フリーアナウンサー 松原敬生の『今日のエッセイ』

思っている事、感じている事などを自由に綴ります。

デジタルとアナログ

2017-06-30 23:57:53 | Weblog
電車に乗ったときの乗客のスマートフォンなどの携帯割合を見ていると、世はまさにデジタル時代だと実感します。生放送をしていると、かつての葉書アクセスからメールアクセスにスッカリと様変わりしたことがわかります。
確かにデジタル技術は現代社会で活用を避けることは出来ません。ただしデジタル技術は途中経過や待つことを否定している技術です。しかしこの地球、いや人々の生活は決してデジタル技術ですべてまかなえるものではありません。つまり人と相対する付き合いは絶対に心が介在します。そう、人間の感性が交流するわけですから、その感性に合うアナログの魂を大切にしなければなりません。付き合いは割りきれない部分が多いのです。デジタルで対応すれば、そこでプツンと繋がりが切れてしまうのです。微妙な感情をお互いが理解することによって、付き合いが深まっていきます。
デジタルはあくまでも道具、そして心のふれ合いはアナログです。

小さなふれ合い

2017-06-29 23:50:06 | Weblog
道を尋ねられました。小さな子供さんをつれたお母さんでした。たまたまわかる場所だったので教えてあげることが出来、ホッとしました。その時、お母さんから「良い人でよかった」と言われ苦笑いしたものです。こんな小さなふれ合いもいまは心配することなのでしょうか。
小さなふれ合いといえば、旅に出る列車の中での座席が隣になった人同士が話をする光景もめっきり減りましたね。旅先でのふれ合いによく見られた「シャッター押しましょうか」と気安く声を掛け合ったのも、今では余り見られません。こうした小さなふれ合いが薄れていくのは寂しいものです。
それに輪をかけているものがあります。そうです。自分を写す「自撮り棒」です。危険だからと禁止のところも増えているのですが、それでも大流行です。こんな道具が増えれば、旅先で写真を撮りあうふれ合いは生まれるわけがありません。こうした小さなふれ合いが日本中が温かい雰囲気を作りだすと思いますがね。

嬉しい言葉

2017-06-28 23:43:28 | Weblog
野球放送のテレビ中継を見ていて、打たれた投手やチャンスで打てなかったバッターに、チームメイトや首脳陣はどんな声を掛けるのかと思って、ベンチの中をしっかり見ています(大抵はCMでゆっくり観察出来ませんが・笑)。まあ推測ですが、ほとんど声を掛けることはないでしょうね。失敗することのほうが多いのが野球ですからね。
ところが最近の子供たちは相手を誉める言葉も余り使っていないようです。誉めるだけでなく、励ましたり、もり立てたり、嬉しい気持ちにさせる言葉の使用頻度も少ないようです。学校の先生にうかがうと、むしろ相手の元気を奪う言葉のほうが目だっているそうです。そういえば大人の世界でも、人を嬉しくさせる言葉は余り身に付いていないような気がしますね。知っていても使っていない「宝の持ち腐れ」状態になっているようです。もっと嬉しい言葉を掛け合う環境にしなければなりません。
サヨナラホームランを打った選手を迎える弾けた喜びを表せる世界だから、失敗しても責める気にはならないのでしょう。

若い頃の苦労

2017-06-27 23:53:23 | Weblog
子供の頃よく聞いた言葉に「若い頃の苦労は買ってでもしろ」がありました。しかし、ここ数十年聞いたことはありません。もはや死語になったのかもしれませんね。
学校は子供たちが集団生活を通して社会性を身に付ける場所でもありました。日本が豊かな国になった今、かつての学校制度が役割を終えて、今やその学校では希薄な人間関係の中で生きているような気がします。それがすぐにキレる現実に繋がっているのかもしれませんね。
さて、この状況を打破する方策としては、なんといっても親や学校だけでなくすべての大人が今、子供たちに正面から向き合うことが必要です。つい、子供の言葉の「うざったい」とか「説教くさい」に反応してしまい、口をつぐんでしまってはなりません。正面というのは言葉のあやですが、親子で本音を引き出す為には横座りで話をするのも一つの方法なのです。もちろん真正面で目をみながら話すのが一番よいのは当然です。

我儘

2017-06-26 23:40:18 | Weblog
先日、無事定年を迎えた後輩と話す機会がありました。彼の話で最初に出てきたのは、なんかイライラするという言葉でした。よく話を聞くと「何かしなくてはならない症候群」に陥っているそうです。それは、退職前には周りから趣味を持って頑張れとか、新しい生き甲斐を見つけろよという助言を貰っていたので、早く何かをと焦ってしまうそうです。一方では退職してしまうと急に社会との接点が狭まり「見放された」感覚になってしまうそうです。
まあ、こうしたことは、一人ではなんともしようがないので家族や本当の友人達が気を使ってあげることですね。つまりその人の居場所を提供してあげるのです。市民グループでも学習の場でも、その人にふさわしい場所などの情報を伝えてあげて下さい。カルチャー教室は女性が多いので圧倒されてしまうことがありますから、ご注意を。そうそう、大学の公開講座に行ってみると男性も多いので入りやすいですね。
まず、イライラ解消は居場所探しからですね。

こだわり

2017-06-25 23:22:22 | Weblog
私がパーソナリティーをつとめる東海ラジオの番組「日曜も歌謡曲」のコーナーにこだわりリクエストというコーナーがあります。今月は美空ひばりさんの命日月ですから「美空ひばりトリビュート」として、美空ひばりさんの歌をカバーした歌手の歌声でした。
このこだわりという言葉は、選択するということです。曲の話ではありませんが人はなにかしらこだわりを持って生きています。例えば「欲、妬み、怒り」という人間の三毒を消して生きたいという立派なこだわりがあります。自分の座右の銘を持ってそれに従って生きるのもこだわりで、よく子供に自分のこだわりを押し付ける親がいます。それが私はちょっと気になります。あまりにこだわりを持ちすぎると生きにくいと思うのです。むしろこだわりを捨てたほうが一番強いのかもしれません。
ここで登場するのが多様性です。何にこだわり、何を捨てるかの多様な生き方を親は教えることが必要だと思いますね。

女性

2017-06-24 23:41:14 | Weblog
フランスのマクロン政権が内閣を改造しました。なんと今回は総選挙後の小幅な改造ではなく大幅な改造になり、女性閣僚が過半数になりました。閣僚19人のうち女性が11人ですから日本では考えられない内閣です。男性の私が述べるのは変ですが、この内閣は恐らく決断力のある内閣になると思いますよ。
というのは女性は見かけのひ弱さとは違って、本当の強さを持っています。それぞれの家庭でも最終決定権は奥さんにありそうですし、いざとなったら女性の底力は恐るべしです。特に、我が子の為だと思ったら、どんなに汚いものにも立ち向かいます。母は強しです。男性はどこかに逃げ場を用意するところがあります(すいません)。こうしたところから、あらゆるジャンルに女性がもっと進出しても良いですね。
マクロン大統領が女性を多く起用したことで政治の流れが変わり、他国にも波及していくと少しずつ、世の中に変化が見られるかもしれませんね。

演出

2017-06-23 23:44:03 | Weblog
演出家について、名演出家の蜷川幸雄さんは定義しています。「観客の千の目を代表している立場」だと。しかし最近は演出や監督を俳優がする場合が多くあります。つまり演じる側の目を代表する立場に立つわけです。芝居そのものに変化は出てくるでしょうか。そのことは稽古の際に顕著に表れるかもしれませんね。舞台上と客席の違いがあるからです。とは言っても蜷川さんも俳優の経験があるのですが。
アナウンサーである私の場合は、リスナー気分とパーソナリティー気分がないまぜになります。アナウンサーの時は、リスナーと時間を共有する時にどれだけ感動を与えることを考えます。一方リスナー気分の時は、日常の話題を仲間との時間に取り入れるネタを仕入れる気持ちが強くなります。どちらにしてもアナウンサーは自分を演出するわけですから、ちょっと甘くなってしまいがちです。だからこそ、まわりに良きリスナーを持っているかが勝負です。

昭和

2017-06-22 22:29:47 | Weblog
平成の次はどんな元号になるのでしょうか。次の元号で時代が進むと、今我々が昭和を懐かしむように平成を懐かしむことが出来るでしょうか。かつての映画「三丁目の夕陽」にあるように昭和のあの時代を懐かしむといいのですが。
昭和には子供時代には分からないけど大人になって思い出すと心がホッと温かくなるものが数多くありました。そうしたホッとする出来事を思い出すことが出来るかと問いかけると中々浮かばないのです。愚考するに、昭和という時代は、まさに進歩の時代でした。えっ、こんなことが出来るんだと目を見張ることが次から次に登場しました。普通の生活が楽になっていく生活用品が現れた昭和です。
もちろん今、平成の世でもすごい勢いで科学も進歩しています。しかし昭和に比べると目に見えるはっきりとした進歩ではありません。もっと奥深い、高尚な進歩なんです。我々凡人には見えにくい進歩です。
はっきりとした進歩が見える昭和がホッとさせるのでしょうか。

楊枝

2017-06-21 23:58:55 | Weblog
「武士は食わねど高楊枝」という言葉があります。武士の志を表現したものです。一方お隣の朝鮮半島に「冷や水飲んで楊子使い」ということわざがあります。水を飲んだだけなのに楊子を使い美味しいものを食べたふりをする。転じて中身はないのにあるように見せることです。今の世の中はこうした風潮が目だっているように思えてなりません。世界的危機を煽る彼の国のミサイル騒ぎもこの楊子の類いではないでしょうか。
日本の高楊枝のほうは、我慢という男の生きざまを教えてくれます。このことわざも今必要なことです。口から出る言葉に我慢がないのです。思い付いた言葉をあっけなく放ち、相手を傷つけることが日常茶飯事になっています。つまり、我慢出来ない、いや、我慢する力がないのです。言葉が人を傷つけ匕首になることを理解していないので簡単に口から出て刺し傷を与えてしまうのです。
高楊枝を思いだし、口の中で発しようとしている言葉を反芻することが問われます。