カクレマショウ

やっぴBLOG

日本の「教育教」

2007-05-29 | ■教育
かつて、文部科学省に勤務していた頃の岡本薫氏は、その弁舌の巧みさから、「文科省の久米宏」と呼ばれていました。私も何度か岡本氏の講演を聴いたことがありますが、理路整然とはこういうことを言うのだなと感心させられたものです。

理路整然と言えば、岡本氏の主張の「わかりやすさ」は、その著書にも表れています。『行政関係者のための入門・生涯学習政策』(財団法人全日本社会教育連合会、1996年)などはその最たるもので、これを読まずして「生涯学習」の意味はわからないと思っています。

その岡本氏は、文部科学省を退職して、現在、政策研究大学院大学教授。近著『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)は、私にとって、またもや目から鱗が落ちることがたくさんありました。ただ、その「明快さ」に惑わされてはいけないかも…とも感じる部分もいくつかありました。

目次は次の通り。

  序章 「マネジメント」の失敗
  第1章 「現状」の認識に関する論議の失敗
  第2章 「原因」の究明に関する論議の失敗
  第3章 「目標」の設定に関する論議の失敗
  第4章 「手段」の開発に関する論議の失敗
  第5章 「集団意思形成」に関する論議の失敗

タイトルと目次でわかるとおり、日本の「教育論議」を、マネジメントのプロセスに従って、各段階ごとにその問題点を明らかにしてくれます。こういう「教育論」の本はなかなかありません。「教育論」は、前にも書いたように、誰でも論じることができるものですが、その多くは「教育=精神論」によって立つものが多いような気がしています。しかし、岡本氏は、教育を当たり前にように「論理」として語ってくれるのです。

たとえば、日本人の大好きな、「教育によって人間力をつけよう」といった「粗雑な議論」。日本の抱えている様々な問題は、「精神主義」(だけ)ではとても乗り越えられるものでないことを岡本氏は口を酸っぱくして説く。正確な「現状認識」と「原因究明」、問題を解決するための適切な「目標設定」とそれを達成するための「手段の開発」、そして、手段を実行していくための「集団意思形成」という一連のプロセスがなければならない。これまでの教育論議や教育政策が、いかに「抽象的で具体性を欠」き、「断片的で総合性を欠く」ものだったことか…。

第1章「「現状」の認識に関する論議の失敗」では、海外(岡本氏の「海外」とは、たいてい西欧と米国ですが)と比較しつつ、日本特有の「教育そのものに対する考え方」について、その特徴を列挙しています。

1 教育が理屈抜きで「好き」
2 教育の目的を「心」や「人格」に置く
3 教育について「平等」を求める

つまり、日本人の教育に対する考え方は、まるっきり「宗教」と同じで、「教育教」だと言うわけですね。その上で、こうした「思い込み」がもたらした結果として、次のような現象を挙げます。

1 学校に期待される役割が極めて大きい
2 学校教育への投資が大きい
3 教員の経済的・社会的地位が高い
4 教育が経済問題ではなく政治問題

私自身、いろいろな形で「教育行政」に関わってきた経験から、「正論」として振りかざされる「精神主義」に、ムム、と思ったことが二度や三度ではありません。「正論」だから反論はできないのですが、そういう正論をずっと言い続けてきて、いったい何が変わったのか?とつい思ってしまうのです。

「生きる力」とか「豊かな心」、岡本氏曰く、「念仏のように唱え続け」られてきた言葉ですが、それは「スローガン」でしかなく、本当の意味の「目標」には成り得ないのではないか…。「学力の向上」は、比較的わかりやすい目標ですが、それにしたって、「学力」とはいったい何を指すのか、といった根本的な問題が議論されてきていないのでは?つまり、「学力とは何か」という共通の認識とはかけ離れたところから論じられているのではないのか?

そういった疑問を自分なりに整理するのに、この本はずいぶん役立ちました。

ただ、繰り返しになりますが、あまりの「弁舌さわやかさ」に惑わされないようにしなくちゃ、と思ったことも確かですが…。

『日本を滅ぼす教育論議』≫Amazon.co.jp

  

最新の画像もっと見る

コメントを投稿