
“LOST IN TRANSLATION”
2003年/米国・日本/102分
【監督・製作・脚本】ソフィア・コッポラ
【出演】ビル・マーレイ/ボブ・ハリス スカーレット・ヨハンソン/シャーロット ジョヴァンニ・リビシ/ジョン
(C)LOST IN TRANSLATION INC.
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ビル・マーレイも、スカヨハも大好きな俳優なので、しかも、ソフィア・コッポラだし、私にとってこの映画、良くないわけがない。舞台が東京ということもあって、初めて見たときから期待度MAXでした。
ボブ・ハリス(ビル・マーレイ)は、ハリウッド俳優。サントリーのCM撮影で東京にやってくる。同じホテルに泊まっているシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、写真家の夫の出張についてきた若い人妻。
ボブは、時差ボケの上に、妻から瑣末なことでしょっちゅう連絡が入り、いい加減うんざりしている。しかも、肝心の仕事のほうも、横柄な若い監督に注文ばかりつけられるわ、日本人の英語が聞き取れないわで、こっちも気持ちよくとはいかない。
ボブ・ハリスという俳優はフィクションなのに、「サントリー」という企業名や「センチュリーハイアット」というホテル名は実名。「響」というウィスキーも実際にありますね。ボブとシャーロットは映画の中の仮の世界で、日本(東京)はノンフィクション。その設定もソフィア・コッポラらしいかも。というか、この物語は、彼女の実体験に基づくものらしいですけどね。

シャーロットは、まだ23歳。大学では哲学を学んだらしく、その影響もあってか、物事をなんでも突き詰めて考えてしまうところがある。夫を愛しているが、夫が仕事に行ったり、福岡に出張したりしている間は、一人で置いてきぼり。部屋でぼんやり景色を眺めたり、家族に国際電話をかけたり、時には街をぶらついたりもするけど、なんだか満たされない東京の日々を過ごしている。

そんな二人が、ホテルのラウンジバーで出会い、会話を交わすようになる。シャーロットの日本人の友人、“チャーリー“たちと夜の街に繰り出し、怪しげなクラブに行ったり、カラオケで歌いまくったりする。
カラオケの部屋の外に出て、階段でぼんやりタバコを吸うシャーロット。隣にボブもやってきて、並んで座って、ふたりでぼんやりしている。シャーロットは、ボブの肩にもたれかかる。そうするのがごく当たり前のように。

二人は、何かお互いに同じ匂いを感じている。TOKYOという異国の街に違和感を覚えながら、それでも、米国に帰ってしまうのもさみしいような、そんな気がしている。
眠れない夜には、二人で一つのベッドに寝そべって、こんな会話をする。
シャーロット「行き詰っているの」
ボブ「自分自身や望みがわかってくれば、余計なことに振り回されなくなるよ」
でも、二人は決して一線を越えることはない。その線を越えるのが怖いとか後戻りできない、とかじゃなくて、東京ではそうならないことが彼らにとって「当たり前」のように。
“LOST IN TRANSLATION”というタイトルの意味を考えてみる。
“LOST”には、「見失う/なくす」と「迷う/迷子になる」と2つの意味があります。“TRANSLATION”は、普通に「翻訳」でいいのかな。直訳すれば、「翻訳の中で失われる」か。
翻訳って、異なる言葉をつなぐことなので、転じて、異文化をつなぐこと、と解するのはどうでしょうか。とすれば、“LOST IN TRANSLATION”は、「異文化の間で自分を見失う」もしくは「異文化の間で迷子になる」という意味か? 確かに、二人とも、東京という異質な文化の中で自分を見失ってしまっているようで。
「翻訳の中で失われる」といえば、ボブがCMを撮影している時に、日本人の傲慢な監督がなんだかいっぱいしゃべっていて、なのに、通訳がほんの一言しか自分に英語で伝えてくれない、というシーンがありました。テレビの歌番組で、外国のミュージシャンの通訳をする時なんかも、そういうことってよくありますね。もっとしゃべってんじゃん!って。
翻訳の過程で失われて伝わらなかったこと。それは、二度と相手に伝わることはない。でも、それは「翻訳してもらえる」と思っているからなのかもしれない。ボブが、足を痛めたシャーロットを病院に連れて行った時、案内係の男が滔々とまくしたてる日本語の説明を、ボブは分からないなりに理解していたではないか。あるいは、診察が終わるのを待っている間、隣に座ったおばあちゃんとも、ちゃんと分からないなりにコミュニケーションとれていたではないか。“TRANSLATION”がないからこそ、“LOST”することがないという皮肉。ボブは、「自分自身や望みがわかってくれば、余計なことに振り回されなくなるよ」とえらそーに言っているけれど、実は自分自身がまだ分かっていなかったのかもしれませんね。でも、東京の異質の中で、シャーロットと出会って、ボブはきっとそのことに気付いたのでしょう。ラストシーンの雑踏の中で抱き合いながら、ボブはそのことを彼女に伝えていたんじゃないかな、と思っています。

それにしても、スカーレット・ヨハンソン、いいですね~。冒頭のお尻カットには何度見ても度肝を抜かれるのは置いとくとしても、美しい顔立ちとかグラマラスなボディというだけじゃなく、憂いを帯びた表情とか、さりげないしぐさにいちいち引き込まれてしまいます。TOKYOの街にも、彼女は似合っていると思いました。似合うだけの力を持っていると思いました。
2003年/米国・日本/102分
【監督・製作・脚本】ソフィア・コッポラ
【出演】ビル・マーレイ/ボブ・ハリス スカーレット・ヨハンソン/シャーロット ジョヴァンニ・リビシ/ジョン
(C)LOST IN TRANSLATION INC.
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ビル・マーレイも、スカヨハも大好きな俳優なので、しかも、ソフィア・コッポラだし、私にとってこの映画、良くないわけがない。舞台が東京ということもあって、初めて見たときから期待度MAXでした。
ボブ・ハリス(ビル・マーレイ)は、ハリウッド俳優。サントリーのCM撮影で東京にやってくる。同じホテルに泊まっているシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、写真家の夫の出張についてきた若い人妻。
ボブは、時差ボケの上に、妻から瑣末なことでしょっちゅう連絡が入り、いい加減うんざりしている。しかも、肝心の仕事のほうも、横柄な若い監督に注文ばかりつけられるわ、日本人の英語が聞き取れないわで、こっちも気持ちよくとはいかない。
ボブ・ハリスという俳優はフィクションなのに、「サントリー」という企業名や「センチュリーハイアット」というホテル名は実名。「響」というウィスキーも実際にありますね。ボブとシャーロットは映画の中の仮の世界で、日本(東京)はノンフィクション。その設定もソフィア・コッポラらしいかも。というか、この物語は、彼女の実体験に基づくものらしいですけどね。


シャーロットは、まだ23歳。大学では哲学を学んだらしく、その影響もあってか、物事をなんでも突き詰めて考えてしまうところがある。夫を愛しているが、夫が仕事に行ったり、福岡に出張したりしている間は、一人で置いてきぼり。部屋でぼんやり景色を眺めたり、家族に国際電話をかけたり、時には街をぶらついたりもするけど、なんだか満たされない東京の日々を過ごしている。


そんな二人が、ホテルのラウンジバーで出会い、会話を交わすようになる。シャーロットの日本人の友人、“チャーリー“たちと夜の街に繰り出し、怪しげなクラブに行ったり、カラオケで歌いまくったりする。
カラオケの部屋の外に出て、階段でぼんやりタバコを吸うシャーロット。隣にボブもやってきて、並んで座って、ふたりでぼんやりしている。シャーロットは、ボブの肩にもたれかかる。そうするのがごく当たり前のように。


二人は、何かお互いに同じ匂いを感じている。TOKYOという異国の街に違和感を覚えながら、それでも、米国に帰ってしまうのもさみしいような、そんな気がしている。
眠れない夜には、二人で一つのベッドに寝そべって、こんな会話をする。
シャーロット「行き詰っているの」
ボブ「自分自身や望みがわかってくれば、余計なことに振り回されなくなるよ」
でも、二人は決して一線を越えることはない。その線を越えるのが怖いとか後戻りできない、とかじゃなくて、東京ではそうならないことが彼らにとって「当たり前」のように。
“LOST IN TRANSLATION”というタイトルの意味を考えてみる。
“LOST”には、「見失う/なくす」と「迷う/迷子になる」と2つの意味があります。“TRANSLATION”は、普通に「翻訳」でいいのかな。直訳すれば、「翻訳の中で失われる」か。
翻訳って、異なる言葉をつなぐことなので、転じて、異文化をつなぐこと、と解するのはどうでしょうか。とすれば、“LOST IN TRANSLATION”は、「異文化の間で自分を見失う」もしくは「異文化の間で迷子になる」という意味か? 確かに、二人とも、東京という異質な文化の中で自分を見失ってしまっているようで。
「翻訳の中で失われる」といえば、ボブがCMを撮影している時に、日本人の傲慢な監督がなんだかいっぱいしゃべっていて、なのに、通訳がほんの一言しか自分に英語で伝えてくれない、というシーンがありました。テレビの歌番組で、外国のミュージシャンの通訳をする時なんかも、そういうことってよくありますね。もっとしゃべってんじゃん!って。
翻訳の過程で失われて伝わらなかったこと。それは、二度と相手に伝わることはない。でも、それは「翻訳してもらえる」と思っているからなのかもしれない。ボブが、足を痛めたシャーロットを病院に連れて行った時、案内係の男が滔々とまくしたてる日本語の説明を、ボブは分からないなりに理解していたではないか。あるいは、診察が終わるのを待っている間、隣に座ったおばあちゃんとも、ちゃんと分からないなりにコミュニケーションとれていたではないか。“TRANSLATION”がないからこそ、“LOST”することがないという皮肉。ボブは、「自分自身や望みがわかってくれば、余計なことに振り回されなくなるよ」とえらそーに言っているけれど、実は自分自身がまだ分かっていなかったのかもしれませんね。でも、東京の異質の中で、シャーロットと出会って、ボブはきっとそのことに気付いたのでしょう。ラストシーンの雑踏の中で抱き合いながら、ボブはそのことを彼女に伝えていたんじゃないかな、と思っています。

それにしても、スカーレット・ヨハンソン、いいですね~。冒頭のお尻カットには何度見ても度肝を抜かれるのは置いとくとしても、美しい顔立ちとかグラマラスなボディというだけじゃなく、憂いを帯びた表情とか、さりげないしぐさにいちいち引き込まれてしまいます。TOKYOの街にも、彼女は似合っていると思いました。似合うだけの力を持っていると思いました。
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