何かの書物で「散歩の極意」が説かれていました。「何も考えない。足が交互に動いていることだけしか感じないようになれば、しめたものです」と。つまり「無の境地」になれということでしょう。
我が身を振り返って毎日の散歩を「無の境地」で行っているかというと、とてもとても、と手を振らざるを得ません。
そういえば最近はお寺にプチ修業に通う人が多いと聞きました。短い時間、座禅や写経をして邪念を消えさせる時間を持つ事だそうです。
「無の境地」つまり心を無にすること。何も考えずに何かに集中するといいということですが、私などは無になろうと考えれば考える程、ありとあらゆる雑念が浮かんできます。ましてやその雑念を振り払って無にならなければという又考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えなのです。ただ朗報(?)といえるかどうか、年をとってくると覚えるという行為が希薄になり、だんだん記憶が空になっていく事でしょうか。これは単なる健忘症ですよね。
そうそう、無になる方法として滝に打たれる事もいいそうですが、ようやくいい文章に出会いました。
『無の境地に近づける方法の1つに、楽しく仕事をすること』とありました。やはり、これです。私にとっては。
我が身を振り返って毎日の散歩を「無の境地」で行っているかというと、とてもとても、と手を振らざるを得ません。
そういえば最近はお寺にプチ修業に通う人が多いと聞きました。短い時間、座禅や写経をして邪念を消えさせる時間を持つ事だそうです。
「無の境地」つまり心を無にすること。何も考えずに何かに集中するといいということですが、私などは無になろうと考えれば考える程、ありとあらゆる雑念が浮かんできます。ましてやその雑念を振り払って無にならなければという又考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えなのです。ただ朗報(?)といえるかどうか、年をとってくると覚えるという行為が希薄になり、だんだん記憶が空になっていく事でしょうか。これは単なる健忘症ですよね。
そうそう、無になる方法として滝に打たれる事もいいそうですが、ようやくいい文章に出会いました。
『無の境地に近づける方法の1つに、楽しく仕事をすること』とありました。やはり、これです。私にとっては。