風塵社的業務日誌

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福岡へ(8)

2018年12月27日 | 出版
河村さんという方を含め、本日、2名が死刑執行されてしまった。そのため、小生が以前記した河村さんの本の書評記事が検索でヒットされてしまい、このブログへのアクセスが極端に増えている。なんだか迷惑な感じもしてしまい、もう閉鎖しようかなあと思う。それにしても、年間15名が処刑されるとはとんでもない話だ。日本はオウム化しているのだろうかという気もしてくるが、そのオウム化の内実をもう少し考えなければ、文章にはできそうにもない。ますは河村さんのご冥福をお祈り申し上げるとともに、日本総体に反対の声をあげていきたい。それはさておき、福岡の話はまだ続く。

福岡という地名は、黒田氏の出身地にちなむ。確か、備前のどこかの村だったか。そのため近世に入ると、那珂川という市内の中心を流れる2級河川の東側が博多で、西側が福岡と呼ばれるようになったらしい。商業地域が博多で、武士の区域が福岡ということである。現在は舞鶴公園とされているところ(以前は平和台球場があった。現在も福岡国際マラソンのゴール地点。鴻臚館遺跡が出てきたことでも知られる)が昔の福岡城址なのではあるけれど、最初から天守閣などなかったそうだ。外様大名の黒田氏にしてみれば、徳川に目をつけられるのを恐れたのだろうか。
そういえば、江戸時代の福岡城の姿を、絵図でもミニチュアでも見たことがないのに、いま気がついた。天守閣のない平城と聞いただけで、関心をまったく失ってしまったせいなのかもしれない。こちとら天下の名城松本城のお膝元ばい、天守閣もなかなんて城やなかろってな気分になっていたのだろう。しかしその舞鶴公園、市内ではちょっとした小高い丘となっている。もともとそういう地形だったのか、黒田氏が盛ったのかは知らないが、その坂をチャリで上るたびにジャマくせえなあと感じたものであった。
また、上記したように博多という地名も実はかなり限定的なものである。よく福岡市出身者が博多っ子などと自慢するが、本来の博多っ子となると、博多山笠を主催する櫛田神社の氏子の家に限られることだろう。江戸っ子も「本郷もかねやすまでは江戸のうち」であり、そこから先の地域の人たちが江戸っ子など称するのはおこがましかったのだ。そして、旧友の福岡S高出身のT氏など、ご先祖さんは黒田家の家臣であったそうだ。彼に言わせれば、「ぼくは福岡の出身で、博多じゃないから」ということになる。博多、博多とヘンに自慢したがる人がいるけれど、いうなれば、福岡よりも格式(ここでは近世的な意味)が低い地域であったということになる。
そういえば、学生のときに大変世話になったKさんも、ご先祖さんは官兵衛にくっついて備前から福岡に来たということであった。東区の旧家にお住まいで、筥崎宮で行われる放生会(ほうじょうや)に呼ばれたことがあった。そこで初めて(だったか?)おきゅうとという海草の寒天みたいなものを食べさせていただいた。正直に述べれば、それほど美味いものでもないし、腹が満ちるわけでもない。なんだこりゃ?という感じではあったけれど、ハレの日の食べ物だったのだろうか。福岡の民俗にくわしいわけではないので、よく知らない。
そこで疑問が生じる。なぜ福岡県という名称になったのだろうか。福岡藩は筑前国である。小倉藩は豊前である。そして筑後には久留米藩だとか柳川藩とかがあったけれど、いずれも佐幕派であった。そのため、薩長政府ににらまれてひとくくりにされてしまい、一つの県に統合されてしまう。そこまでは理解できるのだけれども、なぜ、その統一名称が福岡になったのかという疑問だ。ここまで縷々述べてきたように、福岡という地名もかなり限定的なものである。それを、筑前、筑後、豊前にまたがる名称にしてしまうのはかなり無理があるように思ってしまう。それならば、筑豊県という名称の方が、よっぽどしっくりくるような気がする。実際、福岡県には筑豊と呼ばれる地域もある(アホウの地盤だ)。
福岡なんていう名称を押し付けられて、小倉の人はよく怒らなかったなあと感心するものの、一方、小倉や門司の人ってなんとなくオトナな印象を学生のころから抱いていた。もちろん全員がそんなわけであるわけはないものの、特に小倉出身の人って肩の力がどこか抜けているような印象で、話を聞いているとこちらのムキのなりかたがバカらしいんだなあと思うことがたびたびあった。ある局面で、まずは全体像を冷静に眺めましょうという姿勢を感じたということである。そういう小倉のオトナの感覚で福岡県が誕生したのだろうか。しかし、これはかなり無茶な仮説のように思える。
さらに北九州市系でいえば、八幡はどうしようもない人物が多いところであった。具体的には舛添前東京都知事などを挙げてもいいのかもしれないが、どことなく「わがかって」(おのれの信じた方向に見境なく突き進んじゃう)な雰囲気を覚えたものであった。この主観の強さはなんだと何回となくとまどいを経験したのち、八幡の川筋もん出身の某映画監督と出会うことになる。そして、その某監督の主観の強さには辟易するものの、どこかデジャブでもあり居心地のよさを覚えたことは白状しておこう。
以上振り返ってきたように、北九州市というところには、小倉系のクールでスタイリッシュな感覚と、八幡系のプロレタリアートでアホな感覚がごちゃ混ぜになっていた。それがいまどうなっているのかは知らない。願わくば、そのミクスチャーから面白いものが出てくることを期待するけれど、多分、それは無理だろう。九州の中心は小倉から福岡に移ってしまい、八幡に工場がある意味もなくなっているからである。北九州市の創造的なイノベーションを期待するしかないのかな。

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