"PRECIOUS: BASED ON THE NOVEL PUSH BY SAPPHIRE"
2009年/米国/109分
【監督】 リー・ダニエルズ
【原作】 サファイア 『プッシュ』
【脚本】 ジェフリー・フレッチャー
【出演】 ガボレイ・シディベ/プレシャス モニーク/母メアリー ポーラ・パットン/ミズ・レイン マライア・キャリー/ミセス・ワイス レニー・クラヴィッツ/ジョン看護師
(c) PUSH PICTURES, LLC
《2010年7月30日 シネマディクト》
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この16歳の女の子にとって、「プレシャス」とはなんと皮肉めいた名前なのだろう。「プレシャス」とは「宝物」のことだというのだから。宝物どころか、まるでゴミのように母親から扱われ、学校でも友だちは一人もいない、絶望の毎日。
ああいう体型の人は、肥満大国・米国では珍しくないとはいえ、それでもスクリーンいっぱいにどか~んと登場されると、ちょっとびびる。貧乏は肥満を生む、のだそうです。「マクドナルド」(まるで仇のように映画で何度もこの言葉が出て来ます)に代表される「ジャンクフード」は、値段が安いがために貧しい人々が好む。その結果、肥満が増えるというわけか。そういえば、映画の中でも、プレシャスが入院した病院の看護師(レニー・クラヴィッツ)が、「オーガニック」食品を食べているシーンがありました。中上流階級の人々は、もちろん健康を考えて、オーガニックを口にすることができる。プレシャスはそんなもの一度も食べたこともない。
アダモステそっくりの母メアリー(モニーク)の体型も、娘ほどではないにしろ、立派なものです。あの二人がそろうと、家の中がやけに狭く感じる。その「鬼母」は、娘を徹底的にいたぶる。虐待の理由は、自分の愛した男が二人とも娘に手を出したからだという。
…やれやれ。
いったいこの親たちは、大人たちはいったい何をしているのだ。もちろんこれは米国だけの問題ではなく、日本でも、最近の虐待事件を見ていると、「どうしようもない親・大人」は確かに存在するのです。
アダモステ・メアリーは、仕事もせずに生活保護で暮らしている。タバコをふかしながらテレビを見て過ごすぐうたらな毎日。食事はプレシャスに作らせる。作らせておきながら、豚足はイヤだとか文句を言う。どっちが母親だか分からない。豚足をプレシャスに食べさせながら、二人はテレビを見ている。そのテレビに映る外国ドラマでは、いつの間にか配役をプレシャスとメアリが演じている。上品な洋服を着て、早く食べなさい、と優しく言うメアリー。このシーン、しっかり笑えました。プレシャスの苛酷な現実と、夢のような想像世界の対比をこんな形で見せてくれるなんて、なかなかやりますね、リー・ダニエルズ監督も。
プレシャスの唯一の救いは、そうした別世界にいる自分の姿を想像できること。辛い目に遭った時こそ、プレシャスの想像世界が本領を発揮します。美しいドレスを見にまとい、舞台で華麗に歌い踊る姿。ファンにせがまれてにこやかにサインをする姿。教会で仲間と一緒にゴスペルを歌い、神に祈る姿。誰でも、自分のなりたい姿を想像することはあるかもしれませんが、プレシャスの場合は、仮に想像世界がなかったら、もはや生きてはいけないほど重要な意味を持っていたのでしょう。
学校に二人目の子どもを妊娠していることがばれ、退学させられてオルタナティブ・スクール(代替学校)に転校することになるプレシャス。ここから、彼女の人生は少しずつ変わっていきます。なぜなら、そこにはプレシャスがこれまで一度も触れたことのない「愛」があったから。
コースを若干外れてしまった子どもたちに向けられるブルー・レイン先生(ポーラ・パットン)の、愛情のこもった眼差しと毅然としたふるまい。彼女の美しい姿が胸に焼き付いて離れません。レイン先生は、何でもいい、自分の感じたこと、考えたことをノートに書くように子どもたちに言う。そして、それをみんなの前で発表させる。ろくに字も書けなかったプレシャスは、レイン先生の粘り強い導きで、頭の中にあった想像世界を「表現する」楽しさを知る。文章にすることで、それは自分だけの世界からみんなのものになる。みんなと共有する喜び。ほとんど「仲間」がいなかったプレシャスにとっては、それも初めての体験でした。
この映画は、「教育」に関して、二つのことを改めて気づかせてくれます。
一つは、教育が、ある人々にとって、すばらしく大きな意味を持つということ。プレシャスは、レイン先生という本当の「教育者」に出会ったおかげで、泥沼から這い出し、将来に希望を見出すことを知りました。プレシャスは、教育の力で変わることができたのです。本当に教育の力が必要な子どもたちに手を差し伸べることこそが、教育の役割なのですね。恵まれた環境にあって、自ら学んでいける子は大丈夫なのです。プレシャスや、フリースクールのクラスメートのような子どもたちにこそ、十分な教育の力を注ぐことが大切。
ただ、高校の校長先生からフリースクールを紹介されたプレシャスは、自らその学校を訪ねてみるのですが、そのこと自体、彼女にとって大きな一歩だったのかもしれません。プレシャスは、教育の力をただ待っているだけではなく、ちゃんと自分で人生を切り拓こうとしていたのです。
二つめは、教育”education”とは、まさに一人一人が持っている可能性を「引き出す」ことだということ。プレシャスが潜在的に持っている能力や可能性を、レイン先生は上手に引き出してあげる。プレシャスが求めているものは何なのか、プレシャスの「他人には見えない自分」とは何なのか、そこを見極めた上で、レイン先生はプレシャスに寄り添う。そして、苦しみながらも、プレシャスの未来への道筋を一緒に描き出そうとする。彼女が同性愛者であることが後半さりげなく示されますが、そのこともまた、彼女がプレシャスの痛みを分かち合うことができる理由の一つかもしれません。
プレシャスの「宝物」は、よりによって、実父、義父との間にできた、決して望んでできたわけではないかもしれない二人の子ども。彼らが、でも、「生まれてきた意味があった」と思えるような人生にすることこそ、プレシャスの使命でしょう。それまでは彼女に何とか生き延びてほしい、と思う。
2009年/米国/109分
【監督】 リー・ダニエルズ
【原作】 サファイア 『プッシュ』
【脚本】 ジェフリー・フレッチャー
【出演】 ガボレイ・シディベ/プレシャス モニーク/母メアリー ポーラ・パットン/ミズ・レイン マライア・キャリー/ミセス・ワイス レニー・クラヴィッツ/ジョン看護師
(c) PUSH PICTURES, LLC
《2010年7月30日 シネマディクト》
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この16歳の女の子にとって、「プレシャス」とはなんと皮肉めいた名前なのだろう。「プレシャス」とは「宝物」のことだというのだから。宝物どころか、まるでゴミのように母親から扱われ、学校でも友だちは一人もいない、絶望の毎日。
ああいう体型の人は、肥満大国・米国では珍しくないとはいえ、それでもスクリーンいっぱいにどか~んと登場されると、ちょっとびびる。貧乏は肥満を生む、のだそうです。「マクドナルド」(まるで仇のように映画で何度もこの言葉が出て来ます)に代表される「ジャンクフード」は、値段が安いがために貧しい人々が好む。その結果、肥満が増えるというわけか。そういえば、映画の中でも、プレシャスが入院した病院の看護師(レニー・クラヴィッツ)が、「オーガニック」食品を食べているシーンがありました。中上流階級の人々は、もちろん健康を考えて、オーガニックを口にすることができる。プレシャスはそんなもの一度も食べたこともない。
アダモステそっくりの母メアリー(モニーク)の体型も、娘ほどではないにしろ、立派なものです。あの二人がそろうと、家の中がやけに狭く感じる。その「鬼母」は、娘を徹底的にいたぶる。虐待の理由は、自分の愛した男が二人とも娘に手を出したからだという。
…やれやれ。
いったいこの親たちは、大人たちはいったい何をしているのだ。もちろんこれは米国だけの問題ではなく、日本でも、最近の虐待事件を見ていると、「どうしようもない親・大人」は確かに存在するのです。
アダモステ・メアリーは、仕事もせずに生活保護で暮らしている。タバコをふかしながらテレビを見て過ごすぐうたらな毎日。食事はプレシャスに作らせる。作らせておきながら、豚足はイヤだとか文句を言う。どっちが母親だか分からない。豚足をプレシャスに食べさせながら、二人はテレビを見ている。そのテレビに映る外国ドラマでは、いつの間にか配役をプレシャスとメアリが演じている。上品な洋服を着て、早く食べなさい、と優しく言うメアリー。このシーン、しっかり笑えました。プレシャスの苛酷な現実と、夢のような想像世界の対比をこんな形で見せてくれるなんて、なかなかやりますね、リー・ダニエルズ監督も。
プレシャスの唯一の救いは、そうした別世界にいる自分の姿を想像できること。辛い目に遭った時こそ、プレシャスの想像世界が本領を発揮します。美しいドレスを見にまとい、舞台で華麗に歌い踊る姿。ファンにせがまれてにこやかにサインをする姿。教会で仲間と一緒にゴスペルを歌い、神に祈る姿。誰でも、自分のなりたい姿を想像することはあるかもしれませんが、プレシャスの場合は、仮に想像世界がなかったら、もはや生きてはいけないほど重要な意味を持っていたのでしょう。
学校に二人目の子どもを妊娠していることがばれ、退学させられてオルタナティブ・スクール(代替学校)に転校することになるプレシャス。ここから、彼女の人生は少しずつ変わっていきます。なぜなら、そこにはプレシャスがこれまで一度も触れたことのない「愛」があったから。
コースを若干外れてしまった子どもたちに向けられるブルー・レイン先生(ポーラ・パットン)の、愛情のこもった眼差しと毅然としたふるまい。彼女の美しい姿が胸に焼き付いて離れません。レイン先生は、何でもいい、自分の感じたこと、考えたことをノートに書くように子どもたちに言う。そして、それをみんなの前で発表させる。ろくに字も書けなかったプレシャスは、レイン先生の粘り強い導きで、頭の中にあった想像世界を「表現する」楽しさを知る。文章にすることで、それは自分だけの世界からみんなのものになる。みんなと共有する喜び。ほとんど「仲間」がいなかったプレシャスにとっては、それも初めての体験でした。
この映画は、「教育」に関して、二つのことを改めて気づかせてくれます。
一つは、教育が、ある人々にとって、すばらしく大きな意味を持つということ。プレシャスは、レイン先生という本当の「教育者」に出会ったおかげで、泥沼から這い出し、将来に希望を見出すことを知りました。プレシャスは、教育の力で変わることができたのです。本当に教育の力が必要な子どもたちに手を差し伸べることこそが、教育の役割なのですね。恵まれた環境にあって、自ら学んでいける子は大丈夫なのです。プレシャスや、フリースクールのクラスメートのような子どもたちにこそ、十分な教育の力を注ぐことが大切。
ただ、高校の校長先生からフリースクールを紹介されたプレシャスは、自らその学校を訪ねてみるのですが、そのこと自体、彼女にとって大きな一歩だったのかもしれません。プレシャスは、教育の力をただ待っているだけではなく、ちゃんと自分で人生を切り拓こうとしていたのです。
二つめは、教育”education”とは、まさに一人一人が持っている可能性を「引き出す」ことだということ。プレシャスが潜在的に持っている能力や可能性を、レイン先生は上手に引き出してあげる。プレシャスが求めているものは何なのか、プレシャスの「他人には見えない自分」とは何なのか、そこを見極めた上で、レイン先生はプレシャスに寄り添う。そして、苦しみながらも、プレシャスの未来への道筋を一緒に描き出そうとする。彼女が同性愛者であることが後半さりげなく示されますが、そのこともまた、彼女がプレシャスの痛みを分かち合うことができる理由の一つかもしれません。
プレシャスの「宝物」は、よりによって、実父、義父との間にできた、決して望んでできたわけではないかもしれない二人の子ども。彼らが、でも、「生まれてきた意味があった」と思えるような人生にすることこそ、プレシャスの使命でしょう。それまでは彼女に何とか生き延びてほしい、と思う。
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