カクレマショウ

やっぴBLOG

「アイデンティティ」を表す日本語は?

2007-06-18 | ■社会/政治
みうらじゅんの傑作「アイデン&ティティ」は別としても、「アイデンティティ」という言葉を好んで使う人はけっこう多いようです。曰く、「自分のアイデンティティを大切に」、「日本のアイデンティティを守ろう」、「このクルマのアイデンティティは」…。

でも、いったい「アイデンティティ」って何なのでしょう? 自分らしさ? 自己の存在理由? 個の独自性?

先日書いた外来語言い換え提案」では、「アイデンティティー」の言い換え語を、「独自性 自己認識」としています。同提案にもあるとおり、"identity"は心理学の専門用語として日本に入ってきた言葉で、「自己同一性」という訳語も使われます。

ところで、この提案に、かつて森隆夫さん(お茶の水大学名誉教授)が疑問を投げかけたことがありました(『悠』2004年1月号)。森氏は、アイデンティティの考え方は、そもそも国家と個人を対立する位置に置く欧米型の発想に基づいているという。個人が「自己認識」するためには、「社会認識」つまり、社会とは「個人の責務の上に成立する」ものであるという発想が不可欠で、こうした「自己認識」と「社会認識」の同一化、「自分たち(複数)で作った国家に自分(単数)を同一化していくこと」こそがアイデンティティであると。「私」より「公」を優先する日本(東洋)では、なかなかこの考えを理解するのは難しい。ということは、アイデンティティの訳も困難だということですね。で、森氏の提案する訳語はこうです。「社会的責任の自覚と遂行」。

森氏は、そもそも、外来語を日本語に訳せないのはおかしいと言う。「本当に意味が分かっていれば、日本語に訳せないことはないはずである」。「アイデンティティーはアイデンティティーで訳しようがない」、と言うのは、意味がわかっていないと言っているのと同じ。確かにそうかもしれません。外国で使われている意味をきちんと知っていなければ、日本語に訳しようがありません。やたらとカタカナ語を並べ立てる文章も、どれだけちゃんと意味が分かって書いているのか。そして、それを読んで「分かったような気持ち」になっているのもどこかヘン。

明治の人は、西洋から怒濤のように入ってきた新しい言葉を、実に的確に日本語に置き換えていきました。もちろん、その言葉の社会的背景や人々がどういう場面で使っているかなどを十分に理解した上での訳語だったにちがいありません。だからこそ、今でも通用しているのです。そういう先達を私たちも見習ってもいいのかもしれません。漢字は、組み合わせていくらでも新しい言葉を作り出せる文字なのですから。

「独自性」とか「自己認識」じゃ言い足りないし、かといって「社会的責任の自覚と遂行」じゃ、アイデンティティの「訳語」ではなくて、「説明」ですね。ちなみに、台湾では「志同」と訳しているそうです。日本語の語感で言えば、「志」が「同じ」? それはそれでまたちょっと意味が違うような気もしますけど…。

 

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