風塵社的業務日誌

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久しぶりのデモ

2011年06月27日 | 出版
某月某日、都内某所で某集まりがあり、小生もノコノコと出かけていく。というか、テレコを持ってこいという指令もあり、サボれなくなってしまったのだ。ところが、その後約束があったものだから、話も半ばでイソイソと出かけることになる。だいたい、19:30終了のはずが、19:00になっても終わろうとする気配もない。
それはともかく、地下鉄の駅まで行き、切符を買おうとポケットに手を突っ込んだら、あるはずのものがない!アチャー、大失敗だ。さっきまでいた会場に置き忘れてきたに違いないと思いいたる。椅子から立ち上がったときに、はずみで落としてしまったのだろう。いつも、中身の軽い財布しか持ち歩いていないから、落としてしまっても気がつかないとは、なんとも情けない話だ。
しかし、財布がなければ地下鉄にも乗れない。そこからは猛ダッシュである。日頃、ジョギングしておいてよかった。いざというときに走れるのである。とはいえども、財布を落としたときのために、ジョギングしているわけではない。それはともかく、会場に戻ると、小生の隣りに座っていたNさんが確保してくれていて一安心。多分、血相を変えてもどってきて、苦笑いしながら財布を受け取り、悄然と、そしてそそくさとまた出ていったのではないかと思う。再び、なんとも情けない話だ。
翌日、都内某所で行なわれた「世界難民の日」デモに行くことにする。デモの前に集会も開かれていたがそれはパスし、デモのみの参加とする。出かけようと思ったきっかけは、M氏からお誘いのメールが来ていたからであるが、難民救援という主旨に小生はまったく異論もないけれど、しかし、これまでほとんどかかわりを持っているわけではない。それでも、なぜ行こうと思ったのかといえば、最近、デモにも行ってねえなあと、おのれのあり方を深く反省したからである。アナキストたるもの、直接行動の精神を忘れたら、アナキストと自称することはできないのだ。
一方、先日、反原発デモでは新宿に2万人が集結したとか報道されていたけれど、そんなに集まるんなら別に小生は行かなくてもいいかと思ってしまうので、そういう態度がへそ曲がりと呼ばれる所以なのだろう。それはともかく、日本で、難民への意識なんて高くないだろうから、どうせそんなに人も来ないだろうと思っていたら、100人弱くらいか(ということは主催者発表500人、警察発表5人?)。アフリカ系からインドっぽい肌の人が目立つ。半数くらいは黒色系だろうか(人種差別をしているのではない)。白人系が少々とあとは黄色系(日本人も含む)。小生の知り合いはほとんど来ていなくて、人脈的なズレを感じ、そこが面白かった。
それにしても、デモなんか行くのは何年ぶりだろうなあ。最後にチョコパフェを食べたのと、どっちが古いのかも忘れてしまった。デモのコースは、原宿から渋谷に出て、渋谷の街中を複雑に徘徊してから青山通りを北上し、国連大学までという、約1時間ほどの散歩コース。警備の警官隊ともみ合いになることもなく、無事に平和的にゴール地点の国連大学脇まで到着。それからまた集会が始まりそうな雰囲気だったので、小生はそそくさと帰ることにする。それにしても、外国人のスピーチというのはなかなか激しいものがある。小生には、ちょっと、ああいうのは真似できそうにない。
それもともかくとして、そして難民問題からは離れ、一般論としてデモというものを少しばかり考察してみたい。デモというのはデモンストレーションの略称であることは、いまさら確認するまでもないだろう。つまり、多くの人々が集まって街頭にねり出し、その政治的主張を別の多くの人に伝えようとする行動方式のことである。そうすると、先ほど挙げた反原発デモのように、人々がより多く集まれば集まるほど、ニュースバリューも高まるし、そもそも、地域住民などへの宣伝効果も強いことだろう。それはそれで、嘉すべきことなのだろう。
しかし、その政治的主張の反対者(反原発デモならば東京電力)の方が圧倒的な力を有していて、例えばテレビCMのような形で別のデモを日常的に行なっている。そして、それに洗脳されている大衆がほとんどである。そこに対抗しうるような少数派のデモというのはありうるのだろうか。多分ないだろう。そして、デモというものは祝祭という側面を有しているから、デモをやればやるほど、やっている側は日常の倦怠に陥っていくしかないという袋小路にはまってしまう。
では、どうすれば現状を打開できるのか?それはテロしかないだろうと、多数派ぎらいな小生はついつい思ってしまう。血をもって血を洗う行為は、伝説化しうる可能性が高い。その伝説化に突破口を見出すしか未来は見えないような気がする。といって、小生自身は腰抜けなので、テロをするつもりはまったくないから、だれか面白いテロをやらないかなあと期待する今日この頃である。たしか大杉栄は、「懐疑者の如く思索し、信仰者の如く行動せよ」というようなことを言っていたけれど、とりあえずは小生も、そのように行動するようにしよう。しかし、最近はなぜか渇いているような気もする。

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