風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

お寺めぐり(01)

2019年11月15日 | 出版
ある作業をすぐにでも終わらせてしまわなければならないのだけれど、なぜかまったく手がつかない。秋の日は釣瓶落としとはいう古言どおり、ボケーッとしていたらすぐに夕方になってしまう。困ったな、それなら酒でも飲もうかと駄文を書くことにする。実は某日、ある人にある事件のことを数名でうかがう機会があった。そのテープ起こしをして文章をまとめないといけないのだけれども、その作業が進まないのだ。
話の内容そのものは面白く、これをきっかけにその事件について一冊にまとめられないかと思うほどのものであった。いわゆるオーラル・ヒストリーという手法で、それに関わる人たちのなかから数名に聞き取りをしていけばいいのではないかと考えたわけである。しかし、目の前の作業が進まないのではどうしようもない。夢想がただの夢想に終わってしまう。一両日中には片付けてしまわないと、ほかの作業に悪影響が出てしまう。ああ、どうして指が動かないのだろうか。人間は時おり、締め切りのプレッシャーにフリーズしてしまうことがある。つまり、わかっているのに、締め切り前になると体が動かない状態に陥ってしまう状態のことを指す。小生もそのエアポケットに陥っているということだろうか。
ところで、台風が関東を襲うようになる前のある日、妻がお寺に行きたいと言い出した。まだ残暑が残っていたので、気のいい場所で清涼な空気を味わいたいという趣旨のようである。「そんなもん、勝手にひとりで行ってきい」と喉まで出かかけたところをグッとこらえ、「ならば豪徳寺にでも行ってみるか」と瞬間的な思い付きの駅名を提案してみた。「豪徳寺ってどこにあるの?」「小田急だろ」「行ったことあるの?」「その駅に降りたこともないから、全然知らない」
前に記したことがあると思うが、小生も寺社仏閣巡りはきらいではない。ただし、行っても参拝はしないし、賽銭はびた一文投げないと決めている。賽銭を出さないのは小生がケチだからということになるが、もっと言えば、仏教や神道(天皇教)に限らず信仰心がないだけであり、その無宗教を貫いているだけである。一方、小生の内部には自然崇拝的な原始アニミズムの残滓がどこかにはあるだろうし、また、寺社仏閣の持つ歴史性を体験できるのを面白いと感じるタイプである。さらには、建造物や庭園の美しさも鑑賞できるわけで、そのうえ、賽銭をケチればたいしてお金がかからないのだ。したがって、少々大きな寺社ならば無料のワンダーランドともいえなくはない。
酔いが回ってきたせいか、前置きが長くなってしまった。そんなわけで、夫婦でフラッと世田谷の豪徳寺に行ってみることにしたのであった。新宿で小田急に乗り換え豪徳寺駅に着いてみれば、すでに昼前。駅を出て左側に歩いていけば、また別の線路の脇を通ることになる。なんだろうこの鉄道は、世田谷線かな。商店街が切れそうになったところにおそば屋さんがある。まずは腹ごしらえと、そのお店に入ることにした。
小生はビールと大盛をお願いし店内をグルッと見渡してみれば、小栗旬のサイン色紙も飾られている。芸能の世界には疎い小生といえども、小栗旬の名前と顔くらいはわかる。ヘー、あんな売れっ子の俳優さんも来るお店なんだから、もしかして、ここって名店なのか?と期待が高まったのだけれども、実は、普通に美味しいお店だった。悪いと述べているのではなく、街角の美味しいそば屋さんだったということである。しかしまた、美味いそばってなんなのかとなると、これは難しい問題だろう。
そこでさらにしかしまた、ここでこうしておのれの表現の言葉尻を捕らえて自問自答を始めるのは、小生の悪いクセなのかもしれない。小生の内部で自問自答した結果だけを表出すれば論旨がすっきりするはずだとわかっていても、なぜかそれができない。したがって、内面対話が文章としてウダウダ続くことになる。ただし、それがセルフセラピーとなっているからこそ、この駄文をずっと書き続けているのだろう。
それはさておき、小生の場合、そばの味の基準となるのは松本の弁天というお店になるのだろうか。そこで保留条件を付しておきたいのだけれど、自分自身の味覚に自信などまったく持っていない。さらにはそこのそばを最後に食べたのは、もうずいぶんと前のことである。そのときの味覚をいまでも覚えているわけがない。つまりは神の舌なぞ持っているわけがないのであり、そういう人間がある料理の評価を述べることがそもそも間違っているようにも感じてしまうのだ。
一方、ネット社会となり、全人類総発信世界へと進行中である。そのなかで、たとえば食べログのような口コミ発信サイトも隆盛を極めていることだろう。そこで、これはおのれに対する問いでもあるのだけれども、ひとが勝手に発信するのはかまわないが、そもそも個々人に、なにかを発信しなければならない内的必然性などあるのだろうか。自己顕示欲、自己表現欲求、自己承認願望などなど、そうした心理的機制が個々人をネット上での自己表現に向かわせる。それがまちがっていると主張したいのではない。しかし、そこに評論性はうすいだろうなとは想像しているということである。
アレっ、豪徳寺に着く前に一回終了。

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