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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ハンソン 交響曲第2番「ロマンティック」/スラトキン&セントルイス響

2009年09月21日 23時15分56秒 | クラシック(20世紀~)
 ハンソンはアメリカン・クラシックの作曲家の大物のひとりである。アメリカの作曲家は、アイヴスのような人もいるが、音楽が音響デザインと化した第二次大戦後も、総体的にロマン派をベースにした保守的なところを基点とする人が多かった。サミュエル・バーバーやチャドウィック、あとコープランドやコルンゴルトなどもその部類に含めていいかもしれない。このハンソンもその一人であり、かつ最大の大物だろう、なにしろ彼は指揮者としてマーキュリーのリヴィング・プレゼンスに自作自演の他、何枚かのアルバムを残してもいるので、そうした意味でも有名な人なのである。

 私は3年ほど前にここで彼の交響曲の第3番を取り上げたことがあったけれど、その時はドイツ・ロマン派とはいささか趣が異なる、構築的というよりはもうすこし情緒的、ロマン派といってもいくらか民族的風景のようなものを穏健な筆致で描く人みたいなイメージを持ったが、特に駆り立てられるような興味も感じないまま放置してあった。
 今回、この交響曲第2番を聴いてみようと思ったのは、この曲の一部がこのところなにかにつけて、あれこれ書いている「エイリアン」のエンド・タイトルに使われているからで、これを機会にちょっと聴いてみたいと思った訳だ。コレクションを探してみたところ、ハンソンについては他の交響曲は何枚かあったけれど、第2番はなぜか見あたらなかったので、HMVで-ここでは初めて-ダウンロードでの購入をしてみた。ソースはMP3ではなく、128kbpsのWindowsMediaファイルであったので、これを一旦ディスクに焼きなおして聴いているところである。

 全楽章を軽くメモっておくと、曲は3楽章制、第1楽章は全楽章中もっとも長大で(といっても15分くらいだか)、長い序奏部の後、第1主題こそものものしいが、大半はなだらかな起伏で、心持ち温度感の低い田園風景のような音楽でもって展開されていく。第2楽章は更に牧歌的、田園的な緩徐楽章でシベリウスから苦みを抜いた音楽みたいな印象で、中間部では大きく盛り上がるが(まるでマーラーの3番のみたいに)、これは典型的なロマン派のパターンだが、その平明な旋律はもやはハリウッド(の映画音楽)的な趣もある。第3楽章はトンネルから抜け出たような明るいファンファーレに始まり、雄大でスケールは大きいものの、基本的にはなだからな音楽との対比で進行、最後近くで第1楽章の主題が回想されて、曲は再びファンファーレで盛り上がり終末を迎える....と、まぁ、だいたいこんな感じだろうか。いささか、「ぬるい」ところがなくもないと思うが、瑞々しさがあってなかなか良い曲だと思う。

 さて、問題の「エイリアン」に使われた部分だが、Wikiなどを読むと、多くは第3楽章が使われた旨の記載があるけれど、これはどう考えても第1楽章だろうと思う。前述のとおり第1楽章は15分ほどある楽章だけれど、くだんの映画のオーラスの通信場面およびクロージング・テーマは、この楽章の最後をそれぞれ1分と3分ほど、この楽章の第2主題をあつかったコーダの部分あたりを中心に使われているとしか思えない。念のため映画の方でも確認したが、ひょっとするアレンジした演奏かも....という気もするが、大筋ではこのコーダの音楽だ。
 ちなみにこの部分に私は映画で慣れ親しんだせいか、この初めて聴く曲でもこの部分がくると、異国の地で突然古い友達にでもあったような気になってしまう。「ベニスに死す」で使われたマーラーのアダージェットなどその典型だが、これも間違いなくそのひとつになるだろう。
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ブゾーニ ピアノ作品集2/ハーディン

2009年04月24日 23時02分07秒 | クラシック(20世紀~)
 ブゾーニ編曲によるピアノ版の「シャコンヌ」が聴きたくて購入してきたアルバム。パルティータ第2番第5曲のシャコンヌといえば、全6曲に渡る「無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ」のほぼ中心に位置するといってもいい楽章であり、恐らく全曲中もっとも有名な楽章ということになるとも思う。なにしろ、全曲中に収まったこの「シャコンヌ」の突出感は異常である。演奏時間は群を抜いて長い約15分、冒頭のテーマからただならぬ緊張感に支配された悲愴感が漂い、その重量感とシリアスさは他の楽章の比ではない。また、途中一転して長調の伸びやかなムードになった後、再び漆黒の闇みたいなムードが甦ってくるあたりの展開は、一足飛びにロマン派の世界に到達してしまったような趣すらある。

 おそらくブゾーニはそういうところ感化されたのだろう。これをピアノ用にアレンジした訳であるが、元の作品に霊感を受けたのか、この編曲版は作品をほとんど忘れられてしまっているブゾーニの作品にあって、戦前から有名ピアニストに好んで演奏され続けているほどに有名なピアノ・ピースになっている訳である。
 さて、それほどに有名な「シャコンヌ」を、私は恥ずかしながら初めて聴いた訳だけれど、これは先日の山下によるギター演奏以上に全く違和感のない編曲である。もともとロマン派ばかりを聴いてきて、ブラームスの第4のパッサカリアだの、ウェーベルンの「パッサカリア」、ついでにコドフスキーの「未完成交響曲の冒頭八小節に基づくパッサカリア」なども日常的に楽しんで来た当方としては、ホームグラウンドに戻ってきたような感すらあるくらいだ。

 とにかく、ブゾーニはこの「シャコンヌ」をほぼ完全にロマン派の音楽にしている。これを聴いて頭を駆けめぐるのはバッハというより、前述のブラームスやウェーベルンだったりするのだ。この曲は冒頭の4小節のテーマを様々に変形させつつ64回現われるのが骨格だが、各変奏の特徴をかなり際だたせて、全体としては性格変奏にも近いような音楽的なレンジがあるし、テンポを動かし、ピアニスティックなフレーズを多用して、感情面の振幅を大きくとっているあたりも実にロマン派的といわねばならないだろう。
 そんな訳でこれは非常に楽しめる。またピアニスティックなフレーズが随所に登場して、派手なショー・ピースみたいになっているところも私好みだし、前半~中盤部分を占める短調の部分のラストあたりであおり立てるように展開していくあたり圧巻である。
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バレエ「火の鳥」/マリインスキー劇場バレエ団

2009年04月12日 23時19分15秒 | クラシック(20世紀~)
 2月に録画してあった、ハイビジョン・ウイークエンドシアター「サンクトペテルブルク白夜祭2008」を観てみた。内容はマリインスキー劇場バレエ団でストラヴィンスキーの「火の鳥」「春の祭典」「結婚」の三つ、演奏は同劇場オケで指揮はワレリー・ゲルギエフという豪華な布陣である。私はバレエについてはオペラ以上に興味薄に分野なので、あれこれと語るほど作品も観ていないし、知識もほとんどないのだが、マリインスキー劇場バレエ団が旧キーロフバレエで、ロシアのバレエ団としてはボリショイと並ぶ存在....くらいのことは知っていたし、作品がストラヴィンスキーの有名作で、しかも指揮がゲルギエフとなれば(私もしばらく前に彼の指揮なる「春の祭典」にショックを受けたクチである)、もっぱら音楽面の興味だけでもイケそうだと録画してみた訳である。

 とりあえず、今夜は「火の鳥」を観てみた。私はフランスのベジャールとか、ああいうモダン・バレエは、私のようなガサツな人間には高級過ぎるのか、ついぞおもしろいと思ったことためしがないので(ホント、私ってフランス物がだめなんだよなぁ-笑)、これもけっこう退屈するのでは....と、多少懸念しつつ観始めたのだが、いやぁ、これが実に素晴らしいものだった。ストーリーは子供でも知っている有名なお伽噺、バレエそのものも動きの抽象度が高くなく、何を表現しているるのか、解釈に困るような代物でないから(今回の演出がフォーキン作で、これは初演時にものらしいから、さもありなん)、とて分かりやすかったのがよかった。主な登場人物の3人はどれも古典的な美男美女、火の鳥の凛々しい美しさ、王女(マリアンナ・パブロワ)など、まるで50年前にタイムスリップしたんじゃないかと思うような絶世の美人ぶりで、ガチでストレートな良さにオジサンは思わず見とれてしまった。また、舞台や衣装の眩いばかりの色彩感なども素晴らしく、存分に古典的ファンタジーの世界を味わせてもらったというところだろうか。

 ちなみに「火の鳥」の全曲版は音楽だけ聴いていると、情景描写やアクションに傾き過ぎるところがあって、音楽だけ聴いているとやや弛緩してしまう瞬間もあるのだが、やはり本来の形であるパレエ随伴音楽として鑑賞すると、50分はあっという間で、むしろ短く感じたほどだ。そうか、この曲は本来こうやって楽しむもんだったんだねぇ....と、妙に納得してしまった(って、今頃気がついてどうする)。ゲルギエフ指揮による演奏も、例によって非常に「濃い」もので、後半のハイライトの「カスチェイ一党の凶悪な踊り」の煽るように突進する勢い、フィナーレの壮麗な高揚感などさすがのテンションを感じさせてスリリングであった。
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エルガー 交響曲第1番/ショルティ&LPO

2009年04月08日 23時24分21秒 | クラシック(20世紀~)
 先日、「記憶によれば、私は交響曲の一番をずいぶん聴き込んで、「あぁ、もう少しだ、あと何回か聴けば、きっと気に入る....」くらいまでいったと思う」と書いたエルガーの交響曲第1番。ヴァイオリン協奏曲、エニグマ変奏曲とエルガーをあれこれ聴いているついでに、長年終わってない宿題のようになっている、この曲もリベンジよろしく久々に聴いてみた。演奏は先の5枚組に入っているバルビローリと他にも、ショルティとバレンボイムがあったので、あちこちつまみ食いしているところだが、とりあえずヴァイオリン協奏曲の時の経験からも、一番メリハリがありそうなショルティとLPOのものを聴いている。

 さて、この交響曲第1番だが、四半世紀前にずいぶん聴き込んだとか書いている割には、改めて聴いてみてもどこもほとんど覚えていない。むしろ、こんな晦渋な代物を20代の頃によくもまぁ飽きずで聴き込んだものだと感心してしまうくらいに、よくわかんない曲である。まぁ、全体的には「エニグマ変奏曲」と似たような雰囲気、音符が沢山出てくるので、ヴァイオリン協奏曲に比べれば、まだエルガーらしさのようなものは良く伝わってくるのだが、それにしたって全体は恐ろしく地味である。ロマン派らしい劇的なドラマのようなものが、この曲の中でいろいろ蠢いていることは分かるのだが、その動きが表向きあまりに変化に乏しく、その実相が正しく伝わってこないといったところだろうか。

 冒頭の主題は全曲に循環するモチーフのようだが、聴きようによっては「威風堂々」のヴァリエーションみたいなこれが、まずはイマイチ魅力に欠ける。エニグマのような情緒、チェロ協奏曲のような劇性がなく、なんだかひなびた田舎の式典会場のような雰囲気すらしてしまうのだ。これが一区切りすると、ようやく主部となるが、暗雲漂うような第1主題、優美な第2主題ととりあえずソナタらしいお約束で進んでいくものの、先に書いたようになにかドラマが起こっていることはわかるのだが、あくまでも他人事みたいなところがあるのである。第2楽章はスケルツォも同様だ。まぁ、慣れてくればおもしろみも出てきそうな予感はするのだが....(と四半世紀前にも思ったのだろうな-笑)。

 第3楽章は「エニグマ」の「ニムロッド」を思わす音楽で、「ブラームスin英国」みたいな音楽だと思えば、こちらは素直に楽しめる。第4楽章は第1楽章に呼応するもので、嵐の前の静けさみたいなムードで始まる、調度ブラームスの交響曲第1番の第4楽章冒頭みたいな手順である。だが、これまた本編が始まると、あれこれとドラマチックな展開をしているのだろうが、どうもこちらに伝ってこない。循環主題が登場する楽曲の統一感のようなものも、ここでは大きく目論まれているようなのだが、それもこちらには今一歩訴求力がないというのが正直なところだ。
 いやはや、これも相当な難物である。四半世紀前にどのくらい聴き込んだのか、今では全く覚えていないが、これは当時の私には歯が立たなかったのも無理はないという気もしてしまう。うーむ、この曲、もう少し聴き込んでみるしかないだろう。
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エルガー 「エニグマ変奏曲」聴き比べ

2009年04月02日 20時49分49秒 | クラシック(20世紀~)
 昨夜、バルビローリとフィルハーモニアの演奏した「エニグマ変奏曲」を聴いて、なんだか久しぶりのこの曲の良さを堪能させてもらったもので、ものはついでとエルガーのCDをあちこち探したところ、数枚出てきた。私はCD期に入ってエルガーはほとんど聴いていなかったので、こんな沢山出てきたこと自体意外だったのだが、お得意の「いつか聴くこともあるだろう」みたいな感じで、昔購入してあったのだろう。幸いにも「エニグマ変奏曲」も2種類ほどあったので、ちょっと聴き比べをしてみることにした。

・バレンボイム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
 1976年、若き日のバレンボイムの演奏である。たしかこの時期の彼は2つの交響曲や同時まだ存命中だったデュプレとチェロ協奏曲など、シリーズのようにエルガー作品を録音していたが、これもそのひとつだと思う。
 演奏はフルトヴェングラーばりに主情的なテンポのうねり、カラヤン的な細部の磨き上げが共存した、いかにも新ロマン派の時代に録音した演奏という感じである。そうした特色が「エニグマ変奏曲」と実によくマッチしていて聴き応え十分の演奏となっている。もっとも、気高く荘厳な美しさという点では、昨日聴いたバルビローリに敵わないが、それでもこの曲の持つ「大英帝国の落日」みたいな情緒はよく出ているし、バルビローリでは多少おっとりしていた速い変奏部分は、当時のバレンボイムの若さなのだろう、実にフレッシュでメリハリがあって、この点ではバルビローリに勝っている。

・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
 74年の収録で、当時黄金時代を迎えていたゴールデン・コンビの演奏だ。良くも悪しくも「ショルティとシカゴ」という刻印が至る所に張り付いたパフォーマンスだと思う。したがって、この曲の英国的ムードや情緒といったものは前2種の演奏に比べるといささか希薄で、特別テンポが遅い訳でもないだろうが、「テーマ」を筆頭に叙情的なパートでは総じてインテンポであっさり流れていく。「ニムロッド」は他の演奏とはちょいと違うアポロ的な美しさを描出しているあたりはさすがだが、他の演奏にあったような「この曲への思い入れ」みたいなものはあまり感じさせないのは、少々好き嫌いを分けるところかあるかもしれない。
 一方、速い変奏ではこのコンビの高性能っぷりをアピールするかの如く、例によって切れ味の鋭い、実にダイナミックな演奏になっている。第7,11,15変奏あたりの突進するような勢い、一糸乱れぬ精緻なアンサンブルなどは実に聴き物である。ちなみに録音もいかにもこの時期のデッカ調で、音の細部が隅々まで見渡せるようなブリリアントな仕上がりだ。

・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
 こちらは47年のモノラル録音で、昨夜聴いたフィルハーモニアとの演奏からさかのぼること約20年前の録音。この時点でバルビローリは未だ48歳だから、その年齢がものをいっているのだろう、フィルハーモニアとの演奏に比べて、全編に覇気がみなぎり、早めのテンポでぐいぐい進んでいく演奏になっている。なにしろフィルハーモニアの演奏に比べて4分も速く、約26分で最後まで駆け抜けていくのだ。情緒たっぷりのテーマの歌い込み、「大英帝国の落日」的ムード、荒場でのダイナミズムなどなど、どこをとっても素晴らしい演奏なのだが、47年録音ということもあり、いかんせん音が貧弱なのが残念だ(全く聴けないというレベルではない-念のため)。同じモノラルでもせめてこの5年後に録音していれば、演奏の素晴らしさが、よりビビッドに伝わってきたろうと、この時ばかりは己のオーディオバカぶりが恨めしくなってしまう。
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エルガー 「エニグマ変奏曲」/バルビローリ&PO

2009年04月01日 23時25分53秒 | クラシック(20世紀~)
 今し方届いたばかりのバルビローリがエルガーの管弦楽作品を振った5枚組ボックス。エルガーはエルガーのスペシャリストとして知られていたので、まずはスタンダードなエルガー・アルバムといえるのではないだろうか。エルガーといえば、今の当方の気分なら、ヴァイオリン協奏曲ということになるが、残念ながらこのセットには収録されていないので、ここではまずは順当な線で「エニグマ変奏曲」を聴いているところだ。「エニグマ変奏曲」といえば、私はレコード時代にこのバルビローリ他にも、オーマンディ、あとストコフスキーの演奏などを聴いたりしたものだが、バルビローリの演奏は荘厳さ、メロディックな憂愁美みたいなところで、群を抜いた美しさがあったように記憶している。

 「エニグマ変奏曲」は、そのタイトル通り変奏曲であるが、同時期のラフマニノフが作った「パガニーニ狂詩曲」、あとレーガーの諸曲もそうだが、ロマン派の性格変奏曲が行き着いた果てというか、ひとつひとつの変奏の性格があまりに肥大化してしまい、ほとんど変奏曲というよりは、ラプソディックでスケールの大きな組曲のような様相を呈していると思う。「パガニーニ」の方もそうだが、メインの主題をさしおいて、途中に現れるひとつの変奏部分だけ、特別有名になるなどというのは(「エニグマ」なら当然第9変奏の「ニムロッド」だし、「パガニーニ」の方なら映画音楽にも使われたりもする第18変奏である)、そのあたりの事態をよく表した現象だとも思う。

 このバルビローリとフィルハーモニアによる演奏も、聴いていてほとんど変奏曲というテクニカルさは意識させず、むしろ19世紀末、そろそろ落日を迎える大英帝国の「威厳」と「過去の栄光」が交錯する30分の音楽パノラマみたいな色彩が強い。このあたりはオーマンディの演奏などはもうすこし性格変奏曲としてのメリハリがきっちりとつけていたような記憶があるのだが、バルビローリの方はダイナミックな部分ではちと押しが弱い分、この曲特有なノスタルジックな美しさを全面に出していて、その意味ではしみじみとした味わいがあって、まさに英国音楽を堪能させてくれるという感じだ。私も堪能させていただいた。

・交響曲第1番 Op.55
・序奏とアレグロ Op.47
・交響曲第2番 Op.63
・エレジー Op.58
・溜め息 Op.70
・ファルスタッフ Op.68
・コケイン Op.40
・フロワサール Op.19
・エニグマ変奏曲 Op.36
・『威風堂々』第1~5番 Op.39
・セレナード Op.20
・海の絵 Op.37
・チェロ協奏曲 Op.85
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エルガー ヴァイオリン協奏曲/ケネディ,ラトル&バーミンガム市SO

2009年03月26日 23時18分38秒 | クラシック(20世紀~)
 三つ目のエルガー。演奏はナイジェル・ケネディ、バックはサイモン・ラトルと当時(97年)の手兵バーミンガム市響である。ナイジェル・ケネディといえば、確か「四季」が何百万枚売ったとか、クラシックのアーティストらしからぬ出で立ちでコンサートに登場したとか、ジャズの方とシームレスな活動しているとか、突如引退して復活したとか、90年頃だったと思うが、英国では話題にことかかない人だったようだ。この演奏は97年の復活後のもので、2度目の録音ということだが、2度も録音しているということは、彼にとっては十八番なのかもしれない。

 演奏は非常に楽しめる。期待して聴いたヒラリー・ハーンとコリン・デイヴィスの演奏は、キョンファとショルティのテンションの高い演奏で、まずはこの曲を知ったせいなのか、ハーンの端正だがやや余所行きな表情、デイヴィスの悠々迫らざるオケの伴奏共々、あの演奏は私にとってちと落ち着き過ぎ、地味過ぎで、全体としてはイマイチな印象だったが、その点、こちらは随所に新鮮さがあり、全編にわたってとても楽しめる演奏だ。なにしろ、録音当時はふたりとも若手だったのが幸いしたのだろう。この長大で晦渋な、ともすれば「英国訛り」のみというか、「わかる人にしか分からない」的な評価をされかねない、この曲を新しい切り口でスタンダード化してやろうとでも思ったのか、とにかく覇気満々な演奏なのがいい。

 まずラトルの指揮振りがおもしろい、インテンポで重厚に進めるのが定石(多分、なんだろうと思う)のこの曲を、第1楽章からテンポを頻繁に動かして第一主題と精力的に進め、第二主題では思い切り歌い、主題のコントラストを明確にして見せる点だとか、ちょっと苦みのある第2楽章をまるで「もうずっと昔から有名だった美しい楽章」の如く、実に流麗に演奏させてしまう手際など、実に素晴らしいものがあると思う。第3楽章も「こんなにハイライト向かって直線的に盛り上がる楽章だったっけなぁ」と思わせるくらいにクライマックスをはっきりとさせた演奏になっている。つまりは、この曲を「当たり前にスタンダードな協奏曲」として演奏しているのだ。

 ケネディのヴァイオリンはまずピアニッシモからフォルテまでレンジの広さ、そしてそのダイナミズムが印象的だ。ゴリゴリ弾くところは豪快で精力的だが、一転して弱音部では実に繊細で甘い表情を見せるのだが、そのバランス感覚が「コレだ」という説得力がある。第1楽章の多彩な表情もさることながら、聴きどころは第2楽章だろうか。ケネディにかかると、前述のラトルの指揮とも相まって、まるでコルンゴルトの協奏曲を聴いているかのようなロマンティックな美しさ感じさせるから妙だ。第3楽章の超絶技巧な部分など、実にホットな演奏で協奏曲的なカタルシスを感じさせる。という訳で、これまで聴いた3種類の演奏では文句なく、これが一番好きだ。いゃぁ、いい演奏に出会いました。
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エルガー ヴァイオリン協奏曲/ハーン,デイヴィス&LSO (SACD)

2009年03月21日 00時50分53秒 | クラシック(20世紀~)
 一昨日に書いて以来、しつこくエルガーの協奏曲を聴いている。昨日今日だけでもかれこれ7,8回は聴いていると思うが(通勤や移動中のWalkmanってのも多いのだが)、大分馴染んではきた。とはいっても、これでよーやく各楽章の主題、形式がおおよそ識別できた....という程度である。小説でいったら、荒筋がおおむね了解でき、登場人物の何人かに親しみを感じてきたというところで、登場人物のセリフの良さに感服したり、筋書きの巧みさに感服する....例えばブラームスのように「その良さをしみじみと味わう」みたいなところまでは行ってない、前回も書いたようにエルガーという人の作風は、とてもブラームス的なところがあるので、ブラームスのように楽しめそうなのに、なかなかそうならないというのは切ないところだ。まぁ、こういう人の音楽って、そもそも短期間でどうこうしようと思わずに、長いこと付き合うべき音楽なんであろうことは分かっているだけれど、つい焦ってしまう、悪いことである。

 クラシック、特に古典派からロマン派くらいまでの音楽を聴く時、どうしても行き当たるのが形式という問題だ。例えばソナタ形式(楽章)、これはたいてい序奏があり、第一主題があって、それとは対照的な第二主題が提示されると、そこからこのふたつの主題をあれこれこねくり回して展開させていく文字通り展開部があって、それがたいてい大きく盛り上がったところで、第一主題と第二主題が再現される....みたいな構成をとっている。なぜ作曲家がこういう形式をいちいち採用するのかということは長くなるので省くけれど、少なくともリスナーにとって、形式というのは、長い曲を聴く上である種のガイドラインにはなることは確かだと思う。まぁ、少なくとも私にとってはそうだ。
 「音楽には理屈も形式もいらない、心で聴くものだ」みたいにいう人もいるけれど、その言い分は建前としては正論だとしても、例えばこの曲のようにどの楽章も15分以上あるのような大規模な曲の場合、白紙の心で魂にうったえかけるような表現、心に琴線に触れるような旋律やハーモニーを、やみくも探して聴いてみたところで、途中でくじけてしまうのが関の山ではないだろうか。

 なんだか話が妙に説教臭い方向になってきたが(某巨大匿名掲示板風にいうと「オマエ、誰と戦ってんだ?」ってところか-笑)、話を戻すとこの曲の第1楽章は約18分という長大なものだけれど、さきほどのソナタ形式を構成するパーツという風に考えてみるれば、主題の提示部(オケだけ)は2分半、再提示(ここでヴァイオリンも入る)が6分、展開部が2分半、再現部が7分 という風に、各パートがだいたいロックやポップだの一曲分に相当するくらいの長さに分解というか、音楽のメリハリとして考えることができる。で、この曲の場合、まず第1主題がふたつに分かれていて長大、おかげで第2主題がとても地味になってしまっていて、あんまり鮮やかに対照していない。後半の展開部と再現部の区別が全然つかない(笑)、再現部とは名ばかりで、ほとんど展開部の続きといった感じで主題を延々とこねくりまわしている感がある....などの理由で、各パートをなかなか判別できなくて、聴いていて迷子になってしまう訳だ。また、この楽章はハイライトに向かってストレートに盛り上がっていくようなものではなく、いたるところで立ち止まって、瞑想するような趣になっていて、そのあたりも迷子になりやすいところだと思う。

 などと、本当はヒラリー・ハーンが巨匠コリン・デイヴィスとロンドン響をバックを得て、2003年に収録された同曲の演奏について、その感想を書こうとしたのだけれど、話があらぬ方向にいってしまって全然出てこないまま終わってしまいそうなので、少しだけ書いておく。この演奏、キョンファとショルティが組んだものに比べ、ソロ、オケともに落ち着き払っている。ハーンは全く激することなく、しかし終始緊張感を持ちつつも、彼女らしい低い温度感と細部に至るまで明晰なプレイでこの曲を弾ききっている。またデイヴィスとロンドン響の方だが、「エルガーというものはこういうものだ」といわんばかりの、やや暗く、くすんだ響きでもって、この大作を壮麗に演奏していて充実感満点である(リアルなオケの量感はSACDならではのクウォリティだし)。ただ、正直いうと、現段階ではキョンファとショルティの演奏にあった、白か黒か的なメリハリ、昂ぶるるようなテンションのようなものが、この曲に慣れ親しむにはけっこう頃合いかも?などと思わないこともない。つまり、目下、同曲を修行中の身としてはハーンとデイヴィスの演奏はちと渋すぎる感じがした....といったところだろうか。
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エルガー ヴァイオリン協奏曲/キョンファ,ショルティ&LPO

2009年03月18日 23時02分23秒 | クラシック(20世紀~)
 ショスタコ、コルンゴールドに続いて、ここ数日挑戦中なのがエルガーのヴァイオリン協奏曲である。エルガーという作曲家は英国出身ということもあって、一応ブリティッシュ・ロックでもって音楽に開眼した当方にとっては、詳しい事情は省くがとても興味ある存在だ。しかも、エルガーという人は保守的な英国らしく、20世紀に入っても当時の最新モードである12音だの無調だのというモダンな方法論は採用せず、ひたすら品格のある重厚な作風で、節度をわきまえたブラームス的な情緒にベースにしたような作風となればなおさらである(ちなみに英国の作曲家はこの手の保守系が多く、デューリアスやヴォーン・ウィアムスなどもそうした作風だったと思う)。

 そんな訳で、私は20代の頃、彼の代表作である「エニグマ変奏曲」を、確かスコフスキーとオーマンディの演奏で聴いてすっかり気に入ってしまい、それでは....とばかりに、彼の交響曲の方にも挑戦したのが、「エニグマ変奏曲」の親しみやすさに比べると、これが実に難物だったのだ。ブラームス風な堅牢な構成に、あまりに感情を抑圧しすぎて、よくよく聴かないと感得できないロマン派的ムードなどなど、とにかく渋い、あまりに渋い曲だったのである。確か記憶によれば、私は交響曲の一番をずいぶん聴き込んで、「あぁ、もう少しだ、あと何回か聴けば、きっと気に入る....」くらいまでいったと思う。だが、どうしてそうなったのか、よく覚えていないのだが、そこで終わってしまったのだった。以来、エルガーといえば、「エニグマはいいけど、あとはちょっとねー」みたいなイメージになってしまったのである。

 以来、実に久々のエルガーである。しかも曲は晦渋かつ長大をもって知られるヴァイオリン協奏曲である。ヴァイオリン協奏曲史上、演奏時間が50分に迫ろうかという作品というと、これ以外には数えるほどしかないという程の巨大さ、また、エルガー自身がヴァイオリニスト出身だったせいもあって、これを弾ききるテクニックもすさまじく高い(ネットで調べたら「空前の難曲」という形容をみかけた)....ということで、私が20代の頃はこの曲はあまりレコードやCDもなく、作品そのものエルガーの事大主義的な面が裏目に出た空疎な仕上がり....のようにも形容されていた作品なのである。演奏はチョン・キョンファのヴァイオリン、ショルティとLPOが伴奏を務めるものを聴いてみた。多分、70年代にはこの曲のスタンダードな演奏だったと思う。

 目下、あまりあれこれ考えずに自宅やWalkmanで繰り返して聴いているところで、たぶん十数回くらいは聴いたのではないかと思うが、案の定、実に晦渋である。ショスタコのようなトリッキーなおもしろさ、抉るように沈痛な表情がある訳ではないし、コルンゴールドみたいな甘さももちろんない。とにかく全体をがっちりと構成してあるのはわかりるのだが、聴きはじめて、「今、どこだっけ?」と、すぐに迷子になってしまう。まずテーマがすすっと頭にはいってこない、構成で例えばソナタ形式に展開部だとか、再現部みたいな区別が容易に判別できない。下手をすると、快速調な第一楽章なんだか、緩徐楽章である第二楽章なのかもわからなくなってしまうといった具合だ。

 つまり、もう笑うしかないくらいお手上げという感じなのだが、それでも人間努力はいつか実るものだ(努力なんてもんじゃねーか、ただ聴いてるだけだもんな-笑)。ここ数回くらい、ようやく-仄かにだが-テーマだの、曲のメリハリだのが見えてきたような気もするし、ヴァイオリンで超絶的なテクニックを駆使している部分なんてところも楽しめそうな気分がしてきたのは収穫である。この曲、ヒラリー・ハーンのSACDも購入してあることだし、もう少しがんばって聴きこんで、なんとか物にしてみたいと思う。これが好きになれば、きっと交響曲だの、チェロ協奏曲、セレナードなんてところもイケるようになるかもしれないし....。
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/五嶋、アバド&BPO

2009年03月17日 00時08分36秒 | クラシック(20世紀~)
 五嶋みどりは、14歳の時、タングルウッドで演奏後にかのバーンスタインがひれ伏したとかいう伝説をつくった日本の誇る女性ヴァイオリニストだが(ヴァイオリンを弾く驚異の神童伝説はその後に登場したサラ・チャンも凄いものだったらしいが)、天才少女といわれた彼女も、早いもの今ではもう30歳後半になるそうだ。これはそんな彼女が21歳の時に挑んだショスタの協奏曲のライブ・パフォーマンス。バックはアバドとベルリンという鉄壁の布陣で録音されている。この曲もかなりの演奏を聴いたせいで、曲自体もかなり身体に馴染んできたような気がするが、はてさて、日本が誇る世界的なヴァイオリニストの演奏はどんなものだろうか....?と、最初に収録されたチャイコの協奏曲の方はすっとばして、さっそく聴いてみた。

 演奏の方は一聴してかなり早めで実にあっさりとした印象だ。やはり日本人なせいなのか、全体に淡彩、細やかな美しさがあり、濃厚さとかアクといった形容とは対象的な演奏という感じがする。身も蓋もないいい方をすると、サラ・チャンの優等生的な破綻のなさに、ムローヴァのような女性らしい角のとれたしなやかさをプレンドしたような感じだろうか....。
 奇数楽章については、あまり深刻になったり、瞑想に深く沈み込んだりしない、いわば文学性を排除したような演奏で、ヴァイオリンという楽器の持つしなやかなで、滑らかさを全面に出したきわめて美しい演奏だと思う、弱音部の美しさなど特筆ものである。
 偶数楽章については、他の若手の演奏同様、このあまりに技巧的な楽章を華麗なるショー・ピースとして、全く危なげなく颯爽と弾ききっている。この演奏は客席のノイズがけっこう聴こえるし、最後には盛大な拍手も聴こえてくるから、文字通りライブ盤なのだろう(おそらくほとんど編集などもしてないのではないだろうか)、それでこの瑕疵のない出来というのだから、全く恐れ入ってしまう。

 ちなみに伴奏のアバドとベルリンだが、なにしろコンビだからして、ほぼ十全に完備した演奏だとは思うのだが、どうもこの時期のアバドとベルリンの演奏って、マーラーなどもそうだったけど、今ひとつこのコンビならでは売りというか、「コレだっ」という決め手に欠くような気がする(木管が妙に浮き上がって聴こえるのは相変わらずアバドらしいのだが)。
 そのせいだろうか、この演奏の場合、五嶋みどりのけっこうあっさり系な演奏に対し、オケの方もほぼそんな線でフォロウに回っているため、オケとソリストの「調和の美」はいいとしても、協奏曲のもうひとつの側面である、闘争的な迫力、ダイナミズムは、どうもひまひとつのように感じた。ここでのオケが例えばロストロが伴奏した時のような馬車馬のようにどでかい音であるとか、ヤンソンスのみたいな現代的なドライブ感でぐいぐい進むような感じなら、彼女のヴァイオリンももっと引き立ったかと思うのだが....。
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/ヴェンゲーロフ,ロストロポーヴィチ&LSO

2009年03月01日 21時20分55秒 | クラシック(20世紀~)
 まだまだ続く、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番だが、こちらはマキシム・ヴェンゲーロフのヴァイオリンにロストロポーヴィッチ指揮のロンドン響がバックに陣取っての演奏である。私はこのアルバムを水曜にiTunesショップでダウンロードして購入したため、よく分からないのだが、なんでも1994年のイギリスでレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞したものらしいので、有名なアルバムなのかもしれない。ヴェンゲーロフは74年生まれだから、そうなると、当時はまだ20歳だったはずで、先のバティアシュヴィリ、チャン、ハーンなどより、録音の時点では若かったことになるが、20歳でここまでというべきなのか、はたまた20歳だから出来たという方が正解なのかよくわからないけれど、とにかくこの演奏も凄まじいテクニックでこの曲を完璧にねじ伏せている。

 タイプとしては、ピアノでいえばリヒテルとかギレリスとかを思い起こさせるような、鋼鉄のように硬質な響き、完璧のコントールされたコンピュータの如きテクニック、エッジの切り立ったシャープさ、そして豪快なパワー感を持っているだ。聴いていて、なんだか「ソ連の秘密兵器」みたいな古臭い言葉を思い出してしまった(笑)。まぁ、グルジア出身のバティアシュヴィリもそういうところがあるけれど、彼女がもっていた屈託のなさ、オプティミズムのようなものあまりなく、まぁ、男だとせいもあるだろうけれど、もっと鋭角的というか、よりシリアスに一音一音に切り込んでいくようなシャープさが特徴なように思う。
 静かだが絶望感だの苦悩が渦巻く奇数楽章では、とても20歳とは思えない深刻な表情を見せつつも、この曲の持つモダンな現代性のようなものを前面に出した、いく分アブストラクトな演奏をしているように感じた。また動的な奇数楽章でも、ショスタコーヴィチらしい諧謔的なところ、屈折した感情、複雑に絡み合った音楽的要素を白日の下にさらしたような演奏で、ヴァイオリンのテクニックはこれまで聴いたものの中では、多分、一二を争うといってもいい、エグいとしかいいようがない凄みのあるもので、どこを切っても間然とするところがない。

 という訳でこれまたパーフェクトな仕上がりなのだが(この形容ばっか-笑)、この演奏の場合、特筆すべきはロストロの指揮だろうか。オケこそロンドン響ではあるものの、ソリストと指揮はロシア人であり、いわば「おらが国な音楽」な訳で、ことにロストロは作曲家自身とも親交があったほどだから、ソリスト共々本場物といいたいようなところがあるのではないかと思う。とにかくグラマスというか、馬鹿でかい粗野な音のオーケストラが轟音を鳴らし高速駆動しているような風情は(ロンドン響とは思えない重量級な響きがするし)、いかにもショスタを聴いているような充実感あって、やはり本場物は違うと思わせる。
 ちなみにこのアルバムには、ヴァイオリン協奏曲の2番も収録されていて、そちらも先日車の中で一聴してみたのだが、大筋では1番で似たような感じだが、1番に比べると、透明感のようなものが増した仕上がりな反面、ちと盛り上がりに欠けるような気がした。まぁ、これもあとでゆっくりと聴いてみたい。
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/ムローヴァ、プレヴィン&RPO

2009年02月28日 23時31分20秒 | クラシック(20世紀~)
 お次はムローヴァ、なんだか女流ばかり続いているが(笑)、現在生きているカタログには実に女流による同曲の演奏が多い。段々と分かってきたのだが、オイストラフだの、コーガンだのの演奏がかつてのスタンダートとして名を馳せていたらしく、こちらも注文してあるのだが、今は注文したもので早く届いたものから、どんどん聴いているところだ。ムローヴァといえば、かつてソ連から亡命した美人女性ヴァイオリニストとして、以前から有名で、そのエレガントな容姿は私もよく覚えていたが、演奏を聴くのはもちろん初めてである。なにせソ連から亡命などという経歴の持ち主だから、年齢的には先の3名よりは先輩に当たるだろうが、先ほど調べてみたところ、なんと私と同い年(!)だった。容姿端麗なことから、30代後半くらいに思っていたが、そうなると先輩どころではなくて、大先輩である(笑)。この演奏はそんな彼女がプレヴィンとロイヤル・フィルのバックを得て、約10年前(1998年)に録音したものだ。

 演奏だが、同じロシア系の人ということで、未だCDのないバティアシュベリ的なソ連的な正確無比さと豪快さがハイブリッドしたヴァイオリンみたいなものを漠然と期待していたのだけれど、聴いてみると、まぁ、そういうところがないでもないが、先行して聴いた3人の後輩達とはちょっと違った演奏のように感じた。この演奏はムローヴァが30代後半の頃のものであり、40ちょい前といえばクラシックでも、そろそろ自分の個性と芸術との接点をきちんと確立する年代であり、ここで展開される演奏はそういう意味で、先の3人より一段と風格があり、優れて音楽的な演奏であるように思えた。例えば、それは瞑想的なムードや打ち砕かれた悲しみのようなものが充満する奇数楽章の味わい深さのようなものによく現れている。構造だの、文学性だのをあれこれ頭でっかちに追求するのではなく、まずこれがロシア音楽であることを素直に感じさせる演奏とでもいったらいいか。第3楽章のパッサカリアなど、これまで聴いた演奏の中では一番自然にこの楽章に内包する哀感をストレートに表出しているように思えた。先行する3人の演奏ではひたすら緊張感がみなぎっていたカデンツァもここでは緊張感プラス優美ともいえる表情を見せているのが素晴らしい。好意的に聴けばありがちなテクニック大会のもうひとつ上の段階にある音楽的表現といえるかもしれない。

 一方、ダイナミックな偶数楽章の方は、機械のように正確に、あたかもショーピースのように弾き切ってしまう後輩たちに比べると、いささかおっとりしている。ムローヴァという人もきっとテクニック的にはかなり凄まじいものがあるのだろうけれど、めまぐるしい最終楽章なども適宜レガートをつかって全般的滑らかに演奏しているせいか、凄いテクニックを次々に披露しつつ、表向き凄みを感じさせないのは、実はこれこそ本当に「凄い」ことなのかもしれない。ついでにいえば、この人はロックでいうやや後ノリ的感覚があるように思うし、前述のレガートをはじめとして女性らしい官能を滲ませるところが多々あって、男の私はそういう方に耳を奪われてしまったりする。
 まぁ、このあたりバックを務めるプレヴィンという指揮者が、どちらといえばシャープさを前面に出すタイプとは対照的なおっとり系であるのも影響しているのかもしれない。全般にリズムの角をほんの少し丸めて、スムースに流れていくようなところは、ムローヴァの個性とマッチしているのだろうが、その分この曲のシャープさ、現代性を多少後退させているともいえるかもしれない。

 という訳で、この演奏、先行する3人と比べるとやはり格がひとつ上という感じがするし、妙に突出したところも、これといった欠点もない、ある種スタンダード主張しうるオーソドックスな良さというが美点だと思う。ただし、格上だからといって全てが良いかといえば、この曲のはちゃめちゃに動的な面、もっといえば曲芸的なところにも魅力を感じている当方としては、これで全てことたりるかといえば、そうでもないのが切ないところだ。いずれにしても百花繚乱、どれかひとつなどという必要はない、聴き比べは本当に楽しい。
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/ハーン、ヤノフスキ&オスロPO (SACD)

2009年02月27日 23時19分24秒 | クラシック(20世紀~)
 さて、ヒラリー・ハーンのショスタコーヴィチ、ヴァイオリン協奏曲第1番である。ヒラリー・ハーンといえば、よく知らないけれど、若手の女流ヴァイオリニストの中では昨今一番人気のあるではないか。前回も書いたけれど、私はソロ・ヴァイオリンが苦手なクチだったので、若手でルックス的にも華のある話題の女流が出てきたところで、ほとんど関心がなかったのだが、この人はやはりメディアへの露出度が群を抜いていたのか、さすがの私も知っていたくらいだ(ちなみにサラ・チャンは全く知らなかった)。それにしても、バティアシュベリ、チャンといい、この人といい、今の若手はこういう高度な技巧を要するに違いない楽曲を軽々と弾いてしまうのは驚く。私はつい先日この曲を知ったばかりだから、たいしたことはわからないものの、おそらくこの曲は四半世紀前は恐るべき難曲だったに違いなく、そういうものをデビューからほどなく取り上げるというのは、テクニックという超えるべき壁をやすやすと克服してしまった今時なヴィルトゥーゾ達にとっては、格好の履修課題になってしまっているのではないかとすら思う。

 で、ヒラリー・ハーン(アメリカの人らしい)、蝋人形みたいな華奢で可愛らしいルックスなのだがら、ジャケの写真からしてアイドル的に売り出された人なのだろうと思っていたら大違い(笑)。唖然とするほどに正確無比、まるで精密機械のような演奏なのは当たり前という感じで、その上に多分、独特といってもいいのだろう、温度感の低い怜悧な歌い回しに、スポーティーなドライブ感まで持ち合わせて、もうアーティストとして立派に自己主張しているのだから、恐れ入ってしまう。第1楽章の瞑想的な雰囲気や第3楽章の哀感など、ことさら声を荒立てる訳でもなく、かなり冷静なタッチで歌い込んでいる印象だが、音楽的な充実感があって聴き応え十分である。
 また、動きの速い複雑なパッセージが次々に登場する偶数楽章は、まさにしく一部の隙もない正確無比さと高速回転する精密機械みたいなドライブ感で乗り切っていて素晴らしい。この人の良さというのは、ハメをはずだとか、暴走するとかいう言葉とはほとんど無縁な端正があるものの、なにか不思議なドライブ感があって、それが実に耳に心地よいと思う。最終楽章のホットな展開など、めくるめくテクニックを駆使しつつ、どことなくクールなのはそういった特徴がよくあらわれている。また、カデンツァの次第に高まっていくテンションの表現も、流れを断ち切らず実になめらかに上昇していく感じでその構成力は見事なものである。

 という訳で、ヒラリー・ハーンの演奏、実に素晴らしい。先日聴いたサラ・チャンの演奏もそれはもう見事なものだったし、ショスタコといえば、必ず取り沙汰される屈折感だの、複雑に表現された感情の吐露のような表現となると、そのあたりすら読み切っているという感じのサラ・チャンはほとんど完璧と呼ぶに相応しい演奏だったように思うのだけれど、あまりに完全無欠な感じがして、いまひとつおもしろみがないようにも感じてしまう。また、録音のせいなのか、なんだかヴァイオリンが鳴りきっていないようなもどかしさも感じないでもないの比べると、ハーンの方はまずピーンと張った抜けのいいヴァイオリンの音色自体に感覚的な心地良さがあるのがいい(ちなみにヤノフスキ&オスロ・フィルのバックも好演、ただし、この点だけをとりあげると、チャンの方のバックは当代一のラトル&ベルリンだから大分ポイントが高いかな)。
 という訳で、ハーンの演奏なかなか気に入りました。ほんとは一番聴きたいのは、もっとヴァイオリンが鳴りきり、豪快かつ奔放に演奏したバティアシュベリなんだけど、彼女のショスタコはまだCDないんだよなぁ....。
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/バティアシュヴィリ、ジンマン&N響

2009年02月26日 23時15分45秒 | クラシック(20世紀~)
 スゲー、凄すぎる....ショスタコのヴァイオリン協奏曲第1番が、かくも素晴らしい名曲だったとは、3日ほど前に私は録画してあった第1637回N響定期公演を何気なく拾い読みならぬ拾い観をしていたのだが、デビッド・ジンマン指揮、ソリスト、リサ・バティアシュヴィリによる演奏を聴いて、「なんだ、なんだ、この曲は!」と目をむいたのだった。ただ、その日は夜も遅かったので、翌日、仕事から帰って、今度は最初からじっくりと観てみたのだが、それはもう冒頭から興奮状態で、すっかりこの曲に魅了されてしまったのであった。もともと私はソロ・ヴァイオリンというが苦手で、ヴァイオリン協奏曲もせいぜいブラームスとベルクを除けば、ほとんど楽しめたためしがないのだが、この曲はそういう観念を吹き飛ばすほどの興奮を感じた。
 だいたい私の音楽的な感性は至って鈍感な方なので、ことにクラシックなどともなれば、一聴して魅了されるなどということは、ほとんど皆無、あったとすればほとんど僥倖に等しい出来事なのだが、今回実に久々にそうしたわくわくするような感覚を味わったといえる。個人的にはまさに何年に一度のイベントである。

 ざっくりと各楽章をさらってみたい。まず第一楽章では私の大好きなバルトークの「弦チェレ」と気分的に共通するような沈痛だが思索的で、なにやら深く沈み込んでいくような瞑想的な味わいに引き込まれ、続くスケルツォである第二楽章ではどう見ても、どう聴いても(笑)、やたらと難易度の高そうなヴァイオリンのフレーズが、ショスタコらしい諧謔的でぐるぐる回るようなめまぐるしさの中にこれでもかというほどに展開されていて、ある種スポーツ的な爽快感とともに最近あまり感じたことのない音楽的な興奮を感じた。
 また、第三楽章はパッサカリアで重厚な雰囲気の中で進んでいくが、凄いのはこれと切れ目なしに進む長大なカデンツァで、理知的な怜悧なムードを保ちつつ次第に高調していく展開が文句なく素晴らしい。私はヴァイオリンの奏法のことなどさっぱりわからないが、このカデンツァはおそらく古今のあらゆる難易度の高い奏法が駆使されているような感じであり、名技性という点でもある種突き抜けた凄みを感じさせる。
 最終楽章は第二楽章のムードに戻って、華やいだムードの中でソロもオケもそのテンションが最高潮に達する賑々しい楽章だが、ここでもヴァイオリン・ソロが天馬空を行く的な奔放さで暴れまくって壮絶な展開となり、聴いているこちらの興奮状態もすごいことなってしまう。まさに「スゲー、スゲー」の連発なのだ。

 なんだが、あまりに興奮してほとんど訳の分からない文章になっているが(笑)、とにかくそのくらい凄かったということである。「なんだ、ショスタコのヴァイオリン協奏曲の一番なんざ、昔から有名な曲じゃん」といわれるかもしれないが、ショスタコに関しては交響曲の方を何曲かかじって、そのあまりにシニカルな味わいに何度も玉砕してきたところなので、個人的にはまさかショスタコのカタログ中、よりによってヴァイオリン協奏曲がこんなになっているとは思いもしなかったといったところなのである。
 ちなみに私が観た演奏だが、リサ・バティアシュヴィリというロシア系(?)の女流ヴァイオリニストの魅力も大きかったと思う。すっくと伸びた長身の体をダイナミックに使い、技術的には最高難度に違いないこの曲をこともなげに(汗一つかかない-笑)ねじ伏せていく様は壮観で、ヴィジュアル的にもいうことなしのものがあった。また伴奏がジンマンとN響というどちらかといわずともロシア風味とはほとんど対極にあるような淡彩なサウンドだったのも、彼女の特性をいやおうなく際だたせていたように思う。

 ちなみに掲載したジャケはリサ・バティアシュヴィリではなくて、サラ・チャンの同曲のものである。翌日、ショップに彼女の演奏がないものかと探してみたのだが、どうもバティアシュヴィリまだそれほど大スターでもないらしく、めぼしいものがこれくらいしかなかったので、とりあえずこれを購入して昨日今日と聞いているところである。ちなみにこの演奏だが、チャンのヴァイオリンは美音で繊細、淡麗ないかにも女性らしい趣なのはありがちとはいえ、とにかくテクニックが恐ろしいくらいに完璧で、ラトルとベルリンの共々、水も漏らさぬパーフェクトな演奏といったところで、こちらも十分に楽しんでいるところなのだが、やはりバティアシュヴィリの演奏から感じた、パワーだとか推進力みたいなものはイマイチといったところか。
 では、ここまで書いたところで、今さっき届いていたばかりのヒラリー・ハーンの同曲を次に聴いてみることするか。はてさて、こちらはどんなもんだろう?。
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ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート

2009年02月23日 01時58分48秒 | クラシック(20世紀~)
 NHKBS2のクラシック ロイヤル シートという番組で先月放映されたもので、ラトルとベルリンが2008年5月1日にモスクワ音楽院の大ホール行った演奏会を収録したものである。NHKのBSでは先日も書いたとおり、N響関連の他にも、「ハイビジョン クラシック館」だとか「ハイビジョン・ウイークエンド・シアター」では、こういうプログラムをけっこう当たり前のよう放映されていて、番組表を見ていると、ザルツブルグ音楽祭のオープニングだとか、ウェルザー・メストとクリーブランドのブルックナーとか、観逃せないプログラムが目白押しだ。生のコンサートには縁遠い私のような人間にはありがたいことこの上ない。

 さて、今回観たラトルとベルリンの演奏会だが、一見してベルリンが様変わりしているに驚いた。なにしろベルリンといえば、ラトルの前のアバドはもちろんのこと、カラヤンが居たころだってろくに映像を観たことないのだ。だが、それにしても久しぶりに観るベルリンはなんと女性メンバーが多く、メンバーが若返っていることだろう(ちなみにコンマスの安永さんは現在ですが....)、かつてカラヤン&ベルリン・コンビ末期の頃、両者の関係を決定的に険悪化したザビーネ・マイヤーの事件など思い出すに、なんだか歳月の流れを感ぜずにはいられない。そうかあれはもう20年くらい前の出来事になってしまったのか....。いやはや、自分がもうすぐ50歳になるハズである。ちなみにラトルは私より4歳上になるから、彼ももう50代中盤になる訳だけど、クラシックの世界では50代中盤くらいだと、まだまだ若造だから、はつらつとしているラトルを観ていると、もうすぐやってくる50歳という年齢になんだか複雑なものを感じたりする(笑)。

 さて、プログラムだが、 ストラヴィンスキーの「三楽章の交響曲」、 ブルッフのバイオリン協奏曲第1番、そしてベートーベンの交響曲第7番の三曲だが、個人的にはなんといっても「三楽章の交響曲」が楽しめた。ストラヴィンスキーのかの曲といえば、一般的には彼の新古典期の掉尾を飾る作品ということになると思うのだが、両端楽章のリズミックでダイナミックな動きなどからして、まさにラトル&ベルリンのコンビにうってつけであり、あまりこの曲に馴染みのない私でもけっこうひきこまれた。なにしろ、リズムが凄い。ラトルの若さがものをいっているのだろう。なんだがロックを聴いているみたいな、立ったリズムとそのスウィング感ともドライブ感ともいえないようなノリが気持ちよく、まさにビシバシ決めていると感じで楽しめたのだ。それは、「ひょっとすると「春祭」に続くストラヴィンスキーの人気曲候補はこれなんじゃないの?」思わせるほどに、痛快なものであった。
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