確か、高校の英語の教科書に奇術師・フーディーニの話が載っていたような気がします。「脱出王」の異名をとるハリー・フーディーニは、今からおよそ100年前に活躍した人ですが、その同じ時代の奇術師の世界を描いた映画が、現在公開中の「プレステージ」です。
現代の奇術のテクニックのほとんどはこの時代に産み出されたものだと言います。ロンドンを舞台に、新しい奇術のタネをめぐって競う二人の奇術師をめぐる物語。ちょうど、「電気」を人間が使い始めた時代でもあり、そのへんの絡まりも面白い。
アンジャー(ヒュー・ジャックマン)とボーデン(クリスチャン・ベール)は、もともとある奇術師のもとで修行する仲間同士でした。彼らの師匠の最大の呼び物は、水槽脱出。手足を縛られて水槽に放り込まれ、脱出してくる女性はアンジャーの妻・ジュリア。ところがある日のステージで、脱出に失敗したがジュリアが死んでしまう。アンジャーは、妻の死は、サクラとして彼女の手を縛ったボーデンのせいだとして、彼を恨むようになる。奇術師どうしのいさかいは、そのまま、新しい奇術のタネをめぐる争いとなっていきます。
二人が最もしのぎを削ったのが「瞬間移動」でした。そのマジックで人気を博すボーデンに対し、アンジャーは、なんとその「タネ」を盗み出そうとするのです。奇術師としてのプライドがあれば、それは決してしてはならない行為だと思うのですが、ボーデンに対する恨み募るアンジャーには、そんな正論はもはや通用しない。かくしてアンジャーは、ボーデンから盗み出した手帳を手がかりに、米国・コロラドの山中に向かう。
そこで登場するのが、あのニコラ・テスラです。私たちの現在の生活に欠かすことのできない交流電力の仕組みや、空中放電装置「テスラコイル」の発明者。アンジャーが訪ねていったのは、まさにそのテスラの秘密研究所だったという設定です。ニコラ・テスラは、旧ユーゴスラヴィア出身で、米国に渡ってエディソンの研究所で働いていたという。ところが、エディソンとの争いがもとで研究所を追い出されてしまいます。その原因は、「直流」と「交流」の違い。あくまでも直流にこだわるエディソンは、交流電力の効率性を主張するテスラが許せなかったのですね。結果、「発明王」として後世に名を残したエディソンに対し、テスラはいわゆる「マッド・サイエンティスト」という烙印を押されてしまう。
のちに、同じ年に二人ともノーベル物理学賞にノミネートされますが、両者とも受賞を辞退しています。テスラにとっては、エディソンと並んで授賞式に並ぶことが耐えられなかったのかもしれません。面白いのは、テスラが、エディソンの言った「天才とは、99%の汗と1%のひらめきである」という言葉を皮肉って言った言葉です。「私ならその努力の90%を節約することができる」…。テスラ自身は、エディソンに負けず劣らずの努力家だったらしいですけどね。
ここにも、同じような「ライバル物語」が隠されています。
さて、話が思わずテスラに飛んでしまいましたが、「マッド・サイエンティスト」には、「秘密」の研究所がつきもの。アンジャーが訪ねる山の中の研究所もまさにそんな趣です。テスラはその研究所で、空中放電装置の実験を行っていたのです。テスラを演じているのは、デヴィッド・ボウイですが、「マッド・サイエンティスト」の雰囲気を見事に醸し出してくれています。そこで、アンジャーは、テスラから世にも不思議な装置を譲り受けるのです…。
前半、中国人奇術師(彼もまた実在の人物らしい)のエピソードがさりげなく組み込まれていますが、水の入った水槽を一瞬のうちにテーブルに取り出す奇術をするために、彼は「人生のすべてを犠牲にしている」。それが、この映画を貫く重要なキーワードになっています。
「観客の驚く顔を見るために」、奇術師は人生のすべてを犠牲にすることも厭わない。それがどんなに不自由な生活であっても、です。それこそ「プロフェッショナル」というのかもしれません。タネを盗むのは、プロにはあるまじき行為ですが、アンジャーも最後は、ある意味で、「人生のすべてを犠牲にする」ことを決意したということでしょうか。
それほど期待感満々で見たわけではなかったのですが、いい意味で裏切られた映画でした。そういえば、あの「メメント」を撮ったクリストファー・ノーラン監督の映画だったのですね。最初、時間軸があっちいったりこっち行ったりするあたり、「メメント」っぽいかも。そのため、ちょっと頭の整理をしながら見る必要があるかもしれませんが、そこをクリアできれば、あとはすんなりラストの「どんでん返し」まで楽しめます。少しばかり「ベタ」な結末ではありますが…。奇術師にだまされまいと思って見ているので、さらに何かびっくりするような「仕掛け」があるのでは?とついつい期待してしまいます。
現代の奇術のテクニックのほとんどはこの時代に産み出されたものだと言います。ロンドンを舞台に、新しい奇術のタネをめぐって競う二人の奇術師をめぐる物語。ちょうど、「電気」を人間が使い始めた時代でもあり、そのへんの絡まりも面白い。
アンジャー(ヒュー・ジャックマン)とボーデン(クリスチャン・ベール)は、もともとある奇術師のもとで修行する仲間同士でした。彼らの師匠の最大の呼び物は、水槽脱出。手足を縛られて水槽に放り込まれ、脱出してくる女性はアンジャーの妻・ジュリア。ところがある日のステージで、脱出に失敗したがジュリアが死んでしまう。アンジャーは、妻の死は、サクラとして彼女の手を縛ったボーデンのせいだとして、彼を恨むようになる。奇術師どうしのいさかいは、そのまま、新しい奇術のタネをめぐる争いとなっていきます。
二人が最もしのぎを削ったのが「瞬間移動」でした。そのマジックで人気を博すボーデンに対し、アンジャーは、なんとその「タネ」を盗み出そうとするのです。奇術師としてのプライドがあれば、それは決してしてはならない行為だと思うのですが、ボーデンに対する恨み募るアンジャーには、そんな正論はもはや通用しない。かくしてアンジャーは、ボーデンから盗み出した手帳を手がかりに、米国・コロラドの山中に向かう。
そこで登場するのが、あのニコラ・テスラです。私たちの現在の生活に欠かすことのできない交流電力の仕組みや、空中放電装置「テスラコイル」の発明者。アンジャーが訪ねていったのは、まさにそのテスラの秘密研究所だったという設定です。ニコラ・テスラは、旧ユーゴスラヴィア出身で、米国に渡ってエディソンの研究所で働いていたという。ところが、エディソンとの争いがもとで研究所を追い出されてしまいます。その原因は、「直流」と「交流」の違い。あくまでも直流にこだわるエディソンは、交流電力の効率性を主張するテスラが許せなかったのですね。結果、「発明王」として後世に名を残したエディソンに対し、テスラはいわゆる「マッド・サイエンティスト」という烙印を押されてしまう。
のちに、同じ年に二人ともノーベル物理学賞にノミネートされますが、両者とも受賞を辞退しています。テスラにとっては、エディソンと並んで授賞式に並ぶことが耐えられなかったのかもしれません。面白いのは、テスラが、エディソンの言った「天才とは、99%の汗と1%のひらめきである」という言葉を皮肉って言った言葉です。「私ならその努力の90%を節約することができる」…。テスラ自身は、エディソンに負けず劣らずの努力家だったらしいですけどね。
ここにも、同じような「ライバル物語」が隠されています。
さて、話が思わずテスラに飛んでしまいましたが、「マッド・サイエンティスト」には、「秘密」の研究所がつきもの。アンジャーが訪ねる山の中の研究所もまさにそんな趣です。テスラはその研究所で、空中放電装置の実験を行っていたのです。テスラを演じているのは、デヴィッド・ボウイですが、「マッド・サイエンティスト」の雰囲気を見事に醸し出してくれています。そこで、アンジャーは、テスラから世にも不思議な装置を譲り受けるのです…。
前半、中国人奇術師(彼もまた実在の人物らしい)のエピソードがさりげなく組み込まれていますが、水の入った水槽を一瞬のうちにテーブルに取り出す奇術をするために、彼は「人生のすべてを犠牲にしている」。それが、この映画を貫く重要なキーワードになっています。
「観客の驚く顔を見るために」、奇術師は人生のすべてを犠牲にすることも厭わない。それがどんなに不自由な生活であっても、です。それこそ「プロフェッショナル」というのかもしれません。タネを盗むのは、プロにはあるまじき行為ですが、アンジャーも最後は、ある意味で、「人生のすべてを犠牲にする」ことを決意したということでしょうか。
それほど期待感満々で見たわけではなかったのですが、いい意味で裏切られた映画でした。そういえば、あの「メメント」を撮ったクリストファー・ノーラン監督の映画だったのですね。最初、時間軸があっちいったりこっち行ったりするあたり、「メメント」っぽいかも。そのため、ちょっと頭の整理をしながら見る必要があるかもしれませんが、そこをクリアできれば、あとはすんなりラストの「どんでん返し」まで楽しめます。少しばかり「ベタ」な結末ではありますが…。奇術師にだまされまいと思って見ているので、さらに何かびっくりするような「仕掛け」があるのでは?とついつい期待してしまいます。
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