったのです。

「本屋を襲撃」するという書き出しが、どこか村上春樹の「パン屋襲撃」とかぶるところがあったせいかもしれません。ボブ・ディランの「風に吹かれて」が重要なモチーフとして使われるのも、ドラマ「愛という名のもとに」でもあったし、別に珍しいことではないし。そもそもタイトルが「いかにも」という感じであまり好みではなかったこともあります。

それでも、読み終わってみて振り返ると、なんとうまく構成されていることかとつくづく思う。物語は、「現在」と「2年前」が交差しながら進むのですが、恥ずかしながら、「2年前」という設定を、私は途中まであまりよく理解していませんでした。ずいぶん読み進めてから、「あ、これは2年前の話なんだ」と気づいてやっと合点がいったというていたらく。それぞれ、語り手が「僕」(椎名)と「わたし」(琴美)で違うのですが、なにしろ「同じ人」が登場してくるもんだから。

原作には、「僕」の部屋の周辺をうろつく「シッポサキマルマリ」という野良猫が登場しますが、映画には一切出てきませんでした。考えてみれば、原作でもこの猫が何か重要な意味を持つかというと、そうでもないらしいので、カットされて当然かもしれません。猫といえば、この作品には「動物」に関わることが多数出てきますね。タイトルの「アヒルと鴨」は別としても、動物虐待、動物園、鳥葬…。映画の冒頭にも、「この映画の製作において、動物に危害は加えられていません ─映画のエンドクレジットによく見られる但し書き」という原作の1ページ目の言葉がそのまま出てきます。最近、日本の捕鯨船を外国の動物愛護団体が襲ったとかいうニュースもありましたが、この手の「感覚のズレ」は、人によって、あるいは国によってずいぶん異なるし、それは永遠に埋めることのできない「ズレ」なのかもしれません。

それから、もう一つのこの作品のテーマは、「外国人」に対する日本人の態度。「ブータン」という国の人が登場しますが、「外国人」であるというだけで、言葉が通じないというだけで日本人が不必要に「構えて」しまうということ。それは、映画の方ではより鮮明に描かれています。たとえば、「僕」と「麗子さん」の出会いのシーンであるバスでの出来事が、映画では別の出来事にすり替えられている。

「麗子さん」が、「僕」に向かって言う。あなたは「遅れてきた登場人物」なのよ。それもこの作品の重要ポイント。ただ、映画では、そのことを強調しようとするあまりか、これも原作とは違う展開を用意しています。つまり、「コインロッカー」にラジカセを入れるのが「僕」であるということ。これは少しだけ違和感を感じました。それはやっぱりブータン人の「ドルジ」の役割だろうよと。「僕」はあくまでも「遅れてきた」人なんだから、どうやったってあの物語の中で主人公にはなれないはず。コインロッカーの中で「風に吹かれて」をエンドレスさせるなんて恰好いいことは「僕」がするべきことじゃない。

ま、映画で「視点」を二つ作るのは無理があるので、「わたし」(琴美)の視点をあえてカットして「僕」だけの視線で物語を進める必要はあるとしても、ならばあえて映画化する必要もないのではと思いました。

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