風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

『身体化するメディア/メディア化する身体』

2018年10月16日 | 出版
弊社の新刊『身体化するメディア/メディア化する身体』(NT・TNさん編著)が、明日、取次搬入予定である。新刊の発売日をどう規定するかは出版各社独自の基準があって(例えば、取次搬入日の翌日とするとか)一様ではないが、取次搬入日をもって新刊発売日とするところも多い。小生はそこにこだわっていないので、まあ、どうでもいいか。
それよりも、新刊を出すたびに毎度同じ問題にぶつかるのではあるけれど、せっかくこうやってブログにウダウダと文章を書き連ねている以上、新刊を出すのならばそこにきっちりとした内容紹介なり、売り文句なりを掲載して、少しくらいは宣伝に努めたいところなのだ。ところが、著者の方々がその本を教科書とかレポートとかに指定された場合、小生の書いた文章を学生がまんまコピペしそうなので、それがいやである。したがって、踏み込んだことを書きにくい。
今回もその延長上にあり、『身体化するメディア/メディア化する身体』を紹介する文章を書きたいのに外因的な理由で書きにくいという状況に面している。他の方がネット上で本書をどう評価しようと、もちろん、それはその人のご自由であるけれど、出版社としてはアマゾン上にオビ文をちょろっとコピペしただけで終わってしまっている。こういう、ネット上でろくな宣伝活動ができないという状態ではいけないとはわかっていても、さて、どうしたものやらというところだ。
某氏はフェイスブック上にちょっとした書評用のサイトを立ち上げていて、そこからアマゾンに誘導するようにしているという話を先日うかがった。小生は人とあまりつながっていたくないので、フェイスブックもツイッターもしていないけど、そういう形の匿名サイトでも立ち上げようかなあと思わなくもない。ただし、そこに載せた文章が学生にコピペされる可能性は大いにあるので、先述のいやだなあという思いが打ち消されるわけではない。
そのため、『身体化するメディア/メディア化する身体』について、一点だけ述べておこう。本書には8人の方が論考を寄せられているが、そのうちの1人であるMさんは、本書の完成を見ることなく若くして亡くなられてしまったそうだ。そのMさんとお会いしたことはないけれど、彼女から届いた朱入りのゲラを見ると、丹念に推敲された跡とていねいさがにじみ出た指定の仕方が読み取れた。そこに彼女の人柄がしのばれるなんていうありがちな表現などするつもりはない。それでも、その論文「魔法にかかった身体」への想いの深さはこちらにも伝わってくる。
苦しい闘病生活のなか、ときには意識も朦朧になったこともあるだろうところで、朱入れの字がとてもしっかりしている。そのため、Mさんが亡くなられたという話を聞いたとき、小生は一瞬理解できなかった。だって、もどしは遅かったものの、あんなにきっちりと推敲されていたじゃないか、と感じたわけだ。当然ながら、Mさんは体調のいいときに著者校正をしていたのだろうけれど、これだけは書き残しておきたいという社会学研究者としての執念がその作業に打ち込ませたのかもしれない。TNさんの指示により、その著者校原稿と本はご遺族の方に送っておいた。
そしてまた、「あとがき」のTNさんの文章がけっこう泣かせる。小生は湿っぽい話は好みではないけれど、研究者としてはこれからという女性が若くして亡くなられてしまい、しかも、彼女の論文も収録している書籍が彼女の生前に間に合わなかったというのは出版社社長としては正直つらい。本の売れ行き以前につらい。しかも、これが初めてのケースではないのである。以前出した別の某書では、何人かにインタビューを重ね、数名の方に寄稿していただいて完成にもっていったことがある。そもそもがその本は何ヵ年計画で構想していたものであったにしても、完成前にインタビューイの方が2、3人鬼籍に入られてしまったのだ。本を持っていくなり郵送するなりして、「どうもありがとうございました」と感謝を述べる機会を失ってしまったというのは、なんともいやな気分だ。当然ながら、インタビュー時に謝礼など払っているわけがないし、払うような性格の本でもなかった。
こうしていやな気分をひきずりつつも、生者は日々の生活を生きなければならない。しかも、資本主義的生産様式に則ってだ。つまり、お金を稼がなければ、生者は路傍の聖者としてしか生きられないということを意味する。路傍の聖者となるのも悪くはないが、他者に迷惑をかけるのも気が進まない(借り入れの問題が多々あるのだ)。それならば、ルンペン・ブルジョアジーとして打開していく方途をなんとかするしかない。しかし、しかし、しかし、それが見えないから困っているのだし、その現実逃避としてジョギングしているわけである。ここでアベノミクス死ねと言ってもなにも好転しないし、じゃあ、どうすればいいのだろうか。
「人は自分が知らない知識についてはそれを見つけ出すこともできない」というプラトンのパラドクスなるものがあると、最近知った。それにならえば、「風塵社の発想が資本主義的生産様式にそぐわないのだから資本主義経済にマッチするわけがない」なる腹巻おやじのパラドクスでも提示したいところである。

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