風塵社的業務日誌

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東京拘置所からのお手紙

2016年11月09日 | 出版
以下は、小生宛、某ミニコミ向けに届いた文章です。この先、この筆者から届く手紙の入力に追われそうだ。(腹巻)
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 10・26受信のSニュース〔某ミニコミ:腹巻〕394号〔395号だろうか:腹巻〕で、Sさんのお母さん(Uさん)が亡くなられたことを知りました。心からご冥福を祈ります。
 同じような状況のおふくろを抱えている――といっても私自身は何もできず、妹に全部投げているのですが、やはり身につまされます。

 接見禁止がようやく解除となりました。ずっと「第一回公判(9・21スタート)まで」となっていたのですが、その直前に〈いまだ事実を隠しているから、本人尋問までの一ヶ月延長〉という通知がありました。実際には事実を隠し続けているのは検察当局の方なのに、とんでもない言いがかりの弾圧です。しかもその一ヶ月が過ぎても相変わらず、ドアや食器口には「接見禁止」の赤札が張りつけられていました。「もうその時限が過ぎたのに、これはおかしいのではないか」と文句を言ったところ、10・24にようやくその赤札が撤去され、Sニュースは10・26に配布という情況です。Sさんのお母さんの逝去を知り、早く一報を……とあせったのですが、合州国の拘置所でもムショでも一日に何通出しても問題とならないのに、ここでは一日一通のみという人権無視の規則があって思うようになりません(――これは過去形ではなく現在も続いています!)。
 さて、これまで何度も手紙を出し、Sニュースでは「おたより」として扱ってきてもらいましたが、〈これからは同パンフへの寄稿として思うところを自由に書いて欲しい〉というオファーが編集長〔小生のことを指すが実は編集長ではない:腹巻〕よりあったので、その第一回という形で少し書かせてもらいます。
 まず私は東アジア反日武装戦線のメンバーではないので、そのメンバーたちの闘いを知ったあたりから始めます。といっても私自身は当時すでに獄中にあって、メンバーたちの闘い、実践を十分に把握しているわけではありませんから、全然見当違いの私見が入りますことご了承下さい。
 40年以上も前のことなのでご存知ない人の方が多いかと思いますが、確か73年に九段のホテルから亡命中の金大中氏がKCIAによってラチされるという事件がありました。ホテルでラチし、車に積み込んで高速を走って神戸へ。そこで船に積みかえ、玄界灘または朝鮮海峡で海に投げ込み魚のエサにするというのがKCIAの計画だったようです。が、US当局(多分CIA)が介入して朴(そう、現大統領の父で元皇軍の尉官)に殺すことをやめさせた。朴は金氏を南朝鮮へと連行して投獄したという事件です。
 当然のことながら、この大和の国の警察もそれに関わったはず。なのに後に金大中氏が大統領になった時に、形式的に「真相究明委員会」なるものを立ち上げ、この国の政府・警察をふるえあがらせたけど、結局「政治決着」なるものでウヤムヤ化を図ってしまいました。
 東アジア反日武装戦線の闘いが展開されたのは、その金大中氏ラチ事件の直後(前後?)でした。で私は、この東アジアなんとかいうのはKCIAと関係しているのではないかと考えました。彼らのいっせい逮捕の報道があった時、たまたま私はTVで臨時ニュースを観たのです。府中刑務所の北五は優良工場ということで、昼食時にTV観覧がなされていたのです。ゴラク歌番組だったのだけど、臨時ニュースが流れたのです。が、画面に現れたのはおどろおどろしい顔写真ばかり。それはかつて赤軍派の中に在日の同志がいて、彼の身分証を見せられた時、まさに悪者であるかのような写真だったことを憶い起こすものでしたが、私は画面に映し出されたのはKCIAの手先にまちがいないと思わざるをえませんでした。勿論、見たのはそのTVの臨時ニュースのみで、新聞などは完全にスミ塗り(または切り取り)でした。だから、彼ら三グループの一連の闘いを知ることはないままでした。
 75年のクアラルンプール闘争の時も新聞はバッサリと切り取られ、〈今日は新聞はスポーツ面だけで一般のニュースがない。一体どうなってんだ!?〉と、同じ工場にいたアイヌ系の囚友と話したものです。ずっと後になって少し判ったけど、やはりほんの少しだけでした。
 そして、77年ダッカ事件。私は釈放要求に応ずるとしたので府中から小菅〔東京拘置所:腹巻〕へと移され、その夜半に二台のマイクロバスに乗せられたのですが、その乗り込みの際に「Eはこっちだ!」という声があり、時をおかずして美女が乗ってきたのです。看守がこっちだと言ったのは前方に停まっていたマイクロバスのことだったのですが、そんなことを知らない私は、Eってのはきれいな女性なんじゃなと思ったものです。もっともE女史にしてもA女史にしても、一体どういう人物なのかなんて知らなかったのです。二年余り前に見たいっせい逮捕の人物と重なるなんて思ってもいなかったのです。ともあれ、これが私にとっては東アジア~の二度目のかかわりだったのです。
 ちょっとはずれることになりますが、公安当局は私(ら)は全てを認識した上でダッカ(~中東)行き、JRAとの合流を受入れたと決めつけていますが、自分たちが情報を統制しておいて一体なにをか言わんや(!)です。そもそもパレスチナゲリラとはどういう活動をしているのか、ゲリラ及び難民の生活はどういうものかなど私は知りませんでした。どっちか言うと、ゲリラも難民も砂漠状のところでテント生活をしているものと思っていました。それはJRAのリーダーも似たりよったりで〈キャンプの家がブロック造りになっていて、私らが子供の頃のあばら家よりずっと良いのにびっくりした〉旨を言っていたものです。とはいえ、水道、トイレ、シャワーなどすごい問題を有していたのですが、その昔の長屋、アパート、共同便所、風呂屋などの日本の生活からみたら、びっくりする面もあったというのは本当です。
 以上、今回は「東アジア反日武装戦線」とのなれそめ(?)の話だけにとどめます。但し、今後は別に同戦線とかかわる話ではなく自らが頭に浮かぶことなどを自由に記したいと考えていますので、S〔某団体名:腹巻〕の人々にはなんやがっかりさせるなってなことになるかもしれませんが悪しからず。

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