風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

20分

2018年08月14日 | 出版
嗚呼、暑い。暑いのきらい。ついでに、日本、死ね!
7月の半ば以来、どうにも体調が悪い。ズーッとゲリが止まらない。最初は酒の飲みすぎかと思っていたのだけれど、酒を少し控えたくらいでは収まってくれない。そこで次に、朝食べているご飯の量が多すぎるのかなあと考える。夏バテ防止のためにニンニク味噌炒めを作ったものの、それが栄養過多なのかなあという推測だ。食欲自体はさほど落ちていないので、朝は1合、昼は味噌汁そば、夜は食べないか適当なものですませるという食生活のパターンは今月に入っても変わっていない。そのため、問題はそのニンニク味噌炒めが栄養過多で消化できないのだろうか、ということだ。しかしなあ、これは検証のしようがない。暑さのピークを過ぎれば、そのうち、この体調の悪さも解消されるものと楽観的にとらえておくことにしよう。
しかし、腹の調子が悪いのは困ったものである。そこで、週末くらいはプチ断食でもして胃腸を休ませたいと思うところであるけれど、困ったことにそこは妻と考えがちがう。妻は「やれ食え!それ食え!」派である。したがって、小生一人がプチ断食など始めようものなら、家庭内には不穏な空気が充満してしまうということになる。そこで、どうしようかなあと考えている某日、突然、カレーライスを作りたくなった。
妻に「きょうは晩飯にカレーを作ってもいいか?」とたずねると、「ああ、お願い」とのこと。「カレールウはあるの?」「米粉のカレールウというのがあったと思うけど、1回使っちゃったから足りないかもしれない」「たまねぎはあるの?」「それは切らしている」フーン。カレー作りの第一歩はスーパーへの道であったのだ。「他にも切らしているのがあるの?」「いっぱいあるから、スーパーに行くなら私も行くよ」なんだよ、こっちは道すがらタバコを吸いたかったのに。
仕方なく、妻と徒歩15分ほどのスーパーへと出かけることになった。引っ越してから、スーパーまでの距離が遠くなってしまった。しかも、カンカン照りのなかをたらたら歩いていくのは難儀な話だ。それでも、徒歩圏20分ほどのところに、6軒ほどのスーパーがある。便利なような不便なような状態である。それぞれのお店の特色をつかみ、目的別にうまく利用するのが賢い消費者ということなのだろうけれど、もちろん、そんな面倒くさいことに血道をあげるわけがない。こちとら、休日くらいはなにも考えたくないのだ。
そして、某スーパーに行くと、大豆で作ったカレールウというのがあったので、それと白ワインを妻に買っていただくことになる。白ワインは、こくをつけるために是非とも必要だという理屈なのであるけれど、調理中に小生が飲むために決まっている。
石田秀芳24世本因坊の作るカレーが美味いとは有名な話であるけれど、だれだったか、碁打ちの方でキャベツの千切りをしているときが一番楽しいと語っていた。なるほどなあ、と思う。碁打ちは四六時中囲碁のことばかりを考えているのだから、それに疲れてしまうのも無理はない。そこで、千切りをしているときの無心の時間が楽しいとは、もしかしたら名言なのかもしれない(もちろん、将棋指しも同様)。それに近いけれど、小生が料理をしたがるときというのは、考えることから解放されたい場合が多いのである。しかも、それにはカレーがうってつけなのだ。
どういうことなのかといえば、カレーを作るときは単純作業が多いからだ。しかも、その単純作業をていねいに長時間こなせばこなすほど味にこくが出ると、小生が勝手に信じているというだけのことである。買ってきたたまねぎをまずは千切りにし、それをフライパンにぶちまけ、弱火でとにかく炒める。こいつがきつね色になるまで、白ワインを飲みつつひたすら箸でかき回し続けるわけである。その間が20分ほどだろうか。ただただ右手を動かしているだけで(左手でワインを飲む)、ほかのことはなにも考えない20分。ただの考えようになるのだけれども、その20分を退屈とみなすのか、至高と考えるかで、その20分の意味は大きく変わってしまう。もちろん、小生の場合は、ワインを飲みたいという別の動機もある。
そこで少し角度を変えて考えてみたい。グラスに半分残ったウイスキーを見て「もう半分」と考えるのか、「まだ半分」と考えるのかで、その人の満足度が変わってくるという、知足という言葉を妙に押し付けているような言説がある。知足とは、はたしてそういう意味なのだろうか。実は、印刷物であるけれど、趙治勲世25世本因坊が「知足」と書かれた扇子をいただいたことがある。実はそれ以来、知足とはどういう状態を指すのかを考えるようになってしまった。古代ギリシアのアテネ神殿には、「汝自身を知れ」という有名な言葉と一緒に、「度を越すことなかれ」という碑文も掲げられていたそうである。つまり足るを知るとは、古今東西を問わず、人間の基本的な倫理であるのだろう。しかし、どうしたら足るを知ることができるのかは皆目不明でしかないのだ。したがって、考えざるをえない。

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