
“BIUTIFUL”
2010年/スペイン・メキシコ/148分
【監督・製作・原案】アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
【脚本】アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ アルマンド・ボー ニコラス・ヒアコボーネ
【出演】ハビエル・バルデム/ウスバル マリセル・アルバレス/マランブラ エドゥアルド・フェルナンデス/ティト ディアリァトゥ・ダフ/イヘ チェン・ツァイシェン/ハイ アナー・ボウチャイブ/アナ
(C)2009 MENAGE ATROZ S. de R.L. de C.V., MOD PRODUCCIONES, S.L. and IKIRU FILMS S.L.
@シネマディクト
-----------------------------------------------------------------------------------
「21グラム」、「アモーレス・ペレス」、「バベル」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の最新作なので、絶対見逃せない映画。イリャリトゥの映画はいつも深い。のぞき込みたくない人間の業の深淵に連れて行かれます。うっかりすると、そこに落ちちゃう(-“-)
主演は、「ノーカントリー」で怪演したあのハビエル・バルデム。イリャニトゥ監督は、いろんな人間を群像的に描くことが多いのですが、今回は、バルデム演ずるウスバルにぐぐっと焦点を絞っています。バルデムも、もちろん、その期待に十分応えています。彼だけではなく、子役も含めて、みんなそれぞれの持ち味を発揮している。映像も、いつものざらざらっとした、雑なように見えて実は考え抜かれたイリャニトゥ風。隠し味が随所に盛り込まれているので、気が抜けない。時に不快と感じるような音楽も、映像にマッチしているから、まあ、許せるかという気にもなるんです。しかし、ほんとにイリャニトゥの凝り方ときたら尋常じゃない。ウスバルが、父の死期を悟った娘アナとしっかと抱きあうシーンがあるのですが、ぎゅっと抱き合うたびに、どっくんどっくんという心臓の鼓動が鳴り響くのです。ものすごい臨場感。つい、自分が抱き合っているような感覚に陥ります。

ガンを宣告されて余命2か月。映画やドラマではよくあるシチュエーションです。イリャニトゥがこの映画でオマージュを捧げる黒澤明の「生きる」もそんな映画です。ただ、多くの人はそんな立場に立ったことはもちろんないわけで、でも、実際、そういう家族がいたかもしれないし、自分自身ももしそうなったら…と想像したことは一度はあるかもしれない。自分のやり残したことに挑戦するとか、とことん「善き人」になろうとするとか、逆に、思い切り悪さしちゃえとか、想像の世界はいくらでもふくらませることができるでしょう。
でも、ウスバルの場合、選択肢は決して多くない。セネガルとか中国からの不法移民のブローカーという闇の世界に生きながら、ようやく2人の子どもを育てている40代男は、自分の運命を呪う暇もなく、毎日生きることに精一杯なのです。余命2か月と言われたって、そう簡単には生活は変えられない。
でも、観ているうちに、あ、ウスバルも何かを変えようと思っているんだってことがだんだん分かってくる。分かってくる、というより、感じてくる。彼はこの映画でほとんど笑わないし、表情も決して豊かに変化するわけではないのですが、それでも彼の気持ちを感じる。離婚した妻とヨリを戻して、円満な家庭を取り戻し、中国人たちに新しく建設業の仕事を世話し、強制送還されたセネガル人の男の妻と赤ん坊に自分のアパートを貸し与え、必死に「善き人」になろうとするウスバル。残りのわずかな人生、うまくいきそうだ…。
と見せかけておいて、ところが、現実はそううまくはいかないことを、イリャニトゥは残酷なまでに見せつける。この監督の描く世界には予定調和なんて存在しないから。
ウスバルは、死にゆく者と話ができるという特殊な能力を持っています。最後の場面で、まるでイエス・キリストかと見まごう彼の姿が出てきますが、それまでも、天井の薄汚れたシミが聖人たちの顔に見えたりするシーンもあり、やはりこの映画の根底にあるのは、カトリックの世界観なのだと思います。自分はいったい天国に召されるのか。死の間際まで、審判を恐れる弱い人間たち。神の前では、人間はあまりにも無力。ウスバルも、決して口には出さないけれど、最期は「善くありたい」、そしてできることなら「天国に召されたい」と願っていたのでしょうね。
ところで、彼が幼いころに亡くなった父、ウスバルにとって、たった1枚の写真でしか姿しか知らない父は、永遠に追い求める存在です。父が眠る墓地が取り壊されることになって、保存処理をされた父の遺体に対面する。いとおしそうに、半ばミイラ化した父の頬をなでるウスバル。その父と、彼は雪が積もる森で会話する。父は、海の音、風の音を口真似でウスバルに聴かせる。
音。音。音。
文字も言葉も持たない時代、人間はおそらく、口真似や音で意思を伝えるしかなかったのだと思います。その記憶が、今でも時々よみがえってくることがあるんじゃないのか。文字はもちろん大切なツールですが、文字だけでは伝えられないものがあることを人間は遠い記憶の中で、知っている。
娘のアナが「ビューティフル」のスペルをウスバルに尋ねます。ウスバルは、「発音のとおりだよ」とか言って、”BIUTIFUL”と教える。親子4人でピレネーに雪を見に行くことを楽しみにしていたアナは、絵にも「Pyreness IS BIUTIFUL」と書いちゃってるし…。
タイトルの”BIUTIFUL”って、スペイン語の綴りなのかと思っていましたが、そうではなく(ちなみにスペイン語で“beautiful”は”bonito”)、この誤ったスペルには、深い意味が隠されていたのです。「発音したとおりに、聞こえたとおりに書く」、その前提にあるのは、「聞こえたとおりに感じる」こと。文字よりもずっと大切なこと。それは、きっと相手の「音」を感じ取ることなのです。ウスバルの霊能力も、心で死者の言葉を聴きとっているに違いない。抱き合った時の心臓の音も、そうだ。心がつながっているから、それは「聞こえてくる」のです。
アナと二人でベッドに横たわり、ウスバルが母の形見のダイヤモンドの指輪をアナに見せるラストシーンは、あまりに切ない。冒頭でも同じシーンを別のアングルから見せてくれるのですが、その意味が一気に氷解する快感。イリャニトゥ、やっぱりすごいや。
2010年/スペイン・メキシコ/148分
【監督・製作・原案】アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
【脚本】アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ アルマンド・ボー ニコラス・ヒアコボーネ
【出演】ハビエル・バルデム/ウスバル マリセル・アルバレス/マランブラ エドゥアルド・フェルナンデス/ティト ディアリァトゥ・ダフ/イヘ チェン・ツァイシェン/ハイ アナー・ボウチャイブ/アナ
(C)2009 MENAGE ATROZ S. de R.L. de C.V., MOD PRODUCCIONES, S.L. and IKIRU FILMS S.L.
@シネマディクト
-----------------------------------------------------------------------------------
「21グラム」、「アモーレス・ペレス」、「バベル」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の最新作なので、絶対見逃せない映画。イリャリトゥの映画はいつも深い。のぞき込みたくない人間の業の深淵に連れて行かれます。うっかりすると、そこに落ちちゃう(-“-)
主演は、「ノーカントリー」で怪演したあのハビエル・バルデム。イリャニトゥ監督は、いろんな人間を群像的に描くことが多いのですが、今回は、バルデム演ずるウスバルにぐぐっと焦点を絞っています。バルデムも、もちろん、その期待に十分応えています。彼だけではなく、子役も含めて、みんなそれぞれの持ち味を発揮している。映像も、いつものざらざらっとした、雑なように見えて実は考え抜かれたイリャニトゥ風。隠し味が随所に盛り込まれているので、気が抜けない。時に不快と感じるような音楽も、映像にマッチしているから、まあ、許せるかという気にもなるんです。しかし、ほんとにイリャニトゥの凝り方ときたら尋常じゃない。ウスバルが、父の死期を悟った娘アナとしっかと抱きあうシーンがあるのですが、ぎゅっと抱き合うたびに、どっくんどっくんという心臓の鼓動が鳴り響くのです。ものすごい臨場感。つい、自分が抱き合っているような感覚に陥ります。


ガンを宣告されて余命2か月。映画やドラマではよくあるシチュエーションです。イリャニトゥがこの映画でオマージュを捧げる黒澤明の「生きる」もそんな映画です。ただ、多くの人はそんな立場に立ったことはもちろんないわけで、でも、実際、そういう家族がいたかもしれないし、自分自身ももしそうなったら…と想像したことは一度はあるかもしれない。自分のやり残したことに挑戦するとか、とことん「善き人」になろうとするとか、逆に、思い切り悪さしちゃえとか、想像の世界はいくらでもふくらませることができるでしょう。
でも、ウスバルの場合、選択肢は決して多くない。セネガルとか中国からの不法移民のブローカーという闇の世界に生きながら、ようやく2人の子どもを育てている40代男は、自分の運命を呪う暇もなく、毎日生きることに精一杯なのです。余命2か月と言われたって、そう簡単には生活は変えられない。
でも、観ているうちに、あ、ウスバルも何かを変えようと思っているんだってことがだんだん分かってくる。分かってくる、というより、感じてくる。彼はこの映画でほとんど笑わないし、表情も決して豊かに変化するわけではないのですが、それでも彼の気持ちを感じる。離婚した妻とヨリを戻して、円満な家庭を取り戻し、中国人たちに新しく建設業の仕事を世話し、強制送還されたセネガル人の男の妻と赤ん坊に自分のアパートを貸し与え、必死に「善き人」になろうとするウスバル。残りのわずかな人生、うまくいきそうだ…。
と見せかけておいて、ところが、現実はそううまくはいかないことを、イリャニトゥは残酷なまでに見せつける。この監督の描く世界には予定調和なんて存在しないから。
ウスバルは、死にゆく者と話ができるという特殊な能力を持っています。最後の場面で、まるでイエス・キリストかと見まごう彼の姿が出てきますが、それまでも、天井の薄汚れたシミが聖人たちの顔に見えたりするシーンもあり、やはりこの映画の根底にあるのは、カトリックの世界観なのだと思います。自分はいったい天国に召されるのか。死の間際まで、審判を恐れる弱い人間たち。神の前では、人間はあまりにも無力。ウスバルも、決して口には出さないけれど、最期は「善くありたい」、そしてできることなら「天国に召されたい」と願っていたのでしょうね。
ところで、彼が幼いころに亡くなった父、ウスバルにとって、たった1枚の写真でしか姿しか知らない父は、永遠に追い求める存在です。父が眠る墓地が取り壊されることになって、保存処理をされた父の遺体に対面する。いとおしそうに、半ばミイラ化した父の頬をなでるウスバル。その父と、彼は雪が積もる森で会話する。父は、海の音、風の音を口真似でウスバルに聴かせる。
音。音。音。
文字も言葉も持たない時代、人間はおそらく、口真似や音で意思を伝えるしかなかったのだと思います。その記憶が、今でも時々よみがえってくることがあるんじゃないのか。文字はもちろん大切なツールですが、文字だけでは伝えられないものがあることを人間は遠い記憶の中で、知っている。
娘のアナが「ビューティフル」のスペルをウスバルに尋ねます。ウスバルは、「発音のとおりだよ」とか言って、”BIUTIFUL”と教える。親子4人でピレネーに雪を見に行くことを楽しみにしていたアナは、絵にも「Pyreness IS BIUTIFUL」と書いちゃってるし…。
タイトルの”BIUTIFUL”って、スペイン語の綴りなのかと思っていましたが、そうではなく(ちなみにスペイン語で“beautiful”は”bonito”)、この誤ったスペルには、深い意味が隠されていたのです。「発音したとおりに、聞こえたとおりに書く」、その前提にあるのは、「聞こえたとおりに感じる」こと。文字よりもずっと大切なこと。それは、きっと相手の「音」を感じ取ることなのです。ウスバルの霊能力も、心で死者の言葉を聴きとっているに違いない。抱き合った時の心臓の音も、そうだ。心がつながっているから、それは「聞こえてくる」のです。
アナと二人でベッドに横たわり、ウスバルが母の形見のダイヤモンドの指輪をアナに見せるラストシーンは、あまりに切ない。冒頭でも同じシーンを別のアングルから見せてくれるのですが、その意味が一気に氷解する快感。イリャニトゥ、やっぱりすごいや。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます