TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その96の4 『弘前城』

2010年05月16日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
築城当時の天守は五層構造であったそうですが、現存の写真の天守は、1810年に当時の本丸辰巳櫓を解体新造したものです。



それでも江戸時代に建築され、現存する天守としては東北では唯一であり、小規模とはいえ全国の城郭天守の中でも代表的なものといってよいでしょう。



この城は1600年のはじめに、それまで長い年月津軽地方を支配してきた、南部氏の勢力を排除し、津軽地方の統一を成し遂げた津軽藩祖大浦為信の遺徳を継いだ二代目藩主津軽信牧によって創建されました。



以来廃藩置県まで津軽藩の政所でした。
石高はわずか5万石でしたが、その城は30万石に匹敵するといわれたそうです。



本丸の奥から天守を遠くに臨みます。
本丸の桜は3分咲き程度でした。



本丸から北の郭に渡る『鷹丘橋』です。



本丸から『北の郭』眺めます。



弘前城は、弘前公園として明治28年(1895年)に市民に開放されて以来、桜の名所として全国にその名を知られています。



北の郭にある武徳殿です。



続く..........................................................................。

海外の都市の紹介、 その75の6 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月15日 | 海外の都市の紹介
キューケンホフ公園、最後のアップです。



公園内の木々は、まだ緑には程遠い状態ですが、これから初夏にかけて公園の景色も大きく変わるのでしょう。



一艘だけ停められていたボートも、ちょっとしたアクセントになります。



オランダ人に言わせると、外国人観光客とオランダの高齢者が集うところで、オランダの若い人は行かないそうです。(笑)
まあ、日本でも同じでしょうけど、カメラや写真好きにはたまらないスポットです。



チューリップ畑が色彩々の花で埋め尽くされると、見事なパッチワークのような美しさを見せてくれます。



キューケンホフ公園の規模は年々拡大され、現在は日比谷公園の約2倍の広さにあたる70エーカー(28ヘクタール)もありますので、全部観て回るには1日がかりの散歩になるでしょう。
公園内のいたるところで、数々のイベントも計画され、レストランやおみやげ店もあるので、1日中公園内にいても飽きないでしょう。



開花時期の異なるものを配置したり、開花時期をずらせるように植え付けたりしているので、期間中ならそれなりに楽しめるようです。



黒いチューリップはキューケンホフ公園では見かけなかったように思います。
最後の写真は横浜公園のものです。



トッポパパも、これが最後のキューケンホフ公園訪問になると思ったので、長い掲載になりました。
それではキューケンホフ公園より

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その96の3 『弘前城』

2010年05月14日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
弘前城築城は、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって1603年に計画され、二代藩主信枚が1610年に着手、翌年完成しました。



以降廃藩に至るまで260年間津軽藩政の中心になります。



江戸時代に入ってから築城されたため、実戦には巻き込まれませんでした。
幕末にはいち早く奥羽越列藩同盟から離脱し、新政府軍に加わったため、明治維新後も破却を免れました。



下乗橋を渡り、本丸へ向かいます。



弘前城は別名、鷹岡城、高岡城とも言われます。



弘前城の大枝垂れ桜です。
まだ開花には早かったようです。



満開になるとどうなるのか紹介したいので、拝借してきた写真です。



弘前公園は南北1000m、東西600mの広大な敷地に日本最古のソメイヨシノ
をはじめとする50余種、約2600本の桜が植えられています。



二の丸の枝垂れ桜越しに天守を臨みます。



この天守は現存12天守の一つに数えられている、小ぶりながらも風格のある天守です。
築城から約400年を経た現在も、天守、櫓、城門、三重の水濠等の築城形態の全貌を遺す城跡として全国でも類例が少ないそうです。



続く.........................................................................。

海外の都市の紹介、 その75の5 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月13日 | 海外の都市の紹介
トッポ、『今回は珍しい?花を撮ってきたそうです。』



公園を歩いていると、いろいろな花があるようです。



花の名前はまるでわかりませんので、分かる方は教えてください。



どれも大きな花を咲かせていて、人気があるようです。



こちらは横浜公園で、久しぶりにママに抱かれたトッポです。



これらもチューリップの種類なのでしょうかね。



品種改良を重ねて、カラフルな色合いになったのでしょう。



この花はシンプルですが、ちょっと気に入りました。



これは日本でも見かけたことがあるようです。



続く..........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その96の2 『弘前城』

2010年05月12日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
弘前上辰巳櫓を内堀越しに眺めます。
辰巳櫓は、城郭に迫る敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっています。



内堀の外側の三の丸は、内堀沿いに桜の開花が早いようです。



1、2層は4間4方の同面積であるが、3層目を小さくし、屋根は入母屋にしています。
この櫓で、藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になったそうです。
弘前城辰巳櫓は1610年に建てられたもので3層3階、入母屋、銅板葺き、堀側には鉄砲狭間が設けられています。
弘前城辰巳櫓は国指定重要文化財に指定されています。



弘前城は、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭からなる面積約49.2haの平山城で、築城から約400年を経た現在も、天守、櫓、城門、三重の水濠等の築城形態の全貌を遺す城跡として今日保存されているのは全国でも類例が少なく、極めて重要視されています。



赤い橋が『杉の大橋』です。
この橋を渡ると二の丸に入ります。
橋は内堀に架かっており、堀沿いの桜が見事です。



杉の大橋をわたると左に、『南内門』があります。



『南内門』です。
南内門も1610年に建てられたもので2の丸南側の枡形に位置しています。
櫓門形式の城門で、入母屋、本瓦葺き(鯱付き)、1層目正面は厚い板と太い柱で構成され、覗き窓や通用門が設けられ乳金物や八双など強度のある金物を使用しています。
2層目は櫓と同様な機能があり正面には鉄砲狭間や物見があり実戦になると兵士が詰める場所になっています。
弘前城南内門も国指定重要文化財に指定されています。



『下乗橋』五指に天主を望みます。
下乗橋は二の丸から本丸に渡る橋で、その昔、本丸に立ち入る藩士がここで馬を下りて入城することから名付けられたと言われています。



案内板によると、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から降りるように定められていたそうです。
ここからの写真が、天主と桜が調和した写真のようです。
五分咲きだから天守も写真に収めることができました。



続く.....................................................................。

海外の都市の紹介、 その75の4 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月11日 | 海外の都市の紹介
トッポ、『横浜公園の紹介はしないの?』
トッポパパ、『横浜公園は、昨年紹介したから、今年はパス!』



今回は、チューリップ中心ではなく、キューケンホフ公園全体の雰囲気を紹介します。



昔は狩場だと聞いているので、チューリップ花壇が作られる前は、小動物が顔を出しそうな雰囲気です。
ウサギは何匹か目にしました。



このアートは昔の貴婦人たちの散歩している様子か、公園でダンスに興じる人たちののでしょうか?



トッポ、『横浜公園は、すぐ後ろがビル街だね!』



延々と続く、チューリップ花壇です。



公園の中心に大きな池があります。



対岸の景色も、チューリップの季節はカラフルですね。



昔は馬に乗って公園を散歩したのでしょう。
白馬の銅像が観えます。



続く.........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その96の1 『弘前城』

2010年05月10日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
津軽の古都であり津軽10万石の城下町、弘前に到着しました。
途中、厚い雲が空を覆い、雨風も強く、夜桜を予定していたのですが、雨が強くなると写真撮影は半分諦めかけていました。
途中、遠方に明かりがさしていたので晴れ男、トッポパパの強運を信じることにしました。



この時期は駐車場に停めるのは難しいから、まずホテルに直行して傘を持って弘前公園へ行こうという友人を制して、雨模様だから駐車場も空いていると強引に直行しました。
小雨の中、追手門のすぐ前の駐車場に停めることができ、公園に向かいました。
なんと、駐車場を出ると奇跡的に雨がやみ、急遽青空が広がったのです。



しかし空模様から、この天気は続かないと思い、写真は30分勝負と信じてカメラ片手に公園へ向かいます。
追手門前の外堀の景色です。



弘前城の『追手門』です。
追手門(大手門)は弘前城の南側にあたり、土塁構造の枡形に門や塀が現存しています。



追手門は1610年に建てられたもので三の丸の枡形に位置しています。
櫓門形式の城門で、入母屋、本瓦葺き(鯱付き)、1層目正面は厚い板と太い柱で構成され、覗き窓や通用門が設けられ乳金物や八双など強度のある金物を使用しています。
2層目は櫓と同様な機能があり正面には鉄砲狭間や物見があり実戦になると兵士が詰める場所になっています。
弘前城追手門は国指定重要文化財に指定されています。



この内部が『三の丸』になります。
直前まで雨が降っていたので、みなさん傘を持っています。



築城400年祭ののぼりが掲げられています。



内壕沿いに、桜がみえてきました。
今年は桜の開花が遅れたようで、まだ5分咲き程度だと思われます。
個人的には満開の桜よりも、この程度のほうが背景が撮りやすいので好きですね。



桜越しに『辰巳櫓』が臨めます。
この景色もよく紹介されているようです。



続く........................................................................。

海外の都市の紹介、 その75の3 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月09日 | 海外の都市の紹介
トッポ、『チューリップばかりじゃ、飽きられるよ!』
トッポパパ、『今日は、違う花の写真を中心に紹介します。』



トッポパパは花の名前はわからないので、今日はネット情報でのキューケンホフ公園の歴史を紹介します。



キューケンホフ公園の敷地は15世紀の頃は狩場となっていました。
当時は、ヤコバ・ファン・バイエルン城の領地の一部で、お城のキッチンガーデンではハーブが採取され、調理に使われていました。



1857年頃、ゾッハーというランドスケープデザイナーが庭園の設計を任されました。
英国風のランドスケープに着目したゾッハーは現在のキューケンホフ公園の原型を作り上げました。



キューケンホフのあるリッセの町の市長、球根花の生産業者と輸出業者が発起人となり、オランダの球根のショールームとして、屋外の花の展示会が1949年に初めて開催されました。その後、毎年開催されるようになり、オランダで一番人気のある観光地として、既に4500万人以上の来場者を迎えています。



トッポ、『ところで、日本にはいつ頃チューリップが入ってきたの?』



日本でチューリップの歴史が始まったのは、l863年の頃だと言われています。
当時、日本では薬草のウコンの仲間と勘違いされていたので「鬱金香(うこんこう)」と名付けられました。



日本もチューリップが入ってきたばかりのときは、庶民の手には届かず、ヨーロッパと同じような状況だったようです。
チューリップの切花は1本5銭という高い値段で売れたそうです。
当時の1日の労働賃金はl0銭~20銭でしたので、いかに高価だったかわかります。



そして、江戸の末期になると、チューリップ栽培が少しずつ始まりました。こうして、明治40年頃には本格的に栽培されていったのです。
米どころとして有名な新潟や富山でもお米の裏作としてチューリップに着目し、他の地域に比べて、より熱心に栽培していたことから、生産地として知られるようになりました。
現在は、新潟や富山以外に、鳥取などでも栽培が盛んに行われています。

チューリップの生産地は、世界的にはオランダが非常に有名で、各国へ輸出されています。日本のホームセンターや園芸品店で販売されている球根は、ほとんどがオランダからの輸入のようです。



続く...........................................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その95の3 『秋田、真山となまはげ』

2010年05月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
男鹿真山伝承館です。
男鹿真山伝承館では、大晦日の晩に男鹿半島全域で行われる『なまはげ』行事をいつでも体験することができます。
男鹿真山伝承館は、男鹿地方の典型的な曲家(まがりや)民家です。



ネット情報です。
『なまはげ伝説の代表的なものは三つあり、漢の武帝が5匹の鬼を従えてやってきた漢の武帝説や、漢人、ロシア人、スペイン人などの異邦人漂流説、真山・本山の修験者説があります。』



『三方の海沿いに点在する集落は、漢の武帝説や異邦人漂流説、潟や山麓沿いの集落は修験者説と別れているようです。
遙か海のかなたからやってきた鬼と山から下りてきた鬼とでは、なまはげの面も大きく異なるのも当然のことで、60集落に60種類のなまはげが厳然として存在している事実は、どれが定説かを追求し、一つに統一すべきものではなく、なまはげ文化の多様性こそ尊重すべきなのでしょう。』



伝承館の隣にあるなまはげ館では、元来、『なまはげ』は大晦日にのみ催される民俗行事なので、地元の人以外には中々見ることが出来ませんが、ここでは、なまはげ習俗が体感できます。
トッポパパも早速、挑戦です。



真山地区では古くから伝わっているという角のないお面をかぶり、二匹一組となって家々を練り歩くそうです。
ナマハゲは、むやみやたらに家々に入れるのではなく、『なまはげ』を家に入れる主導権はその家の主人にあるそうです。
「先立(さきだち)」という役目をする者が事前に家の主人になまはげを入れても良いか否かを確認して、先立の合図を確認すると、『なまはげ』に扮する二人の若者がウオー!という奇声と共に乱入します。



真山の『なまはげ』は、その動作一つ一つに昔からのしきたりがあるようです。
まず家に上がりすぐに四股(シコ)を7回踏み、これで初めて家の中を歩き回ることができます。
『ナマケモノの匂いがする』『ナマケモノはいないか!』と、荒荒しい奇声を上げ畳を強く踏みしめながら歩き回り、その家の主人が荒れ狂うなまはげをなだめて丁重にもてなし、『なまはげ』にお膳を添えます。
『なまはげ』は添えられたお膳に座る前に5回シコを踏み、ウオー!ウオー!と唸っているナマハゲに主人は酒肴をすすめます。
主人となまはげとの間で様々な問答が交された後、『なまはげ』は来年も豊作であるよう祈願し、再び立ちあがり3回シコを踏みまた歩き回るそうです。

家に上がってすぐ7回、お膳に着く前に5回、立ち上がる際に3回、『七・五・三』という男鹿真山の『なまはげ』独自のしきたりとのことです。
『なまはげ』はその家を立ち去る前に『来年もまた来るぞ!』と言い残し次の家へ向かいます。
『なまはげ』は、その家の子供達が病気や怪我などせず幸福になれるようシコを踏むのです。
この『なまはげ』の伝承は今でも地域の人々の手によって受け継がれ次の世代へ、また次の世代へと継承されています。



『なまはげ』の勉強をして、外に出るとまた雨が強くなりました。
友人も、トッポパパが目的地に着くと晴れるのを不思議がっています。
予定外の行動で、寒風山から眺望をと考えましたが、この天気では難しそうです。
途中、木がないので変な山だと思いましたが、芝生を保つために毎年春には『山焼き』を行ってその姿を保全しているそうです。



頂上は、風速20mはあるかと思えるほど、立つのが精いっぱいで撮影どころではありませんでした。
迎えてくれたのは、誰もいない頂上展望台近くに立つ、この銅像だけでした。
予定外の到着地は、トッポパパの晴れ男も効かないようです。



寒風山は低い山ですが、海に突き出ているため、標高355mの山頂の回転展望台からは男鹿半島全体はもちろん、東は八郎潟の干拓地、南は鳥海山まで一望できるそうです。



寒さに震えてトイレに向かうと、ここも『なまはげ』でした。



それでは、男鹿半島より

海外の都市の紹介、 その75の2 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月07日 | 海外の都市の紹介
トッポ、『横浜公園よりたくさんの花が咲いているね。』
規模が違いすぎるので比較にならないのでしょう。



チューリップの説明はできないので、チューリップの歴史等をネットで調べましたので掲載します。
キューケンホフ公園は毎年3月中旬~5月中旬にかけて、チューリップやヒヤシンス、水仙など700万株の春の球根花が一面に咲き乱れる、世界的に有名な公園です。



ちなみに『キューケンホフ』とは、オランダ語で『台所の庭』という意味になるそうですが、あまりにも大きな台所の庭ですね。
今年で開園61年になるそうです。



チューリップの歴史ですが、その本格的な歴史は、今のイスタンブールから始まると言われています。
もともとチューリップは中国のチベット、中東から地中海沿岸の地域で咲いていたと考えられています。
チューリップは、それらの地域に移住してきたトルコ民族によって植えられたものと伝えられています。



トッポ、『なんでチューリップって言うの?』

トルコ民族は、ふるさとの花を民族衣装には欠かせないターバンやアクセサリー、生け花などの材料として使っていました。
当時、ちょうどオーストリアの大使としてトルコにいたA・G・ブズベックによって、初めてチューリップがヨーロッパに持ち込まれます。
彼は1554年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)周辺でチューリップを見かけて、通訳に花の名前を聞いたところ、通訳がチューリパム(ターバンの意味)と聞き違えてしまいました。
以来、その花は『チューリップ』と呼ばれるようになったというわけです



ヨーロッパにチューリップが持ち込まれると、あっという間に注目の的となりました。
当時のオランダやドイツの人々はチューリップを“高貴の花”と考えていたため、上流階級の人々にしか普及していませんでした。
上流階級の人々は、普段使う陶器やタイル壁画がすべてチューリップの模様で埋めつくしていたんだそうです。



その当時、まだまだ珍しかったチューリップは、一般庶民が気軽に楽しめる花ではありませんでしたが、しばらくしてオランダを中心に一大ブームが巻き起こります。



17世紀に入り、チューリップの大ブームが起こります。



オランダやドイツの商人たちは、競い合いながら球根を高値で取引をはじめ、多くの人がチューリップに釘付けになっていたこの時期は、『チューリップ狂時代』または『チューリップ熱』と呼ばれました。



続く.........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その95の2 『秋田、真山となまはげ』

2010年05月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
拝殿の左奥にある『薬師堂』です。
周囲には秋田杉が茂り、中には薬師如来座像が安置されています。
この拝殿の左手に登山道があり、男鹿三山に上ることができますが、トッポパパ達は時間がないのでここでギブアップです。



『神楽殿』です。
屋根には『なまはげ』を形取った赤・青の鬼瓦が取り付けられています。
殿内には秋田藩4代藩主佐竹義格(よしただ)侯寄進の御神輿が置かれています。



古くから『なまはげ』が有名な所として知られている真山、本山、毛無山は男鹿三山と呼ばれ、古くから山岳信仰の霊場とされています。
神礼所に、手にとって見てくださいと『なまはげ』のお面が置いてありました。



『なまはげ』は男鹿半島の厳しい自然、過酷な労働は、時にくじけそうになることも度々だったそうで、その心を奮い立たせるものが実は奇習『なまはげ』の原点のようです。
トッポパパの『なまはげ』では、あまり効果はないようです。



拝殿を降りて、隣の『なまはげ伝承館』に寄ります。



途中、水芭蕉をみつけました。
清流の中で育った水芭蕉は、とても大きな花をつけていました。



男鹿の『なまはげ』は真山・本山に鎮座する神々の使者とも信じられています。



『なまはげ』は厄災を祓い、豊作・豊漁・吉事をもたらす来訪神として各家では丁重に迎えもてなします。
なかでも真山の『なまはげ』は、古い伝統としきたりを厳粛に受け継いでいるそうで、国の重要無形文化財に指定されています。



続く......................................................................。

海外の都市の紹介、 その75の1 『キューケンホフ公園、PartⅡ』

2010年05月05日 | 海外の都市の紹介
去年もこの時期、日本のお客さんを案内した『キューケンホフ公園』を訪問しました。
昨年はこの公園を出たあたりから、左肩甲骨周辺から左手にかけて激痛が走り、これがOPLLの発症でした。
縁起が悪いから止めようとの気持ちもありましたが、せっかく手術も成功したのだし、もう一度この場所から再スタートもいいのではとの思いもあり、再度の訪問になりました。



トッポ、『それでは、僕がご案内いたします???』
トッポをオランダまで連れて行くのは無理なので、帰国後横浜公園へチューリップを見に行きましたので、その時のトッポのスナップを案内犬として挿入させていただきます。



公園入り口で、今回も民族衣装を身に付けたお嬢さんに迎えていただきました。



今年は寒さが長引いた影響か、少し訪問が早かったようです。



広い公園なので、早咲きのチューリップもたくさんあるでしょうから、頑張って園内をまわってみます。
トッポ、『無理しないでね、歳なんだから!』
そうですね、無理しないでマイペースですね。



普段はけして歩くスピードは早いほうではないトッポパパですが、アメラを持って団体で行動するときは迷惑をかけないで写真を撮りたいため、早歩きになるようです。
これも運動だと思えばいいのでしょうね。



まだまだ蕾のチューリップが多いようです。
もう1週間ほど後が一番見頃なのでしょう。



見方によっては完全に開花するより、このほうがチューリップらしいかもしれません。



こちらもちょっと早いですね。



続く...........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その95の1 『秋田、真山となまはげ』

2010年05月04日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
GW前半の予定は、秋田、青森方面へ出かけました。
29日の早朝、羽田より秋田空港へ向い、レンタカーを借りて男鹿半島へ向かいます。
天気はなんと大荒れで、雨も風も強く最悪の条件でのスタートです。
男鹿半島は秋田県西部にある日本海に突き出た半島です。



当初は男鹿半島の眺望を期待していたのですが、風雨が強いので諦めました。
男鹿半島には真山、本山、毛無山は男鹿三山があり、古くから山岳信仰の霊場とされています。
古くから『なまはげ』が有名な所として知られています。
真山の山麓に、真山神社があります。
晴れ男、トッポパパの運の強さか、ここに到着したら一時的に雨が止んで、薄曇りに変わりました。



真山神社の創建は景行天皇年代に武内宿禰が涌出山(現在の本山、真山)に登り、国家安泰と武運長久を祈願したのが最初とされています。



写真は仁王門です。



仁王門をくぐると、階段が続きます。
雨が止んだので、上ってみることにします。



ここの石段の途中に国重要有形文化財に指定されている丸木船が安置されています。
この丸木舟の原木は、真山や本山の樹齢300年以上の原木をえぐり、岩に当たっても壊れないそうです。
潮や風に流されず、波渡りもよく、転覆の恐れもない頑丈な丸木船なので、日本海の荒海に突き出した岩礁地帯で漁業や運搬に使用されました。
牡鹿半島の風土がから生まれた丸木船ですね。



真山神社拝殿です。



この神社は毎年2月、『なまはげ紫灯祭り』が行われることで有名です。
村内安全・五穀豊穣・豊漁・出稼者安全を祈願し真山に住む鬼神を招き、紫灯護摩の火で焼いた壮大なモチを献ずるそうです。
その後、このモチは氏子・参拝者に配られ、これを食べると病気にならない・災難に遭わないと伝えられています。



ネット情報です。
『古事記と日本書紀によると、朝廷の支配がおよんでいない地方が多くあったので、崇神(すじん)天皇は4人の将軍を各地に派遣した。北陸「道」には大彦命(大毘古命おおびこのみこと)が命ぜられた。大彦命はその地方の人々を帰順させることに成功した。
その後、人皇12代景行天皇25年(95年)武内宿禰が北陸北方諸国の地形や百姓の民情調査を命じられた際に男鹿嶋へて向して湧出山(現在の真山)にこの二柱の神をお祭りし使命が無事達成出来るよう祈願したことから始まったと伝えられる。
人皇と書かれているのは、それ以前が、神代の天皇であったことと区別するためである。』



続く.........................................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その94の6 『柴又公園、帝釈天』

2010年05月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
食事を終えてくつろいでいると、参道に賑やかな笛や太鼓の音が聞こえてきました。



近隣の小学校の鼓笛隊?のパレードが続きます。



下町の情緒あふれる参道に、元気いっぱいの子供たちの笑顔です。



桜祭りの催し物のひとつなのでしょうか、これも楽しいイベントですね。



参道のお店の子供さんたちも参加しているのかも知れません。



最後に帝釈天の駅に立つ、寅さんの銅像へ向かいます。



途中で懐かしい『のしいか』を打っていました。
昔ながらの機械式の道具で造っていましたので、しばらくながめていました。



桜祭りの影響なのか、駅前は人があふれていて銅像の前に立つのは順番待ちです。
あまりいい写真が撮れる状況ではないので、以前の写真を紹介します。



トッポ、『昔、寅さんと一緒に写真撮ったよね!』
2006年12月の記事です。



それでは柴又帝釈天より

海外の都市の紹介、 その74の3 『ザーンセ・スカンス、PartⅡ』

2010年05月02日 | 海外の都市の紹介
近隣の人は、自転車で来るのでしょう。
いかにもオランダという風景です。



クリークを渡る橋も、白の木枠で民家と色調を合わせています。



ここに来ると、童話の世界に出てくる村の中にいるような気がします。



この地方独特の深い緑色と白い縁取りが絵になる伝統的な家屋と風車が移築・保存されているのがザーンセ・スカンスです。



チーズ工房やベーカリー博物館、時計博物館、木靴工場もあり、まるで村全体が屋外博物館のようです。



羊も何匹か飼われています。



羊は観光客に慣れているのか、近くの草をむしるとすぐに柵に寄ってきます。



ここの風車は干拓地の排水用でなく、搾油風車として1676年に建設されたものを見ることができます。



村全体が風車の屋外博物館のようなザーンセ・スカンス風車村でした。



それではザーンセ・スカンスより