フリーアナウンサー 松原敬生の『今日のエッセイ』

思っている事、感じている事などを自由に綴ります。

文明の利器

2016-04-30 23:18:17 | Weblog
昭和と平成を生きていると特に感じるのが、平成時代での文明の利器の進歩は凄まじいものだということです。特にITの世界は想像を絶するものです。この伊勢志摩サミットでは、各国の首脳に自動運転の車に試乗して貰おうということも考えられています。昭和の時代にはハンドルを離して運転出来るとは誰が想像したでしょうか。人工知能のロボットにプロの囲碁棋士が負けるなんてあり得ないことでしたよね。これらの進歩には唖然とせざるを得ません。
ところで、卑近な例でいえば、料理をするときに、ジャガイモの皮を貴方は何で剥きますか。皮むき器を使う人もいるでしょうが、実際には包丁を使ったほうが脳の活性化には良いのです。また、計算となるとまず計算機という人がほとんどでしょうが、暗算をするほうが脳の活性化につながります。文明の利器の進歩はもちろん必要だとは思いますが時にはこの文明の利器に反乱を起こしてみることが感受性を養うには必要なことなんですね。

自由業

2016-04-29 19:52:18 | Weblog
会社という組織を離れると、例えばお医者さんでの問診票の中で、職業欄に何と書くか迷いませんか。私は「フリーアナウンサー」の書くときに何となく抵抗を感じるのですが、実は他に何と書いて良いのかわからないのが本音です。病院で受付で事務の人とやりとりをしていると「それでは自由業と書いておきますね」と聞こえ、なるほどと思った次第です。これからは「自由業」と書こうと思います。
ところでこの自由業という職種は、仕事先と電話とメールだけでつながっているのです。これがとても不安定なんですね。かつての同僚の場合はともかく、新しい人とのやりとりで、細かいニュアンスが読み取れないことがあるからです。

新人さんの一ヶ月

2016-04-28 23:22:40 | Weblog
まもなく新緑の五月、新人さんも入社して一ヶ月が経過します。職場に慣れましたか?仕事ぶりはどうでしょうか。
私が気にするのは、コミュニケーションをとる際、はっきりとした声で対応しているかどうかです。明るい声はその人の好感度をグーンと上げます。その声で指示待ちではなく、自力で動くことが出来たら最高です。小さいことでもいいから自分に出来ることはないか、あらゆることに関心を持って観察し、手伝えそうだと気付いたら声を出してみるのです。仕事の大小ではありませんよ。上司や先輩はこうした神経を使える人がいれば、積極的に仕事を託したくなるものです。
この一ヶ月に与えた爽やかな明るい印象が、持続し、強められていきます。逆に悪い印象が良い方へ転じるのはなかなか難しいです。しかし、この一ヶ月失敗したと思う人は、改めて明るい声を意識して印象を変えて下さい。まずははじめて会う人に対する自己紹介から爽やかに明るい声でやってみましょう。

自転車

2016-04-27 22:45:42 | Weblog
自転車に乗ることを忘れているほど、自転車に縁が無くなっています。まもなく薫風が吹く良い季節、自転車で風をきったら気持ちいいでしょうね。
しかし近頃は逆に自転車に対して怒りを覚えることが何度もあります。それは法に反しなければ、形式さえ整っていれば、何をしてもいいという気分が世の中に蔓延しているのと同じように自転車を扱う若者が結構多いからです。歩道を歩いている時に、警笛さえ鳴らさずに身体をかすめるようにスピードを落とさず通り過ぎて、他人に怖い思いさせても謝りもせず平然と通り過ぎて行く場面に一度ならず二度も体験したからです。モラルの崩壊さえ感じるのです。車を運転している人が路地が多い狭い道路ほど自転車がいつ飛び出してくるかわからないので運転しにくいとこぼすのもわかる気がします。
折角の自転車という素晴らしい乗り物がすっかり悪者扱いですから、気の毒ですよね。自転車も法律によって規制されていることがあると勉強して欲しいですね。

手紙

2016-04-26 20:47:51 | Weblog
放送に携わっていて、ここ二昔ぐらいの間の変化を並べてみると、音楽を放送する場合の音源がレコードからCDに変わったこと、これが一番でしょうか。いやリクエストやメッセージを貰う時には、圧倒的に葉書か手紙でした。それがいつの間にかファックス、更にメールと変化し、今や手紙などは本当に少なくなりました。普段の生活の中でも、連絡には携帯電話を使うことはじめ、手紙は少なくなって来ました。人類が便利さを追求した結果でしょうが、ちょっと淋しいことです。
何より手紙の良さは、書いてくれた人の気持ちが伝わりやすいです。それは何故かといえば書いている間、ずっと相手の顔を思い浮かべているからでしょう。絵手紙などもいまだに人気がありますが、それは絵手紙を書くに至る準備の時間を大切にすることや、差し出す相手を思いやり自分自身と向き合うことが必要となるから、受け取る人に伝わるのです。大事なことは手紙でということは、日常生活で忘れてはいけないことですね。

究極の幸せ

2016-04-25 23:33:52 | Weblog
何かで読んだのですが、究極の幸せは4つあるそうです。それは「人に愛されること」「人に褒められること」「人の役に立つこと」「人から必要とされること」です。これを読んで私は褒められることも役立つことも出来なくても、必要とされることは何かの工夫で出来るような気がしませんか。
実は、非常に聞き上手な友達がいます。大袈裟な悩みでなくても、何かしら人は悩みを抱えているものです。それを黙って聞いてあげるだけで、悩みの主はさっぱりした顔で引き上げるのです。特別にアイデアを提供するわけでもなく黙って相づちをうっているだけですよ。人は心を吐き出すとすうっとすることが出来ます。その原則を心得ているから黙って聞くのでしょう。聞いて貰う方も、そうした存在は嬉しいものです。
この黙って聞いてあげることは、まさに必要とされる存在になるのですよね。聞いてあげることは簡単なことですが、心を込めることは難しいことです。ですから貴重なんです。必要とされることは。

ふるさと納税

2016-04-24 23:51:35 | Weblog
応援したい自治体に寄付すると減税される「ふるさと納税」が注目されています。何故注目かと言うと、本来の自分のふるさとがよりよくあって欲しいという趣旨よりも、特産品などの魅力的な返礼品によって注目されていると言っても良いかもしれません。今はなくなりましたが、生きたままの「カブトムシ」や真剣なども話題になりました。ともかく返礼品の拡充をめぐって自治体間の競争も激しくなっています。
また、制度自体も大きく変化しています。控除限度額が二倍に引き上げられ、寄付先の自治体が五つ以下などで確定申告が不要になっています。この五つと聞くとふるさと意識は関係ないような気がしてきます。そんなにふるさとがあるわけありませんから、どうしても返礼品目的と見られてしまいます。ふるさとを出て都会生活をし成功したのも、心の糧になったふるさとがあったればこそという、純粋なふるさと意識から納税をという趣旨は何処へやら。お金が集まれば、との気持ちが自治体に出ていませんか。残念。

足音

2016-04-23 23:46:03 | Weblog
熊本からの避難所のニュースで涙することが多々あります。その中でこの記事には泣かされました。避難所で生活している車椅子の女性の話です。トイレに行く時に車椅子で移動するのですが、寝ている人の間を車椅子で通ることに物凄く神経を使い、辛いと言っています。どんな思いかと考えると涙が出てきます。こうした神経を使える人がいれば、世の中、最近の人達の足音は荒いと思います。講演会で喋っていて遅れてきた時は、ぬき足、さし足、しのび足が常識ですが、結構、荒足、けり足、ズカズカ足が時々あるんですよ。穿った見方をすれば足音で自分を現そうとしているかと思うくらいです。
ところで動物は余り足音をたてないそうですね。象ですら歩くときは静かです。足音が荒いというこの現象は、何を表しているのでしょう。やはり気遣い不足でしょう。周りを見ないで自分の世界に没頭する傾向の中で生まれた現象ではないでしょうか。根本には避難所の人達のような細やかな神経があると思います。

肩凝り

2016-04-22 23:55:02 | Weblog
地震の被害を受けている地域では車中泊を続けて揺れから逃れている方も多いようです。エコノミークラス症候群で亡くなった方もいらっしゃるようです。同じ姿勢の苦しさはさぞかしだったでしょう。私達の日常での肩凝りは何程のことかと想像します。
ところでこの肩凝りは明治時代の中頃までは「肩が凝った」と言わずに「肩がはった」と言ったようです。この肩凝りは欧米にはないという話であり、英語やフランス語では「首が痛い」とか「背中が痛い」という言い方はあるそうです。
熊本では愈々ボランティアの人達が入るようになりましたが、プライバシーさえ無さそうな避難所生活では、肩をほぐすことさえ出来ない状況です。ですから震災で出た壊れた家具の片付けだけではなく、肩もみとか肩たたきなどのボランティアをしてみてはどうでしょうか。
「微風であっても爽やかな風を送る」という言葉がありますが、こうしたお手伝いで爽やかな風を送りたいですね。

青春

2016-04-21 23:04:39 | Weblog
自身の歌謡曲番組を担当していてスタジオで曲を聞聴いている時、つい曲に合わせて口ずさんでいるのは、時代を共に過ごした青春歌謡です。あの甘美で苦悩にみちた青春時代を回想しながら唄っているのです。ラジオの向こう側のリスナーも同じ思いで唄っていらっしゃるのではないかと思っています。
青春時代には自我が目覚め、己とは何者なのか、何をしたいのかと問うた青春時代への強烈な郷愁なのです。私と同世代の人達は、恐らく会社勤めが一段落した頃です。そうした人は青春時代にやり残していたものを思い出すのではないでしょうか。それだけが人を支えていると言っても過言ではありません。過ぎてきてはじめて、私達は青春というものを軽んじてきたと気づきます。「青春をもう一度」いま、これを胸に刻んでチャレンジしている人もいます。次から次へのステージにのぼることに追われて、何を本当にしたいのかと突き詰めることもなく過ぎてきたのが本当のところでしょう。
さあ、青春のあの頃、何がしたかっのですか?