「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチの残した膨大な数の手稿は、しかし、19世紀末になるまで脚光を浴びることはありませんでした。それは、「時代が彼に追いついた」からにほかなりません。科学技術の進歩が、ダ・ヴィンチの類い希なる才能にようやく目を向けさせたのです。400年以上も遅れて。
ダ・ヴィンチ手稿が顧みられなかったもう一つの理由は、彼の記した文章がすべて「鏡文字」で記されていたことです。つまり、鏡に写した時の文字のように、すべての文字を裏返しにして、通常は左から右に書いていくところを、右から左方向に記しているのです。今回の「ダ・ヴィンチ展」でも実際に見せてくれていましたが、当然のことながら、鏡文字は鏡に写してみると正常な文字として読むことができます。
ダ・ヴィンチはなぜそんな七面倒な書き方をしたのか。
昔からよく言われるように、彼は左利きだったでその方が書きやすかった、という理由だけではないような気がします。純粋に私的なノート、覚え書きだったので、あまり他人に読まれたくなかったから、という理由も考えられます。
鏡文字に新しい角度から迫る『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(高津道昭、新潮選書)という本に、あっと驚くことが書いてありました。実は、「裏返し」になっていたのは文字だけではなく、図面やイラストもまた左右逆に描かれていたという事実です。たとえば、アトランティコ手稿に記されている「やすり製造機」の図。手で回すためのクランク(取っ手)が左側につけられており、まるで左利き用の機械のように見えます。同じような例として、マドリッド手稿の中にある「糸の巻き揚げ機」もクランクが左側についています。もちろん、彼自身が左利きだったからとも考えられますが、一般向けの機械としては左利き用の機械はあまりふさわしくないでしょう。また、ダ・ヴィンチの「絵」ではこのような左右の混同はまったく見られません。このような「左右逆でしょ」現象は、手稿においてのみ見られるのです。
文字も図も裏返しに描かれているものといえば、印刷物の原版が思い浮かびます。この本では、「レオナルドは自身の手稿が印刷物になることを意識する段階で既に版について考え、製版を他人に任せ易くするために、文字と図を逆向きにすることを考えたのではないだろうか」としています。つまり、ダ・ヴィンチ手稿は、「印刷されることを想定して記された」ということになるのです。
これは、手稿が「他人に読まれるために描かれたものではない」とする説とは真っ向から対立する考えです。高津氏は、「レオナルドの手稿は本来は彼個人のメモ帳であったにもかかわらず、いつの間にか外部の人々はもちろん、レオナルド本人までもがそれを印刷原稿のように考えてしまったところにひとつの悲喜劇があるのかもしれない」としています。
どこまでも興味のつきないダ・ヴィンチの鏡文字です。
ダ・ヴィンチ手稿が顧みられなかったもう一つの理由は、彼の記した文章がすべて「鏡文字」で記されていたことです。つまり、鏡に写した時の文字のように、すべての文字を裏返しにして、通常は左から右に書いていくところを、右から左方向に記しているのです。今回の「ダ・ヴィンチ展」でも実際に見せてくれていましたが、当然のことながら、鏡文字は鏡に写してみると正常な文字として読むことができます。
ダ・ヴィンチはなぜそんな七面倒な書き方をしたのか。
昔からよく言われるように、彼は左利きだったでその方が書きやすかった、という理由だけではないような気がします。純粋に私的なノート、覚え書きだったので、あまり他人に読まれたくなかったから、という理由も考えられます。
鏡文字に新しい角度から迫る『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(高津道昭、新潮選書)という本に、あっと驚くことが書いてありました。実は、「裏返し」になっていたのは文字だけではなく、図面やイラストもまた左右逆に描かれていたという事実です。たとえば、アトランティコ手稿に記されている「やすり製造機」の図。手で回すためのクランク(取っ手)が左側につけられており、まるで左利き用の機械のように見えます。同じような例として、マドリッド手稿の中にある「糸の巻き揚げ機」もクランクが左側についています。もちろん、彼自身が左利きだったからとも考えられますが、一般向けの機械としては左利き用の機械はあまりふさわしくないでしょう。また、ダ・ヴィンチの「絵」ではこのような左右の混同はまったく見られません。このような「左右逆でしょ」現象は、手稿においてのみ見られるのです。
文字も図も裏返しに描かれているものといえば、印刷物の原版が思い浮かびます。この本では、「レオナルドは自身の手稿が印刷物になることを意識する段階で既に版について考え、製版を他人に任せ易くするために、文字と図を逆向きにすることを考えたのではないだろうか」としています。つまり、ダ・ヴィンチ手稿は、「印刷されることを想定して記された」ということになるのです。
これは、手稿が「他人に読まれるために描かれたものではない」とする説とは真っ向から対立する考えです。高津氏は、「レオナルドの手稿は本来は彼個人のメモ帳であったにもかかわらず、いつの間にか外部の人々はもちろん、レオナルド本人までもがそれを印刷原稿のように考えてしまったところにひとつの悲喜劇があるのかもしれない」としています。
どこまでも興味のつきないダ・ヴィンチの鏡文字です。
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