風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

福岡へ2021(11)

2021年06月28日 | 出版
夕飯を食べながら弟に「朝日新聞の土曜日の別刷りを見ていたら、吃音治療の専門家ということで馬出(まえだし)病院の医師が紹介されていたんだよ。それはいいんだけど、写真の撮り方がホントに上手くてさあ、緑豊かな一角をその医師が慎ましく歩いているような感じの演出で、馬出にそんなとこ、ねーよって思っちゃった」と述べた。すると義弟曰く「いやあ、あのヘンもものすごく変わりましたよ。建物なんてみんな近代的になっちゃって、治療棟がバンバン建っているし、庭も患者フレンドリーな感じになっているんじゃないですかね」げな。ヘー、そうなんだ。
小生の述べている馬出病院なるところは、夢野久作著『ドグラ・マグラ』の舞台ともなったところであり、アジア太平洋戦争中は七三一部隊にも多くの人材を送り込み、さらには米兵の生体解剖を行ったことで歴史上著名なスポットだ。その『ドグラ・マグラ』、ある精神病理学の博士が精神病者を開放空間で治療を行おうと企図した。ところがそこで惨劇が起きてしまい、その企図ともども博士もどこかに消えちゃった、というような内容だったように記憶している(間違っていたらゴメンなさい)。
そこでいま思うに、その治療法ってけっこう先進的なものではなかったのだろうか。くわしいことは知らないものの、ヨーロッパではフーコーの流れを汲む一派が同じように開放空間での治療を始め、現在では主流の学説となっているんじゃなかったんだっけ?ところが夢野久作は、それを一種のディストピアのように措定して描いた。惨劇が起きるまでの持って回ったような伏線の張り方を含めて、読んでいて「なんだかヘンだよなあ」と違和を覚えたものである。ユートピアが実はディストピアでしたという展開ではなく、けったいなジイサンがけったいな実験をしたら案の定惨劇が起きたという話でしかなかったからだ(その本を読んだのはずいぶんと昔のことなので、小生の記憶ちがいならば、再びゴメンなさい)。
『ドグラ・マグラ』を読み返すつもりはいまさらないが、夢野久作がいかに天才であったとしても、もちろん、生きている時代の制約を超えることは難しい。したがって、精神病者に対する当時の差別的な眼差しを彼が共有化し内面化していたとしても、それをいまさら批判してもしょうがないように思う。洗濯女をバカにしていたレーニンやらを、いまさら批判することも無意味かもしれない。と記してみて、いや、ポストコロニアリアリズム的には意味がある思惟なのかもと思い直すものの、それについてどう考えるのかは自分なりにいささか時間が必要だ。現在『アンクルトムの小屋』が批判されているように、精神病者をキチガイ扱いしている『ドグラ・マグラ』も批判すべきなのかもしれないが、いずれにせよ、繰り返すが読み返す意欲がない。
情けない言い訳を連ねてしまったものの、夢野久作の生み出した作品世界への憧憬のようなものは、小生のなかにどこかある。それは、貧者または弱者がトリックスターに仕立て上げるというのとは別の次元で、人々の日常の悲喜こもごもに対する醒めた観察眼に同感しているのかもしれない(なんて偉そうに記せるほど、夢野作品を読んではいない)。
宿にもどり、眠くなってきたので、風呂に入ってからベッドの上でウツラウツラ。ホッと目が覚めると、妻が「アド街」を観ている。福岡でも「アド街」を放映しているとは知らなかった。しかし、福岡の人が東京の路地裏の光景なんて観ていて、面白いのだろうか。東京在住ならば「面白そうだから、明日にでも行ってみよう」となるものの、一生縁遠いかもしれない彼らもに興趣なんてわかないことだろう。それとも、テレQにしてみたら、自社で番組製作するのも面倒ということなのかな。「アド街」を観終えて再び寝る。その日もよく歩いたのだから、少々疲れていても不思議ではない。
翌朝、6:00前に起床。腹が減っている。なんとも健康的なことだ。7:00から朝食が始まる。それが待ち遠しい。食事がバイキング形式だと、無理してでもバカみたいに食うやつがいるけれど、小生もその一人である。そもそも、日常においても朝食は大量に食べることにしているのであるから、ホテルのバイキングともなれば張り切ってしまうのも無理からぬところ。ところが、白飯のご飯を二杯もお代わりしたら、満足してしまった。妻によると、シェフが目の前で作ってくれるオムレツが絶品とのことであったが、そこまではとても腹に入りそうにない。腹八分目ということで、そこまでトライするのはやめておく。
さて、10:30から某所で始まるある用件に出かけるため福岡まで来たのだけれども、時間はまだある。そこでホテル近くの寺でも巡ってみることにした。そのホテルから徒歩5分ほど北に向かえば、いくつか大きな寺が並んだ一角となっている。くわしい歴史的経緯を知らないが、聖福寺(しょうふくじ)という臨済宗の古刹があり、それを中心に寺院が建ち並ぶようになったのだろうか。その聖福寺は、栄西が中国からお茶を持ってきたところとして有名である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿