カクレマショウ

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「パッション」─もちろんこれがイエスの「すべて」ではない。

2007-12-02 | └歴史映画
THE PASSION OF THE CHRIST
2004年/米・イタリア/127分
監督: メル・ギブソン
製作: メル・ギブソン
脚本: メル・ギブソン ベネディクト・フィッツジェラルド
撮影: キャレブ・デシャネル
音楽: ジョン・デブニー
出演:ジム・カヴィーゼル/イエス・キリスト マヤ・モルゲンステルン/イエスの母マリア
モニカ・ベルッチ/マグダラのマリア ロザリンダ・チェレンター/サタン

世界史の授業で、「キリスト教の成立」を扱う際、私は「キング・オブ・キングス」を教材として使っていました。イエスを描いた映画では、この映画が一番聖書に忠実だと考えたからです。もちろん、新約聖書はあくまでキリスト教という一宗教の教典であって、そこに書かれていることが歴史的に見て事実とは限らないということはしっかり念押しした上でのことですが。

聖書に描かれるイエス・キリストの生涯は、その「偉大さ」を強調するためとはいえ、これ以上はないというくらいドラマチックです。特に、「受難」の部分は、キリスト教の成立を語る上では欠かせない場面です。映画として描くには申し分のないテーマ。「ブレイブハート」(1995年)でスコットランドの英雄を描いたメル・ギブソン監督が、次なる題材に選んだのが、まさにこのイエスの受難でした。超保守的なカトリックとして知られるメル・ギブソンは、「拷問の末に惨殺されたイエス」を殊更にクローズアップして見せる。ほら、ごらんなさい。イエスはこんなにひどい残酷な仕打ちを受けて死んでいったのだよ、皆の罪を背負って。

もともとユダヤ教徒だったイエスは、戒律に縛られたラビ(僧侶)たちを批判し、「神」の本当の教えを説いて回る。そのため、ラビたちに疎まれ、しかし彼らにはイエスを裁くことができないため、当時ユダヤを支配していたローマに、皇帝への反逆者としてイエスを引き渡す。預けられたローマ総督ピラトは、鞭打ちののち釈放という裁決を下す。

この時の鞭打ちのシーンがあまりにもリアルで残酷だったために、公開当時、賛否両論を呼んだことは記憶に新しいところです。あるいは、ユダヤの描き方に対するカトリック内部での論争も話題になりました。キリスト者とそうでない人では、この映画の見方が全く異なるのは言うまでもないことですが、メル・ギブソン監督は、この映画こそキリスト教信者以外の人にも見て欲しかったのではないのかなと思います。

"passion"は、「情熱、激情」といった意味のほかに、「イエスの受難」という意味もあります。"passion play"は「受難劇」のことですし、"passion fruit"(パッション・フルーツ)は、その花(トケイソウ)の形が十字架を連想させることからその名がつけられたものです。イエスにはそもそも「情熱」とか「激情」という言葉は似合わないと思っていました。彼は、淡々と神の教えを説き、鞭打ちを受け、イバラの冠をかぶせられて、磔(はりつけ)の刑に処せられた。しかし、この映画を見ると、彼を支えていたのは、神に対する「情熱」にほかならなかったのかも、と思えてきます。

さて、この映画は、イエスは当時実際に使っていたとされる西方アラム語を話しています。たとえば、十字架の上で思わずイエスがつぶやく「エリ、エリ、レマー、サバクタニ」(我が神よ、どうして私を見捨てるのですか)がアラム語です。この言葉は、福音書でもそのままアラム語で記されています。「お前は三度私を裏切るだろう」とイエスに予言されるペテロの名前は、「ケーファ」と呼ばれます。「岩」を意味するアラム語です。「ペテロ」は、古代ギリシア語で岩を表す「ペトロス」から来ています。また、ローマ兵が話す言葉はもちろんラテン語です。もっとも、ローマ人がユダヤ人に話す時にはアラム語を使っているのだとか。

映画、特に「歴史映画」の場合は、本来、登場人物がふだん話していた言葉で語られるべきだ、と私はかねがね思っています。イエスを題材にした映画にしても、イエスが「英語」を話していたわけはないし、イエスの映画が英語圏で作られて英語圏の人が主に見るだろうことを想定しての便宜的な手段でしかない。この映画でイエスに西方アラム語で語らせているのは、当時の「現実」により近づけようという意図があったのかもしれません。ラテン語も西方アラム語も、現在使っている人はほとんど皆無であり、そうした言語をあえて用いる必要があるのかという問題はとりあえず置いとくとして。

それと、この映画の新しい趣向として、「サタン」がイエスの周りをうろつくという設定があります。女性の姿で描かれるサタンは、時にイエスをそそのかし、その意志を曲げようとする。鞭打ちの刑に耐えるイエスの背後では、「悪魔の子」を抱っこして歩き回る。しかし、イエスがすべてを受け入れて「昇天」した瞬間、彼女は姿を消すのです。「神」の力、愛の力が悪魔に勝った…。大変わかりやすい。イエスの死は、この世にはびこる「悪」への勝利でもあったのです。

ところで、イエスがあのまま十字架で死んでしまっただけではキリスト教は生まれなかったでしょう。イエスが捕らわれたあと、恐怖のあまり逃げ出してしまった弟子たちがイエスを「神の子」だと認めるようになるのは、イエスが「復活」したからにほかなりません。そのきわめて重要なシークエンスを、この映画では最後にさらりとしか描いていません。死んだ人が生き返る、というのは、きわめて非現実的なことです。磔刑までは、なるほどと思って見ていたとしても、3日後にイエスの墓が空っぽになっていて、弟子たちの前に再び姿を現したんだ!というストーリー展開となると、違和感を感じざるを得ないと思うのです。いくら聖書にそう書いてあるとしても。しかし、そこを描かないわけにはいかない。で、さらりと描くしかなかったのかなと思います。ただ、磔の痕跡である「穴の空いた手」まで見せる必要はないとは思いますけどね。あれだけ全身傷つけられたイエスが、「復活」の時にはきれいな体に戻っていた、でいいと思うのですが。

私は、イエスの「偉大さ」は、この映画で描かれる「最後の12時間」に凝縮はされないと思います。この間に彼がどれだけひどい仕打ちを受けて死んでいったとしても、「最後の12時間」に至るまでに彼が言った言葉、取った行動(あくまでも福音書の記述でしか知り得ないことですが)こそが、キリスト教という宗教を知る上で最も重要な部分です。この映画では、そこはざっくりと切り離され、フラッシュバック的に挿入されるだけ。もちろん、そこまで克明に描くことがメル・ギブソンの意図ではなかったのでしょうけど。

少なくとも、この映画、世界史の授業では使えないのかな、という感じがします。

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