goo

現実的実験系と単純実験系

官能というジャンルを定量評価する場合どういった実験モデルを採用するかということに尽きる。例えば人間の手を介した使用感という奴だ。ことは単純でモデル化したほうがいいか、現実面を重要視したほうがいいかという選択が1点。得られたデータを客観的に整理できるかが1点。人間の官能と言う次元を限りなくバラバラにばらして、機械で再現性の得られるようにデータ化し、それを次元別に整理する、これが早道だ。あとは統計処理、ここが弱いと実験計画を組む際に粗が出るうえ、最終レポートがデータの羅列となり意味が分からなくなる。

経験的には実験対象を限りなく単純化するほうが成功する、欲しい事象を限りなく単純化する手法だ。現実面を追及すると測定因子がなんの影響を受けるのかがぼやける上、測定データの次元が分かりにくいという問題がある、ノイズも大きい。次元とは単位と置き換えても構わない、要は長さを測っているのか、荷重なのか、単位時間あたりなのか、単位面積あたりなのか。単位が明確であれば何を測っているかが明確な上、データの比較検討できる。測定器の数値だけを見てもデータの根拠が曖昧な上、理論的な説明がおぼつかないことになる。官能をデータにする際の悩みどころなのだが「官能」という現実面にこだわるとろくな事がない、人間の感想には再現性がないからだ。その主張が曖昧かどうかを見分けるには単位の根拠を質問すれば簡単に分かる、次元が整理されていない人は単位があやふやだからだ。

私の個人的な考察ではあるが、単純系に落とし込めない実験者は論理トレーニングを受けていないのであろう、もちろん単純系で説明できないので泥沼の現実系に足を踏み入れていることもあるのであろうが。ところが実験の論理を曖昧に現実的なモデルを曖昧なまま採用すると、次元が多く、ノイズの多いまま実験を進めて自爆した経験を良く見る。多分、モデルの単純化という概念が無いか、現実モデルの次元の多さ、ノイズの多さを甘く見た結果であろう。または現実系が現実を表していて、単純系は現実から遠いという印象に引きずられているのかもしれない。あっ、付け加えます、「モデル」という概念が理解できない人も居て、その御仁に引っ張られると失敗します。

もう1つの失敗は理論式を軽視することであろう。理論式と実験データが合わないということはモデルの適切さを欠いているか、適用した理論式が間違っているということとなる。実験モデルや設備の簡便さを無視するとあとで理論的な意味を追いかける際訳が分からなくなる。

実際、官能試験のレポートを学会発表で見ると「がんばった」甲斐が無い。応用に耐えないのだ。

例を挙げる。持ち易いPETボトル形状を官能調査する際、形状、素材感、表面性状などの因子がある。これを3者(以上)を勘案して実験計画を立てるとなると人間の官能評価に頼らざるを得なくなる。これでは実験のコストが多い上、再現性が怪しい、おまけに測定数が多すぎて官能テスト自体の信頼性も低い。それであれば、人差し指と親指間の長さとボトルの直径に相関があるかを調べというように各要素の最適解をチョイスし、最適解の組み合わせが本当に真の最適解なのかを調査する方がよほどスマートだ。

設計視点の際もこれは言える。デザイナー(設計者)の思い込みを阻害するためには客観データが必要だ。そのためには要素(因子)を平易に説明することが求められる。入り組んだ、再現性が無く、理論的に説明の出来ない実験データになんの価値も無い。設計者に伝えなくてはならないのは感覚とその裏づけなのだ。

目的と扱うデータの要素・次元が明確でない実験計画はなんの役にもたたない、その最たるのが「官能評価系」だ。

 

*官能評価の全てが間違っていたり、劣ったりするわけではありません。そのアプローチは買いたいのですが官能評価を行っている人が物理・機械系でないたことが多いため、次元・単位・統計が甘く、結果として使えないモデルと言わざるを得ないという印象を持っています。

**理論式を扱う際、工学系は理論式を鵜呑みにしすぎます。理論は使うべきツールであって、疑う存在ではないからです。また工学系は理論式も「使うためには簡便に」をモットーとしているため理論の造詣が浅すぎです、これは本当に身に染みています。そこらへんのエントリーはそのうち。

***工学系は数学に弱く馬鹿です、だからこそ論理トレーニングが必要かと。理論に強ければ工学系でも馬鹿ではないと思います。論理は理論で打破可能ですので。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

最低賃金を上げるには

経済学では最低賃金を上げてしまうと雇用が逃げてしまい、結局低賃金者の首を絞めるということになる、らしい。市場価格で労働価値が決まるのであれば市場原理で価格を決めればよいが労働は商品ではないのでなかなかそうもいかない。おまけに地方では人口密度が低いため例えば流通などでは投資効率が悪く、生産性が上がらない。

本当にそうであろうか。グローバル及び国内競争では低賃金と言う理由で企業は自治体に工場用地を造成してもらって進出する。先に例示した流通も土地単価は安いため売り上げが必ずしも上がらなくても利益を出せると思う、銀座でもディスカウンターが進出していることから地価と来客数が比例関係にあれば成り立つということから分かる、逆も成り立つからだ。

ということは生産性と賃金は関係なく、労働が需要<供給なので安く買い叩かれているということが想像される。この状況(労働供給過多)を仮定して話を進める。生産性と賃金が関係ないのであれば、賃金を上げるには労働組合を作ればいいのだ。パート・アルバイト形態であれば「スト」などという生ぬるい方法でなく一斉退職すると脅せば交渉も出来るであろう。少人数の職場ならストも非常に大きい戦術だ。もちろん解雇された場合には再就職が難しいという側面はあるが、交渉ツールを手に入れられる。交渉が出来るのだ。中小企業や少人数事業所では団結もたやすいので労働組合の効果もへたすれば大企業より大きい(実際大企業の労働組合は御用組合と揶揄される)。もちろん前提として企業が儲かっているのが前提だ。儲かっているのであれば資本投下が頻繁に行われ、競争が起きるはずなので実は儲かっていないかもしれないが。それでも交渉ツールを得て試行錯誤する価値はある。

ではどのようにしたら労働組合を作ることが出来るのか。これこそ、労働組合上部団体が雛形を作って売ればいいのだ。簡単なマニュアル本や月額人頭幾らで顧問料をとってもいい。その上選挙票につながる可能性も期待できる。

民主党さん、やってみたら。経団連とは事業規模が違うので政治献金にも影響も無いでしょうし。個人経営者、中小企業事業主からは総スカンだとおもうけど。それとも個人事業主が支持者に多い共産党に遠慮する?

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )

役人に過度の責任を追及するのはやめないのか

薬害騒ぎがひとまず収まったようだが後味の悪いものとなった。原告団は感染源のルートを特定した上での無限救済を望んだのに対し、政府は「予見できなかった責任は認められない」というスタンスのようだ

ここで疑問がある。政府は「国民の生活」に対し、無限の責任があるのか?という疑問。もちろん、国民の健康・安全を担うために厚労省が日夜仕事をしているのは分かる、しかもその仕事がある程度有意義だということも。ところで原告団を含めた国民は政府(この場合は厚労省)が仕事をしない方が良かったという主張なのか、仕事としては必要であったが結果責任で補償を求めているのかが分からないのだ。

結果責任で補償を求めるのであれば「あの時何故そういう判断をしたのか」という議論にならないはずだ、ところが厚労省は「リスト」を隠蔽するなど組織を守る行動に出た。私は役所は文書主義であると認識している、であれば明らかな甘い見通し(間違い)があればその記録が残っているはずだし、そうでなければ責任論を論じる必要は全く無い。責任の有無とは違う論理で補償をしようという話だからだ。

ところがどうも結果責任を認めさせようという以上に「責任」という概念を結果から追及しているような気がする。気がしているだけなので間違っている気もするがマスコミの論調を鵜呑みにする限り間違ってはいないであろう。私も技術系サラリーマンだからクレームは嫌いだし、責任を取る気はあまりない**。ところが役人は許認可を含めて仕事をこなさなくてはならない。もちろん技官は技術系なので責任を回避するため資料がそろわなければ動かないという悪癖もある、それは技術系サラリーマンとしては至極当然な行動なのだ。それでも予見できない事故は起きる。

「予見できない事故の責任」というものが理解できない、というよりはそんなものが存在することは許されない。そんなものがあれば「仕事はやっつけ」か「仕事は完全解明が無ければ進まない」の二者択一だからだ。当然「仕事はやっつけ」であれば政府としての仕事という概念は途方もなく薄れ、完全自己責任というか無政府状態ということになる、そして「仕事は完全解明が無ければ進まない」であれば先進国の常識とは違う常識での行政サービスを受けることとなる、簡単に言えば前世紀で(安全性が完全に)確立された治療法のみを行い、コストや生存率は無視するという概念だ。完全自己責任か(政府が失敗しないように十分実績のある)陳腐化した治療か、バランスを欠いた処置を選ぶこととなるであろう。

結果論で薬害が起こったことを政府が補償する事に非難するのではない、結果責任を追及することが異常だというのだ。後からなら誰でも言える、クリオ製剤を使わなければ良かった、今回も同様であろう。

この政府を非難する事象は「国民は政府の傘の下にあって無限の安全性を享受できる」という異常な感覚が支配しているのか。「政府を叩けば国民受けする」というのは、国民は「政府」に対して義務は負わず、責任も負わず、外野からあれこれ口出す、金は払わないという1億総小姑状態なのか。予見できない事故に対する責任を求めるということは安全サイドに振ることとなり(=リスクのある政策はメリットがあっても全部拒否する)、結果国民が損をすることになるであろう。「政府を叩けばいい」という甘ちゃんから抜け出せ無ければ、いずれ誰もリスクを取らない平和が訪れるのであろう。

「自己責任」というとバッシングなイメージがあるがそうではない。現在の仕事のやり方は政府が手取り足取り行政指導を行って、企業に自由な活動を許さない替わりに政府がある程度業界をコントロールしている。であるから間違いがあった際、行政バッシングが起こるのであろうが、それはかなり高コストと言えよう。

新しいビジネスモデルを考案してもいちいち政府にお伺いを立てなければならず、新規競争という概念が育たない、あるのはコスト削減競争だけだ。だからこそ石油ショックなどを契機に高度成長期は成長できたし、イノベーションやグローバル時代にはコスト競争に負け、新規事業も育たない。

そろそろ政府に頼りっきりになるのは止めた方がいいのではないか。

*いまいち詳しくないので間違っていたら訂正します。

**技術系は責任を取りたくないのだ、責任を取るくらいなら全部「危険を示唆」して終わる。それは以前のエントリー

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

日本は文化的か

捕鯨は日本の文化だという意見を聞く、本当だろうか。捕鯨を続けるために反捕鯨国の(生物の)種を差別的に扱うのを論理的に否定していくことに反対はしないが本質的な部分として「捕鯨は文化か」という疑問、もっと上位概念として「日本は文化国家か」というのに疑問がある。私の食生活で鯨は無くても困らない、たまに食べたいとは思うが「文化」ではなく、単なる経験だからだ。文化論をぶつのであれば近海捕鯨で十分だし、他国もそういうスタンスだ。米国も近海捕鯨だ。当時到達できなかった南極までとりに行く必要は全く無い、取れる種も異なるはずだ、近海捕鯨で絶滅危惧種も堂々と捕ればいい。

捕鯨問題では(1)公海の資源を好き勝手してはいけない、(2)鯨は希少資源で食ってる場合ではない、(3)鯨という高等動物を食うな、という問題に大別されると理解している。このうち(3)は差別主義者という論理で否定できる、犬を食う朝鮮族や漢族を否定されているのと同じだ、では何故牛を食っていいのか、野菜も生物だ(栗等植物は実・身を食われないためのな防衛努力をしている)、ヒンズー教徒が牛食を否定すればそれを受け入れるのか、全てNoであろう、生物への順位付けを神が許したのなら少し理解できるが(共感は全く出来ない低能神だと思うが)。次に(2)であるが、科学的に判断すればよいのであり感情的になる必要は全く無い。最後に(1)だが鮪や鮭鱒、鱈も同様に扱えばよろしい。(2)について疑問があるならとことん科学論争を行えばいい。至極簡単な話だ。

ところが日本人は「鯨食は文化」だと言う。そうかと思うのだ。まぁ文化で無いならば食習慣、伝統等違う表現もあるかもしれない。だがちょっと待て、縄文時代に鯨食の証拠があるとしても江戸時代には獣食の習慣は無く、しかも捕鯨能力はあまり高いとは言えなかった。それを「文化」というのであれば文化とはかなり安い代物だ。

本エントリーは捕鯨を非難しているのではない。文化とはなにかということを議論したい。

伝統芸能はかなり衰退した、歌舞伎や大相撲はまだ興行的に生きているが、文楽や能・狂言は衰退の一途だ。金を払って見に行くという文化的浸透が見られない。文化に低・中流階級が金を払うという概念は映画や音楽等一部に留まる。企業や資産家も絵画・彫刻なども名声のある程度確立した物には金を払うが、新進の芸術家を支援するのは国家プロジェクトであり、文化芸能を育てるという概念は明治期以降存在しない。大指揮者・大監督監修のオケやオペラにはある程度金は払うが無名のセミプロのリサイタルには金を払えないのだ。

桃山・江戸前期~明治前期まではパトロンが居た。現在のパトロンは自治体・企業である。欧州・米国はどうか、観劇や演奏会が盛んに行われている。料金も決して安くない。当たり前だがオーケストラを養うためにはその程度の費用は必要であり、オペラやミュージカルに至ってはいわんやおやだ。そして一流は叩き上げての一流であり、ポンと一流になるわけないので二流をも養わなければならない。そういった費用を日本人は上・中流が払っているのであろうか。

否だ。そんな国家がよくも恥ずかしげも無く「文化」を口にすると思う。*

*でも食い物への意地汚さだけは文化的だとは思う。そういう意味では「鯨」は文化かもしれない。そうであったとしてらなおさらだが「文化」という単語はあまり似つかわしくない。せいぜい「食文化」程度がお似合いのような。その上で「鯨食」にこだわるのはあまり否定しないけど、というか鯨好きだし。(←食べる方ね)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

官僚は日本企業に投機しているのか

私は「投資」というほどの概念では自己資金の運用を行っていない。市場全体の成長性を期待して、インド・中国などというところの直接投資ではなく、投信で間接投資(投機)をしている。投機なので下がっても仕方が無い、が日本を投機対象と思えないという方が問題だ。

「投機の対象」というのは市場全体が上がるのかというのに尽きる。個々の企業は上がる要因があり、それを精査し投資するというのもありであろう。ところがその個々の企業の業績が読めないど素人は上げ潮に乗るしかなく、市場全体が上がらないところでは投機も出来ないのだ。海外に行く投資家はリスク許容しているというような報道もあるが全く間違っていると思う。リスクとメリットを勘案して日本市場は総勢として「上がらない」という判断をしているに過ぎない。所詮投機なので、全員が勝てる場で勝負しなければ意味が無いのだ。もちろん日本市場でも勝つ企業があるのは分かっているが、総GDPが上がり、市場価格が上がっているところで勝負したほうが負けが少ないという物だ。団塊の世代の金融資産は海外へ流れているそうだが、日本の元幹部サラリーマンが海外へ投機するということは日本市場に見切りをつけたと言えなくも無い。

投信で日経ノーロード物を推奨する向きもある、理論的には経費がかからないから有利だということだ。実際は日本市場物が有利だということは全く無く、経費が高くても海外物が上がっていて、実際の金の流れもそうなっている。だって日本市場が他の市場と同様に上がっていたらそうであろうが、独り負けなのだから。。。

政治家や官僚は株で儲けることを禁止させられた感が強い。リクルート問題もあったし、福井総裁の村上ファンド問題もあった。ところが自分の金を投資できない市場にどれほどの興味を皆が持てよう。もちろんインサイダー取引や収賄の危険性があるので政治家や公人が投資できないのは分かるのだが、日本で投資しても、投機してもリターンがあるような政策を望みたい。

では東京株式市場はどう?昨年のスタートは17000位なのが年末は15000程度。バブルになる必要は無いけれど、他の市場が上げ潮に対して投資的魅力が。。。しかも株価が下がってPER下がればまだしも。

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )

環境問題は本質的に議論されていない件

せっかくなので重いテーマ連投で。ちなみにゴア氏の安っぽいヒロイズムが対象です。

のっけからであるが「里山」という存在は人為的な存在であろうか?当然yesだ。環境問題という立場で人為的な介入をNGとすれば里山は都市と同じように極悪である。もちろんその人為的環境でトンボが成育できようが、鳥が繁殖しようが関係ない。環境問題を論じるうえでは「人為的」ということをキーワードとするとかなり限定される。里山を維持する手入れなどは全否定なのだ、めだかも蛙も人為的に幅を利かしている生物には退場してもらうほか無い。

帰化生物はどうであろうか。人為的帰化生物は毛嫌いされているようではあるが、そもそも帰化生物ではない生物とはいかなる生物なのであろうか。そもそも人間ですら大陸から縄文・弥生と別ルートで移ってきたという指摘もある。純正「環境」という概念は存在するのか?植物でも野菜はOKで、雑草はNGという論理は分かりづらい。虹鱒などの経済動物はOKで、ブラックバスはNGというのも同様だ。人間にほぼ完全に管理されているとはいえ、牛馬などの家畜、犬猫などの愛玩動物にも当てはまる。

田畑が耕作放棄されると国土が荒れるそうだが、自然に戻っているといえるのではないか。河川は氾濫を繰り返し、崖は万有引力の法則に従い崩れる。自然とは本来そういうものだ。その自然に対抗するため人類は3千年以上がんばってきた。環境をコントロールするのが人類の悲願だったのだ。

そう考えると「環境問題」の本質が分からない。人為環境である里山とマッチしたスズメ(雀)は本来繁栄されるべき種ではなかったかも知れず、堤防をコンクリートで固めることにより洪水を減らしその結果植生が変わろうが人類には関係ないかも知れない。そもそも「環境問題」は人によって大事なものが違い、コンセンサスが得られていない。ある人は里山が大事だといい、ある人は自然、またある人は野生生物、あるひとは汚染問題。皆がいうことが違い、かつ矛盾することも少なくない。

海や河川が汚れると食料調達に問題がきたすし、人類への健康被害も問題となった。昭和人間にとって環境(公害)問題は生活のために必要だったのだ。必要だから大事にしたし、社会要請もあった。現在叫ばれている環境問題、例えば氷河を守るという意見にどういった意義があるのであろう。地球の平均気温が上がると問題が増えるというが、対策に金を使ったほうが効率的という側面もある。

ギャグだろうが「人間が手入れをしてきたから絶滅を逃れた種もある」という主張に至っては理解不能だ、環境問題は積極的に人間が手を入れろというのと同意になってしまう。であれば人間の好き嫌いである種を優遇したり、ある種を滅ぼしてもいいのだ。実際天然痘などの病原菌を殺すのは推奨されているが、人間の好きな種は優遇されている。ある種は自然環境下では存在せず(牛馬とか)、それでも「環境至上」なの?

環境という単語は至極贅沢な概念ではないのか。「守るべき」というのはなんとなく理解できる、でも「どうでもいい」と思えなくも無い。

で問うのであるが、あなたは環境問題という概念にどう思い、どう行動しますか?私は環境問題を考えてきましたが考えるだけ損だという気分を少し持っています。エコでいいんじゃないのと。。。とほほ。。。(本当は環境派です、すいません。)

理論的に考えると「環境問題」とは人が立ち入らない箇所を作るか、何もしないことだ。人が何かすれば環境に影響を与えるのだ。それが無理ならば環境への影響を小さくしたいと考えるであろう、それも「小さい」からいいのか、「影響が有る」のがいけないのかがはっきりしない。ヒステリックな、宗教的な概念が幅を利かすほどのものであろうかという疑問だ。

私の主張(そんなの知らんてか?)

私は「教育」を普及させることが重要だと思う。環境問題、資源枯渇問題の教育を現在以上に「正しく*」行い、省資源・公害問題を優先すべきであろう。途上国では我々が経験したように経済優先から公害問題が引き起こる、また途上国の人口が先進国並みの生活を送ろうと思うとエネルギー・資源が莫大に必要となり、近い将来足りなく出あろう。途上国の方々に先進国並みの生活を享受することを拒否することは出来ない。これを教育した上での環境問題なのではないのであろうか。

*正しい教育は存在するのかという命題はあるのであるが、科学的事実を教育するという意味で。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

格付けを見た件

年末は忘年会5連荘の上、年始は福袋・バーゲンに繰り出し、1週間で10万も散財しました。体調が良くなかったので1次回で帰ったりしたのでこれでも少ない方ということに気付き唖然としてしまいます。小遣いだけでは当然足りず、へそくりが減ってしまいました。当然ですが家計の方の日帰り帰省などは別です。

近所の酒屋で「格付けで紹介されたワイン」というのが売っていました。これは美味そうだ。この番組は梅宮辰夫、松方弘樹等の一流芸能人が「最高級ワインとテーブルワイン」「松葉蟹と冷凍ズワイ蟹」のように最高級品と普及品を比べ、不正解になると格付けが下がるという番組。そして今年は梅宮辰夫が全部不正解となった、仕込みがないと言えなくも無いが一応やらせではないと判断して。

この番組の2流の方で食事をしても十分美味しいということであろう。食べ慣れている人でさえも分からないのだから私のような3流人にはこれで十分なはずだ。料理の場合は調理人の腕に左右されるかもしれないが、ワインは調理のしようがない。このときこのワインを買わなかったのだが、是非購入の上試してみたい。食材は番組で紹介のあった「カワハギのチリ鍋」(ふぐの代用品)で。。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

経済優先か環境優先か

あけおめです。今年一番のエントリーは軽いネタで行こうと思っていたのですがやめときます。2008年は日本経済の動向も不透明な上、投機が奨励された1年でもありました。そこから少し考えてきたことを述べたいと思います。

標題の通りと言ってはもうネタバレなのですが、経済問題と環境問題は両立するかという疑問です。少し整理してみましょう。

1)エコはエコロジーであり、エコノミーである。

この観点は至極真っ当である。武田教授が看破されているが経済活動は石油消費と正比例的同意であり、経済の発展と石油消費は(正比例)イコールであるという提言だ。この論に従えば経済問題と環境問題は相反する問題であり、経済活動を小さくすることが環境問題の対策であるという論になる、「環境問題」という問題が存在するなら聞き捨てなら無い問題である。が、実際問題石油の価格は安く、燃料として莫大に消費されていることからあながち間違いではないであろう。資源としてではなく単純エネルギー源として使用している以上その論は受け入れるべき提言であろう。ということは「安く」済むことは安くしろと言うことであり、経済活動の否定ということとなる。経済成長=環境悪化という図式が認識しているかどうかとは関わらずそうなっている。環境問題と経済問題の関連性を否定しても結構、ところがそうはいかない。

2)環境問題は資源問題である。

石油やレアメタルといった採掘可能資源が少なくなってきているのも経済問題として大きい。現在の原油価格高騰は産油国のカルテルという問題もあるであろうが、購買者が増えたということであろう。資源の量は決まっているので資源を有している国は資源を高く売りつけたい。今まではプレイヤーが限られていたから自国のコストのかかる資源を採掘するより、コストの安い資源国の耳元でささやいていれば良かったがそうはいかなくなったらしい。海の下の資源を当て込み環境問題とは真反対の開発ラッシュに沸くかもしれない。海の下の地下資源に注目が集まっているようだが、環境問題とはまたしても相反する問題であろう、消費することが前提となるからだ。

3)環境問題はゴミ問題である

日本という国に限定されるとは思えないのではあるが、ゴミを捨てる場所を確保する必要がある自治体がある。名古屋市などはその典型なのであろうか。ゴミの容量を減らすのが目的となると、プラゴミは燃やす方が合理的であり、ここでいう合理的とは経済的に合理的だと言うことだからだ。東京都はプラゴミを「嵩があり、発熱量の高い」ごみとして、助燃材という位置づけらしい。そもそもプラはマテリアルリサイクルを目的としているらしいが、PETボトルや買い物袋などの超例外を除き、混ぜ物が多くリサイクルに向いていない、というかできない。プラに混ぜ物をしないという法律が出来るのが妥当であるかどうかはわからないが使用済みの物はゴミであろう。もちろん単組成のプラを法規制すると逆に使用量が増え、性能を保持できなく経済的にも資源削減的にも成り立たない物質であることを付け加えておく。法律で律しても原油使用量が減るとは限らない上、効果も期待できないのだ。

4)「環境」という概念に喧嘩を売った業界もある

環境というキーワードをいう業界ほど環境後進業界といって過言ではないであろう。そんな歴史問題と関わらず経済的に成り立つ業界もある。例えば紙・段ボール・缶である。これらの業界は環境と経済が無理なく成り立っているので大きなアピールは少ない、というより経済的に上手く行っているので宣伝料を払う価値が無いと言うことだ。ということは「環境に優しい」とアピールをしている業界は「金を払う」メリットがあるということと同意であるわけだ。「金を払って環境問題に気を使っている」ということをアピールしているに過ぎない、または利益率が高くて宣伝代が出るということか。今環境に優しくないと思われる企業が「環境に優しい」という売りは本当なのかという疑問を持つことが必要であろう、というよりは喧嘩を売ってんじゃないのと思うべきであろう。もちろん喧嘩というのは比喩であり、皆等しく環境を汚染しているのではあるが。実際、クルマが売れることは経済的にはいいことであるが、石油を消費する財である、いくら低燃費のクルマに買い換えたとしても所詮石油を消費するという構造は変わらない。とはいえ、低燃費車やエコ家電に買い換えるというのは唯一環境にも経済にも合致した消費行動かもしれない。

5)結論じみた章

結局は「エコ」は「エコロジー」であるかもしれないが「エコノミー」とリンクしなければ受け入れられないであろう。新技術を用いた家電も環境に優しいというよりは何年で元を取れるかという事のほうが重要であり、しょせん環境問題などどうでもいいのだ。財布の中が重要なのだ。私はそれでもいいと思っている。何故なら「環境問題」とはなんなのかという本質的な議論が無く、イメージで語られているからだ。もちろん環境問題で失うもの(過去の自然、生物の多様性など)も大きいのであるだろうが、別の意味で失うもの(開発途上国の命)もあるわけであり、そのバランスを取るというべきであろう。

6)環境とは「途上国の命」と「野生生物の命」を経済的に天秤にかけている

結局、生物の多様性や、豊かな自然、を大義名分として環境問題をきれいな物として扱っている。一部の経済学者も論じているが「環境に使う金があれば途上国に使えば救える命は多数ある」というに尽きる。誤解しないで欲しいのであるが人命など取るに足らないと思っても、間違いではないと言うことだ。私の命の値段など絶滅保護種の動物より安いという自覚があるし、少なくともパンダの命より安い。議論が煮詰まっていないということを指摘しているのである。

次回、「環境問題」の理論的な危うさを述べる。人為と環境の問題だ。環境至上主義者の多くは真面目で善人であろう、無知な善人であることは場合によっては「悪人」である可能性があることを論じていきたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
   次ページ »