UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

八月や六日九日十五日(その2):オッペンハイマーの顔は青ざめていた・・・

2020-08-08 00:43:36 | 日記
前回の日記で広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイの搭乗員たちの、投下された瞬間についての言葉を紹介しました。

(前回の日記を書いたあとで、8月5日付けの西日本新聞に、エノラ・ゲイの副操縦士であった人物と会ったことがある日本人被爆者の話が報じられていました。前回の日記の最後に補足しておきましたのでよろしければご覧になってください)

1998年に亡くなった作家の堀田善衛氏は広島への原爆投下を材料にした優れた小説、「審判」(集英社文庫、上下巻、1979)と題された作品を著しています。原爆を投下したエノㇻ・ゲイに同行した気象観測機のパイロットであった人物が戦後米国で知り合った日本の学者を頼って東京にやってきて、やがて広島へと向かうという内容の小説です。堀田氏の代表作のひとつとも言える力作です。

この堀田氏、あるエッセーで、マンハッタン計画の名で知られる原発開発計画の中心人物であった物理学者ロバート・オッペンハイマーと会ったときのことをごく簡単に記しています。どのような経緯でオッペンハイマーに会うことになったのかは記されてないのですが、戦後日本にやってきたオッペンハイマーと会って話を交わす機会のあったのでせう。

そのときの様子について、GGIの頼りない記憶によれば、堀田氏はおおよそ次のようなことを書いていました。

《・・・・・私はオッペンハイマーに言った。「naturellement(当然)、あなたは広島へ行くべきだ」。私も緊張していたのであろう。英語でnaturallyというべきところが思わずフランス語になってしまっていた。オッペンハイマーの顔は青ざめていた。そしておそらく私の顔もまた、彼と同じぐらい青ざめていたことであろう・・・・》

おそらく話の最後に堀田氏は意を決してこの言葉を発したのではないかと思います。どうしてもオッペンハイマーにはっきりと伝えなければ彼と会った意味がない・・・

この言葉は原爆を投下したことの責任、米国の責任を問うものであったと言ってもいいのではないかとGGIは思います。堀田氏は原爆投下という米国の戦争責任を、一番の当事者である原爆開発の中心人物に対して、「原爆の父」と言われた人物に対して、直接問うたのです。そしてオッペンハイマーは堀田氏の言葉の重さを覚って蒼ざめたのでありませう。

GGIは、日本の一市民として、堀田善衛氏の明晰な知性と勇気に心から敬意を表します

堀田氏がオッペンハイマーと会ったのはいつ頃のことなの定かではないのですが、たとえば京都新聞の《日曜「天眼」》という欄で、宇宙物理学者の佐藤文隆氏が2015年8月30日付けの「オッペンハイマーという選択」と題した一文のなかでは以下のように記しています。

《「60年安保」直後の9月にオッペンハイマーは日米協会の招待で訪日し、京大基礎物理学研究所でも講演しているが、被爆地には行かなかった。すでに放射線障害が重篤化した風貌で、七年後、62才で亡くなった。》

オッペンハイマーは戦後、「科学者(物理学者)は罪を知った」、「原子力は生と死の両面を持った神である」、「われは死なり、すべてを破壊する者なり」(1945年7月16日にニューメキシコで行われた人類初の核実験で、初めて原発の破壊力的な威力を実際に目にしたオッペンハイマーはヒンドゥー教の詩篇にあるこの言葉を口にしたと伝えられています)など、原発についての言葉を残しています。戦後、彼は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、米原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、水爆などの核兵器に反対するようになったとされています。また、マッカーシーのいわゆる「赤狩り」の餌食になり、晩年は米国の治安当局の監視下に置かれていたと伝えられています

今日の写真はオッペンハイマーの1944年ごろの写真です。よろしればクリックしてご覧ください。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック!
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