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カクレマショウ

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「PEACE BED アメリカvsジョン・レノン」─生きていて欲しかった。

2008-01-23 | ■映画
THE U.S. VS. JOHN LENNON
2006年/米国/99分
監督・製作・脚本 デヴィッド・リーフ ジョン・シャインフェルド

日本語タイトルはなぜか「PEACE BED」とされていますが、原題にあるとおり、この映画はまさにアメリカ合衆国とジョン・レノンの戦いの歴史を描いています。というより、ジョン・レノンの生き方をたどることによって、米国の現代史が見えてくるというのも、考えてみればすごいことです。大統領に、政府に、これだけ恐れられたミュージシャンは他にいないでしょう。その「武器」は音楽。その影響力、特に若者に与える影響の大きさに、権力者は恐れおののいた。社会を変えるのは、政治の力だけではない。むしろ、音楽やアートの力が民衆を突き動かすことがある。それは、たいていの場合、権力者にとっては不都合な方向に向かうため、弾圧される羽目になるということは歴史が証明しています。もちろん、権力者が芸術の力を利用することもありますけどね。

1960年代の米国史は、ベトナム戦争を抜きにしては語れません。北ベトナムに成立した共産主義政権を打倒するために、はるばるインドシナ半島まで兵士を送り込んだ米国。その背景にはもちろん、中国やソ連といった共産主義勢力への脅威がありました。ベトナムがこのまま共産化されたら、その周辺の国々も次々と「向こう側」に倒れていくのではないか…。いわゆるドミノ理論。

最初にベトナムに米軍を送り込んだのはジョン・F.ケネディ大統領。1961年のことでした。1963年、ケネディが凶弾に倒れると、昇格したジョンソン大統領もその遺志を継ぎ、北ベトナムへの空爆を開始。こうして、米国のベトナムへの干渉は拡大の一途をたどります。数十万人の若者がベトナムに送られました。国内に反戦ムードが高まる中、1968年の大統領選挙で当選したのは、共和党のニクソンでした。ニクソン大統領は、ベトナムからの名誉ある撤退をうたいつつ、一方ではカンボジアやラオスに侵攻し、米国の威信を守ろうと躍起になる…。

そんな時代に、ジョンはこんな歌を歌ってるわけです。

 War is over, if you want it
   ─"Happy Xmas (War Is Over)"(1971年)

あるいは、

 All we are saying is give peace a chance
    ─"Give peace a chance"(1969年)

「平和を我等に」。反戦集会でこのフレーズを飽きるほどリフレインする人々。元・民主党大統領候補(1972年の大統領選挙でニクソンに敗れた)ジョージ・マクガヴァンが、この映画の中で、「こうして繰り返すのが良いんだ」と言っていました。そうなんです。何度も繰り返し歌っているうちに、気が付く人も出てくるかもしれない。でも、頑として気が付こうとしない人もいる。ニクソン大統領もそのうちの一人だったかも知れません。

ビートルズ時代の末期、ニューヨークで活動していた前衛芸術家オノ・ヨーコと出会ったことが、ジョンの人生を大きく変えました。"Imagine"が生まれたのも、彼女が以前に書いた詩が元になっていると言われます。ジョンとヨーコは、二人三脚で「愛と平和」を訴える活動を展開していきました。"ベッド・イン"もその一環。今見るとなんとほほえましいことか。

以降、映画は、当時を知る関係者のインタビューで、70年代(特にその前半)の、ジョンとアメリカの「対決」を解き明かしていきます。

1969年3月 「ベッド・イン」
  ─"Give peace a chance" リリース─
同年12月 「War is over, if you want it」の看板を世界12都市に掲げる。
1970年4月 ビートルズ解散
  ─"Power To The People" リリース─
  ─"Imagine" リリース─
  ─"Happy Xmas(War Is Over)" リリース─
1971年12月 活動家のジョン・シンクレア支援コンサートに出演。ジョンがこの時歌った"John Sinclair"の歌詞を、客席にいたFBIが書き写し、機密情報として保管したという。
1972年3月 1968年のマリファナ不法所持を理由に、ジョンとヨーコが国外退去を命じられる。
FBIが自分たちを尾行し、電話を盗聴しているとテレビで語る。
1973年3月 ジョンが移民局から国外退去を命じられる。ジョンとヨーコは、FBIによるプライバシー侵害を理由に政府に対して訴訟を起こす。
1974年7月 移民局はジョンの上訴を却下し、60日以内の国外退去を再び命じる。
1975年10月 ニューヨーク最高裁がジョンの国外退去を破棄する判決を下す。
1976年7月 ジョン、グリーンカード(米国の永住許可証)を得る。

アメリカにとって、ジョン・レノンはきっとフクザツな存在なのです。ジョン自身も、アメリカという国にいない方が楽だったかもしれません。殺されずに済んだかもしれないし。けど、英国にとどまっていたら、「戦う」ジョンは見られなかったでしょう。

だけど、待てよ、と思う。ジョンは本当に戦いたかったのか? 映画を見ると、けっこう過激な運動家たちに彼が利用されていたのではないかと思えるフシもあります。テレビでブラックパンサー党のボビー・シール(まだ生きてたんだ!)と対談して友情が芽生えた、とかいうシーンもありましたが、あえて自分を鼓舞しているような感じも受けました。本当は、ジョンはlove & peace でのんびり生きたかったのではないかと…。かつて埼玉の「ジョン・レノン・ミュージアム」で見た、日本滞在時のジョンの幸せそうな写真が印象に残っているのですが、あんあふうに何にもとらわれずに生きたかったのかもしれない。

でも、「時代」がジョンを手放さなかったのでしょうね、きっと。むろん、彼自身の正義感とか欺瞞を憎む心が、あの時代の要求に応える素地となったことは言うまでもない。

銃を持たずに、「戦争」と戦い、権力に抗ったジョン・レノン。それを支え、共に戦ったオノ・ヨーコ。ただひたすらに、かっこいいと思う。ヨーコは、「彼ら(米国)はジョンを殺せなかった。だって彼のメッセージは今も生きているから」と言うけれど、もし今レノンが生きていたら、この世界にどんなメッセージを投げかけてくれるのか、それを知るすべが永遠にないことが、悲しい。


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