神戸・須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件の加害者だった少年が、来月から完全に社会復帰をすることになったとのこと。
彼が犯行声明に書いていた「透明な存在の僕」という言葉は、衝撃的でした。色つきじゃだめだよ、個性なんかいらない。無色透明でいることが大切なんだよ。彼はそう言われ続けてきたのでしょうか。家庭でも学校でも地域でも。誰も「かけがえのない自分」として本気になって向き合ってくれなかった、本当の自分をさらけ出すことができなかった、ということなのでしょうか。
だからといって、それはあんな残忍な犯行を起こす理由にも何もならず、ただ人間として弱かったということに過ぎないと思うのですが、そんな彼が今もまだ生きている。
生きている、というのは、呼吸をして生活しているということではなくて、そんな思いや鬱積や弱さが今もまだ彼の中で息づいているのではないかという意味です。今日の朝日新聞によれば、彼は両親に「なぜあんなことをしたのか」「直接会って謝罪したい」と言っているらしいですが、そんな言葉を聞いても、被害者の家族にとってはやりきれない思いがするだけでしょう。
形は「社会復帰」とはいっても、心の中はどうなのか。それは彼自身にしかわからないことですが、「透明な存在の僕」という思いがまだどこかに残っているとしたら、それはとてもマズイことなんじゃないか、と思うのです。
たぶん、今でも「透明な存在の僕」を感じている子どもたちはたくさんいるのではないかと思います。むしろ増えているのかもしれません。少年犯罪が起こると、世間はこぞって、「親が悪い」とか「学校が悪い」と言いますが、誰も「悪く」なんかないのです。誰か一人でも、「かけがえのない自分」を見てくれる人がいさえすれば、少なくとも人の道を踏み外すことはない…と思うのですが。
彼が犯行声明に書いていた「透明な存在の僕」という言葉は、衝撃的でした。色つきじゃだめだよ、個性なんかいらない。無色透明でいることが大切なんだよ。彼はそう言われ続けてきたのでしょうか。家庭でも学校でも地域でも。誰も「かけがえのない自分」として本気になって向き合ってくれなかった、本当の自分をさらけ出すことができなかった、ということなのでしょうか。
だからといって、それはあんな残忍な犯行を起こす理由にも何もならず、ただ人間として弱かったということに過ぎないと思うのですが、そんな彼が今もまだ生きている。
生きている、というのは、呼吸をして生活しているということではなくて、そんな思いや鬱積や弱さが今もまだ彼の中で息づいているのではないかという意味です。今日の朝日新聞によれば、彼は両親に「なぜあんなことをしたのか」「直接会って謝罪したい」と言っているらしいですが、そんな言葉を聞いても、被害者の家族にとってはやりきれない思いがするだけでしょう。
形は「社会復帰」とはいっても、心の中はどうなのか。それは彼自身にしかわからないことですが、「透明な存在の僕」という思いがまだどこかに残っているとしたら、それはとてもマズイことなんじゃないか、と思うのです。
たぶん、今でも「透明な存在の僕」を感じている子どもたちはたくさんいるのではないかと思います。むしろ増えているのかもしれません。少年犯罪が起こると、世間はこぞって、「親が悪い」とか「学校が悪い」と言いますが、誰も「悪く」なんかないのです。誰か一人でも、「かけがえのない自分」を見てくれる人がいさえすれば、少なくとも人の道を踏み外すことはない…と思うのですが。
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