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ヴァン・クライバーンは、アメリカのヒーローだった

2009-06-13 | 日記・エッセイ・コラム
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 [xrcd] チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 [xrcd]

 ヴァン・クライバーン国際コンクールで、日本のピアニスト、辻井伸行さんが優勝して話題になっている。

 ヴァン・クライバーンは、アメリカのピアニストだ。23才のとき、ソ連が主催した第一回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した。1958年、冷戦真っ最中のことだ。前年に人類最初の人工衛星打ち上げを成功させたソ連は、自国の文化の優位性を世界に証明しようと、ソ連の威信をかけて開催したコンクールでのことだった。

 クライバーンが、決勝のラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を弾き終わると、スタンディング・オベーションがおき、拍手は、8分ものあいだ鳴りやまなかった。審査員長は、会場にいるソ連の最高権力者、ソ連共産党第一書記、ニキタ・フルシチョフにおうかがいをたてた。

 「やつが、ベストなのか?」  「そうです」  「なら、賞をやれ!」

 この優勝でヴァン・クライバーンは、アメリカの英雄になった。紙吹雪のなか、ニューヨークに凱旋したのだ。いまの時代とは、アメリカとロシアの緊張状態がちがう。ほとんで、交戦寸前といっていい。核兵器の量を争い、スパイたちの血を血で洗う暗闘もすさまじい。ニュースにはならない潜水艦同士の戦闘もあった。すこしあとには、ベルリンの壁がつくられ、アメリカの偵察機U-2が、シベリア上空で撃墜され、カストロ・キューバは、ソ連にとりこまれて、アメリカののど元に核弾頭搭載ミサイルの基地まで建設する騒動だ。

 そんな東西冷戦時代に、アメリカ人の若いピアニストが、モスクワで、ロシアが主催するコンクールで、ロシア人の曲を弾いて、優勝したのだ。大騒ぎになるのは、とうぜんだった。http://www.youtube.com/watch?v=zPRNx9GaplY&NR=1

300pxnasa_tickertape_apollo_1970091   映像は違うが、こんなふうにクライバーンは、アメリカに凱旋した。

 ヴァン・クライバーン チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第一番 http://www.youtube.com/watch?v=f7MAriotZyE

 このヴァン・クライバーンのピアノ、キリル・コンドラシン指揮のRCAビクター発売のLPは、1958年、なんとビルボードのポップアルバム・チャートの№1になり、7週間ナンバー1にとどまっていた。そして、それから10年間、世界でもっとも売れつづけたクラシック・アルバムだったのだ。全米じゃない。全世界でだ。クラシックが、いまよりずっと人々に親しまれていた、ということもある。

 それに、クライバーンは、若く、長身で、ハンサムだった。日本でも人気があった。それは、あとのブーニン・ブームにすこし似ているが、スケールはちがった。ヴァン・クライバーンは、全世界的なスーパースターだった。テクニックもみごとだ。パワフルで、明るく、リズミックで、センチで劇的だった。まさに若いアメリカ人が弾くチャイコフスキーだった。わたしは、大好きだった。

 わたしは、小学生だった。電気屋の叔父さんの部屋で、なんどもなんども、クライバーンの弾くチャイコフスキー・ピアノ協奏曲を聴かせてもらった。叔父さん手製の真空管アンプと、スピーカーで(母の実家は電気屋だから、跡継ぎの叔父さんはアンプの制作などお手のものだった)、聴くクライバーンは、感動だった。なんど聴いても、飽きることはなかった。

 このヴァン・クライバーンの偉業を称えて、1962年に設立されたのが、ヴァン・クライバーン国際コンクールだ。

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 「テキサス人、ロシアを征服」 タイム誌1958年5月19日号の表紙。

 

 1934年生まれのヴァン・クライバーンは、3才のときから母親にピアノのレッスンをうけた。母のリルディア・ビー・オブライアン・クライバーンは、ロシア生まれのピアニストで指揮者のアルツール・フリードハイムの弟子だ。そして、そのフリードハイムは、ハンガリー生まれのピアニストで作曲家、フランツ・リストの弟子なのだ。つまり、ヴァン・クライバーンの母は、リストの孫弟子になるわけだ。

 ヴァン・クライバーンは、17才でジュリアード音楽院に入学する。そこで、ロジーナ・レビーンの教えをうける。

 ロジーナ・レビーンは、ウクライナのキエフ生まれのピアニストで、モスクワ音楽院卒業だ。ピアニストで夫の、ヨゼフ・レビーンと1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、請われてジュリアード音楽院の教授職についた。以来1976年に亡くなるまで、32年のあいだジュリアード音楽院ピアノ科で教えつづけ、数々のミュージシャンを育てた。「スター・ウォーズ」で有名な映画音楽の巨匠、ジョン・ウィリアムズも、わが国のピアニスト、中村紘子さんも、ロジーナ・レビーンの教え子だ。 

 
 アメリカに渡ってから、音楽教育に専念して、自身でパーフォマンスをやることはなかった。だが、なんと75才のとき、再びソリストとしてデビューするのだ。オーケストラとコンチェルトを演奏し、レコーディングもする。ショパンのピアノ協奏曲第一番を、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラで演奏するのは、1963年、ロジーナ・レビーン、82才のときだ。それは、彼女が65年まえ、モスクワ音楽院の学生のときつかった楽譜だった。(モスクワ音楽院をゴールド・メダルを授与されて卒業して、すぐにコンサート・ピアニスト、音楽教育者として、ロシア、ドイツで活躍していた。しかし、ユダヤ人排斥の嵐のなか、アメリカに逃れてきたのだ)。

      ロジーナ・レビーン ショパン・ピアノ協奏曲第一番   http://www.youtube.com/watch?v=ehbNawEMPv8

  ロジーナ・レビーンのドキュメンタリー The Legacy Of Rosina Lhevinne  その予告編 若い中村紘子さんの映像もある http://video.google.com/videoplay?docid=2593434350562687442

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 そろそろアジサイも終わりかな。ここのところいつも、すこし遠まわりして、この通りのアジサイをみていく。

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  ヴァン・クライバーンのジュリアード音楽院での師匠は、ロジーナ・レビーン。その5才年上の夫、ヨゼフ・レビーンは、モスクワ音楽院で、ラフマニノフと同期だった。

 ヴァン・クライバーン ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第二番 http://www.youtube.com/watch?v=lN991X9pI6o&NR=1 

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