
2006年/日本/119分
監督・脚本:森田芳光
原作:江國香織 『間宮兄弟』(小学館刊)
出演:佐々木蔵之介/間宮明信(兄) 塚地武雅/間宮徹信(弟)
常盤貴子/葛原依子 沢尻エリカ/本間直美 北川景子/本間夕美 戸田菜穂/大垣さおり
高嶋政宏/大垣賢太 中島みゆき/間宮順子
劇場公開を見逃していて、レンタルDVDで見ました。いきなり、森田芳光監督作品の「の・ようなもの」のDVD紹介が入ったのにはびっくり。なつかしー。髪型や服装が、なにしろ「あの頃」だよなあと…。こっちも借りてこなくちゃ。
それはそうと、「間宮兄弟」。いい邦画を見ると、原作があるものはそっちも読みたくなることが多いのですが、これもそのタイプ。もしかしたら映画より味わい深いのかもと予想して読んでみたら、まさにそのとおりで、江國香織ってすごいなと思いました。もちろん、映画も十分に森田芳光テイストがきいていて、楽しい。間宮兄弟を演じる佐々木蔵之介、塚地武雅コンビの掛け合いが絶妙でした。キャスティングでいえば、最も驚かされたのは、やっぱり中島みゆきでしょう! 中島みゆきがお母さん役だなんて、そんなことは知らずに見ていたので、たまげました。でも納得しました。原作を読むともっとちゃんとわかるのですが、間宮兄弟の「独自路線」は、たぶんにお母さんの影響が強いのです。もちろん、母親だけではなく、亡くなった父親も含めた「家族」の有りようが、「間宮兄弟」を作ったと言ってもいい。原作には幾度も出てきますが、彼らを取り囲んできた友人や女性たちは、必ずしも彼らに優しかったとは言えない。それは、二人が家族以外の人たちから得たものは、ほとんどゼロに等しいのではないかと思えるくらい、それほど、家族とのつながりが強かったということでしょうか。
彼らの「こだわりぶり」がとてもいとおしい。たとえば、ジグソーパズルを二人は「おもしろ地獄」と呼ぶ。実際、原作にはその「地獄」にはまるシーンが克明に描かれているのですが、そうそう、と共感できる描写につい引かれてしまう。「楽しくない道を歩くとき、兄弟は歌を歌うことにしている。」というシーンもある。ただし、二人の音楽の趣味は微妙に違うので、結局、二人で歌える歌となると、父親が好きだった小林旭とか石原裕次郎になる。「ダイナマイトが150トン」とか!
それから、ひたすら本を読んで過ごす日は「読書日」と呼ぶ。それぞれ好きな本を片時も離さない日。要するに彼らは、「名前を付ける」のが大好きなのです。名前を付けることで、二人だけのアイデンティティが保てる。それは他の人に決して理解してもらうための名前ではない。そういう「申し合わせ」が、恋人どうしとか仲の良い友だちどうしではなく、「兄弟」の間にあることに、多くの人は違和感を感じるのかもしれません。
そんなわけで、彼らを「キモイ」という人もいますが、私は、彼らのように、「自分」(自分たち?)をきっちり持っている人は好きです。「○○の時には必ず△△する」というパターンを持っている人は、少なくとも信用できる。ただ、信用はできても、それが信頼関係になるかというと別の話ですが。
信頼関係になると、「人間関係」になる。間宮兄弟の人間関係は、それほど活発なものではないらしい。兄・明信の方は酒造会社(映画ではビール醸造会社でビールのテイスター?をしています)に勤務している。社内で「人間関係」があるのはとりあえず一人だけ。大垣賢太という先輩社員で、離婚問題で悩んでいる。弟・徹信の仕事は、小学校の校務員。基本的に孤独な作業です。兄に輪をかけていろんなものにこだわりのあるせいか(いわゆるオタク…?)、友人はほとんどいないらしい。こうした「薄い」人間関係には二人ともまったくこだわっていない。
しかし、人間関係の中でも、女性関係となると話は別のようです。こっちの方も、兄弟そろってあまりいい思い出はないわけですが、むろん女性に関心がないわけではない。
弟はまず兄にいいヒトを、という思いから、同僚の先生を家に招いてみることにする。ついでに(?)、兄の方は、前から気になっているレンタルショップのアルバイト店員にも声をかけてみる。こうして、兄弟の住むマンションに、「いっぺんに」二人の女性がやってくるという前代未聞の事態となるのです。
名目は「カレーパーティ」 。いいなあ、これも。単に「遊びに来ませんか?」という誘い方は、兄弟にはできないのですね。何かの「形」と「名前」がやっぱりここでも必要なのです。「カレーパーティ」(原作では「夏の夕べのカレーの会」)やら「浴衣パーティ」やら「おでんパーティ」やらね。で、「カレーパーティ」なら、もちろん、きっちり何種類かのカレーを用意して、ふるまうこともできる。
なお、原作と映画でちょっと違うのが、兄・明信の造形。原 作では、映画で明信を演じた佐々木蔵之介ではいい男すぎるぞ、というくらいのモテなさぶり。「葛原依子先生」が、初めて彼の顔を見て、「最悪だわ」と思うくらいですから。それから、原作ではちょっと影が薄い「葛原依子先生」が、映画では常盤貴子が演じていて、特異なキャラクターぶりを見せてくれるのも、大きな違いか。
それから、原作にないシーンの一つに、不登校の子どもが教室の黒板に書いた詩を葛原先生が徹信に見せる場面があります。原作では、兄弟が子どもの頃を思い出す場面がしばしば登場します。カレーパーティのところでは、子どもの頃、友だちが家に遊びに来たこと、運動会の用具整理をする徹信には、子どもの頃の運動会の「辛かった記憶」をよみがえらせる。家の中以外では、決していい思い出ばかりではない子どもの頃。映画では、そういった兄弟の「背景」を描くことがなかなかむずかしい。不登校の子どもの「心の叫び」のような言葉に、徹信や明信の子どもの頃の声を代弁させているのかなと思いました。
「間宮兄弟」はきょうだいセットで見るから「変」に思えるのかもしれない。一人ずつで見れば、どこにでもいる人間です。一つだけ言えるのは、この二人は、お互いに気を遣って気疲れすることがまったくないということ。そういう関係を、私たちはどこかで求めている部分もあるのかもしれませんね。
「間宮兄弟」≫Amazon.co.jp
監督・脚本:森田芳光
原作:江國香織 『間宮兄弟』(小学館刊)
出演:佐々木蔵之介/間宮明信(兄) 塚地武雅/間宮徹信(弟)
常盤貴子/葛原依子 沢尻エリカ/本間直美 北川景子/本間夕美 戸田菜穂/大垣さおり
高嶋政宏/大垣賢太 中島みゆき/間宮順子
劇場公開を見逃していて、レンタルDVDで見ました。いきなり、森田芳光監督作品の「の・ようなもの」のDVD紹介が入ったのにはびっくり。なつかしー。髪型や服装が、なにしろ「あの頃」だよなあと…。こっちも借りてこなくちゃ。
それはそうと、「間宮兄弟」。いい邦画を見ると、原作があるものはそっちも読みたくなることが多いのですが、これもそのタイプ。もしかしたら映画より味わい深いのかもと予想して読んでみたら、まさにそのとおりで、江國香織ってすごいなと思いました。もちろん、映画も十分に森田芳光テイストがきいていて、楽しい。間宮兄弟を演じる佐々木蔵之介、塚地武雅コンビの掛け合いが絶妙でした。キャスティングでいえば、最も驚かされたのは、やっぱり中島みゆきでしょう! 中島みゆきがお母さん役だなんて、そんなことは知らずに見ていたので、たまげました。でも納得しました。原作を読むともっとちゃんとわかるのですが、間宮兄弟の「独自路線」は、たぶんにお母さんの影響が強いのです。もちろん、母親だけではなく、亡くなった父親も含めた「家族」の有りようが、「間宮兄弟」を作ったと言ってもいい。原作には幾度も出てきますが、彼らを取り囲んできた友人や女性たちは、必ずしも彼らに優しかったとは言えない。それは、二人が家族以外の人たちから得たものは、ほとんどゼロに等しいのではないかと思えるくらい、それほど、家族とのつながりが強かったということでしょうか。
彼らの「こだわりぶり」がとてもいとおしい。たとえば、ジグソーパズルを二人は「おもしろ地獄」と呼ぶ。実際、原作にはその「地獄」にはまるシーンが克明に描かれているのですが、そうそう、と共感できる描写につい引かれてしまう。「楽しくない道を歩くとき、兄弟は歌を歌うことにしている。」というシーンもある。ただし、二人の音楽の趣味は微妙に違うので、結局、二人で歌える歌となると、父親が好きだった小林旭とか石原裕次郎になる。「ダイナマイトが150トン」とか!
それから、ひたすら本を読んで過ごす日は「読書日」と呼ぶ。それぞれ好きな本を片時も離さない日。要するに彼らは、「名前を付ける」のが大好きなのです。名前を付けることで、二人だけのアイデンティティが保てる。それは他の人に決して理解してもらうための名前ではない。そういう「申し合わせ」が、恋人どうしとか仲の良い友だちどうしではなく、「兄弟」の間にあることに、多くの人は違和感を感じるのかもしれません。
そんなわけで、彼らを「キモイ」という人もいますが、私は、彼らのように、「自分」(自分たち?)をきっちり持っている人は好きです。「○○の時には必ず△△する」というパターンを持っている人は、少なくとも信用できる。ただ、信用はできても、それが信頼関係になるかというと別の話ですが。
信頼関係になると、「人間関係」になる。間宮兄弟の人間関係は、それほど活発なものではないらしい。兄・明信の方は酒造会社(映画ではビール醸造会社でビールのテイスター?をしています)に勤務している。社内で「人間関係」があるのはとりあえず一人だけ。大垣賢太という先輩社員で、離婚問題で悩んでいる。弟・徹信の仕事は、小学校の校務員。基本的に孤独な作業です。兄に輪をかけていろんなものにこだわりのあるせいか(いわゆるオタク…?)、友人はほとんどいないらしい。こうした「薄い」人間関係には二人ともまったくこだわっていない。
しかし、人間関係の中でも、女性関係となると話は別のようです。こっちの方も、兄弟そろってあまりいい思い出はないわけですが、むろん女性に関心がないわけではない。
弟はまず兄にいいヒトを、という思いから、同僚の先生を家に招いてみることにする。ついでに(?)、兄の方は、前から気になっているレンタルショップのアルバイト店員にも声をかけてみる。こうして、兄弟の住むマンションに、「いっぺんに」二人の女性がやってくるという前代未聞の事態となるのです。
名目は「カレーパーティ」 。いいなあ、これも。単に「遊びに来ませんか?」という誘い方は、兄弟にはできないのですね。何かの「形」と「名前」がやっぱりここでも必要なのです。「カレーパーティ」(原作では「夏の夕べのカレーの会」)やら「浴衣パーティ」やら「おでんパーティ」やらね。で、「カレーパーティ」なら、もちろん、きっちり何種類かのカレーを用意して、ふるまうこともできる。
なお、原作と映画でちょっと違うのが、兄・明信の造形。原 作では、映画で明信を演じた佐々木蔵之介ではいい男すぎるぞ、というくらいのモテなさぶり。「葛原依子先生」が、初めて彼の顔を見て、「最悪だわ」と思うくらいですから。それから、原作ではちょっと影が薄い「葛原依子先生」が、映画では常盤貴子が演じていて、特異なキャラクターぶりを見せてくれるのも、大きな違いか。
それから、原作にないシーンの一つに、不登校の子どもが教室の黒板に書いた詩を葛原先生が徹信に見せる場面があります。原作では、兄弟が子どもの頃を思い出す場面がしばしば登場します。カレーパーティのところでは、子どもの頃、友だちが家に遊びに来たこと、運動会の用具整理をする徹信には、子どもの頃の運動会の「辛かった記憶」をよみがえらせる。家の中以外では、決していい思い出ばかりではない子どもの頃。映画では、そういった兄弟の「背景」を描くことがなかなかむずかしい。不登校の子どもの「心の叫び」のような言葉に、徹信や明信の子どもの頃の声を代弁させているのかなと思いました。
「間宮兄弟」はきょうだいセットで見るから「変」に思えるのかもしれない。一人ずつで見れば、どこにでもいる人間です。一つだけ言えるのは、この二人は、お互いに気を遣って気疲れすることがまったくないということ。そういう関係を、私たちはどこかで求めている部分もあるのかもしれませんね。
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