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「ブラッド・ダイヤモンド」その1─ダイヤモンド小史

2007-04-14 | └歴史映画
2000年秋、東京・上野の国立科学博物館で「ダイヤモンド展」が開催されました。そのころ東京で勤務していた私は、毎日「科博」の裏側の通りを自転車で通っていたのですが、ちょっとミーハー的な感覚で「ダイヤモンド展」にも立ち寄ったものでした。

科博の企画展ですから、もちろん「ダイヤモンド」という鉱物への科学的なアプローチの展示もあったのですが、ほとんどの来館者は、総計5000カラットにも及ぶ世界有数のダイヤモンドのコレクションを見に来ていたのではないでしょうか。訪れた芸能人の数も、科博の企画展としては少なくないようでした。確かに、19世紀半ばにアフリカで初めて発見された「ユーリカ」というダイヤモンドとか、「オーロラ・コレクション」と呼ばれる260個ものカラー・ダイヤモンド、また技術の粋を集めて作られた装飾品の数々は、女性ならずとも目を奪われるものがありました。

その時買い求めた図説『ダイヤモンド展 The Nature of Diamonds』には、最初にダイヤモンドの歴史が紹介されています。それによれば、「金」と比べると、装飾品としてダイヤモンドが注目されるようになったのは、それほど昔のことではないようです。ローマ時代の博物学者プリニウスが『博物誌』の中でダイヤモンドについて記しているのは、「異様に硬い」という表現の繰り返しであるように、意外なことに、ダイヤモンドが人々を驚かせたのは、その美しさや輝きではなく、「硬さ」だったのです。他の宝石もそうですが、ダイヤモンドは特に「研磨」によってその価値が決定するため、中世から近代においてようやく確立されたカット技術が、ダイヤモンドへの憧れや需要を高めたといっていいのかもしれません。

一方、『図説』にはダイヤモンド生産量に関わる推移も紹介されています。古代から18世紀前半頃まで、ダイヤモンドの生産はほぼインドに限られ、その生産量はせいぜい年間1,000カラット程度。1725年頃に南米・ブラジルでの鉱山発見のほか、新しい鉱山の発見が相次いだことで、1850年代には一気に生産量は30万カラットに達しますがその後はほぼ10万カラット程度で推移します。

この状況を一気に変えたのが、1860年代の南アフリカ(当時はまだ英領ケープ植民地)でのダイヤモンド鉱山の発見です。1872年には100万カラットに達し、20世紀初頭には500万カラットを超える。現在は、オーストラリアで大鉱山が発見されたこともあって、既に年間1億カラットの大台を超えている、のだそうです。

ダイヤモンドの価値を決定するのは、「4C」と言われています。つまり、カラット(carat)、カラー(color)、クラリティ(clarity)、カット(cut)。「カラット」の由来は、カロブ(イナゴ豆)だそうで、この豆を乾燥させたものがダイヤモンドの重さを量るときの分銅として使われたことによるのだそうです。ちなみに1カラットは約0.2gです。

ダイヤモンドをめぐる「4C」に"conflict"、つまり「争い」を加えるべき、というのが「ブラッド・ダイヤモンド」のテーマ。「ダイヤモンド展」では一切触れられていなかった、アフリカの「紛争ダイヤモンド」にまつわる問題点をえぐり出そうとする映画です。監督は「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィック、主演はレオナルド・ディカプリオ。当然のことながら、ハリウッドの「娯楽大作」の一つであり、派手すぎる市街戦の描写や、あまりにも大味な展開にはため息も出るところですが、がしかし、この映画は見ておくべきだと思います。

ディカプリオの役どころは、ローデシア、つまりかつて南アフリカの北に位置する英国の植民地だった国に生まれたダイヤモンドの密売商人。彼が演ずるダニー・アーチャーが「アフリカ生まれの白人」であるという立場がこの映画の大きな要素を占めると思います。「アフリカ人」であるのに「アフリカ人」にはなりきれない。「黒人」は同胞であるはずなのに、そういう意識も持てず、アフリカの外からやってくる欧米人側の立場に立ってしまう。ダニーは、最後の最後には、「赤い土」を握りしめつつ、自分が「アフリカ人」であることを十分噛みしめることになるわけですが…。

ちなみに、彼の出身地であるローデシアは、南アフリカの植民地化を推し進めた英国人セシル・ローズの名前に因む、英国植民地時代の名称であり、現在はその南部にジンバブエ、北部にはザンビアという国が独立しています。

(続く…)

 

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