豆の育種のマメな話

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恵庭の古道-4 「恵庭街道」「盤尻街道」

2022-12-23 18:02:03 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

新恵庭市史(令和4年刊)に記載されている恵庭村主要道路は、前項の「釜加街道」「漁街道」の外に「恵庭街道」と「盤尻街道」がある。「恵庭街道」は現在の道道600号島松千歳線、「盤尻街道」は道道117号恵庭岳公園線。道路法改正に伴い起点終点など一部変更があったものの、現在も恵庭の主要道路ある。

現在の主要道路を古道と呼ぶのかとの異議はあるだろうが、これらの道路は明治時代から大正、昭和にかけて人々が「街道」の名前で親しんだ道路。古道と呼んでも差し支えあるまい。

◇恵庭街道

明治24年(1891)から始まった殖民地区画の測設によって引かれた区画道路を基本に整備されたもので、千歳と恵庭を結ぶ道路。入植が進み当該地域に住む人々が多くなると、この街道の利用頻度が高まり現在に至っている。現在の島松千歳線は起点が恵庭市島松(道道46号江別恵庭線交点)、終点は千歳市北信濃(国道36号交点)の17.5kmである。

かつての「恵庭街道」について、新千歳市史から引用する。

・・・大正9年の道路認定台帳では祝梅94番地から釜加92番地までの(略)町村道となっている。千歳村管内図-管内道路網一覧図では、千歳由仁道路からネシコシ橋を渡り南26号を恵庭に向い東5線を南21号まで北進し島松につながる道の東三線までとなっている(注、東三線が千歳と恵庭村の境界)。その後、農村の幹線道路として重要度を増し、その経路を国道36号新富1丁目からの東9線から南26号で恵庭に向かう経路に変更となり、昭和43年に一般道道島松千歳線として認定された(新千歳市史p720)・・・とある。

現在は、「恵庭街道」と呼ぶことも無く一般道道600号島松千歳線として認識され、利用頻度が高い道路である。

◇盤尻街道

恵庭市街から盤尻地区に延びる道路。昭和57年(1982)道道339号光竜鉱山恵庭停車場線から名称変更して主要地方道(道道117号恵庭岳公園線)となった。現在の恵庭岳公園線の起点は恵庭市盤尻(国道453号交点)、終点が恵庭市本町(道道46号江別恵庭線交点)の29.3km。

かつての「盤尻街道」について新恵庭市史(令和4年)から引用する。

・・・盤尻地区の主要道路である道道117号恵庭岳公園線は「盤尻街道」と呼ばれ、茂漁から盤尻に入り漁川に沿って進む道で、当初は刈株だらけの細い路だった。途中に盤尻橋があるが、昔は川底が岩盤で流れが急なため、何度か流されてことがあったという。

盤尻小学校を過ぎると、道路は崖を避けて左側の台地に登る。ここにあった坂は、薩摩豊次郎が近くに住んでいたことから「薩摩の坂」と呼ばれ、馬車が登るには難所であった。「薩摩の坂」付近の分岐点から左へ進むと下り坂になるが、官有林の中を通っていた坂のため、「官林の坂」と呼ばれた。

明治41年には農作物の搬出のため、幅員九尺の漁農道が3,023間、大正3年に400間、計3,423間(6,162m)が開設された。左側の道路は「中道」と呼ばれ、約8kmで恵庭市街に下っていた。この道は下り一方であるため、いくつかの坂道がある盤尻街道に替わって一時盛んに利用されたという。千歳から紋別川への自動車道ができると、この方面の産物が千歳へ運ばれるようになり、ほとんど使われなくなった(新恵庭市史p213-214)・・・。とある。

 

盤尻の開拓は、官有地と御料との払い下げを受けた入植者によって、明治34年頃から始まった。盤尻は木材の切り出しや薪炭製造など山で働く人が多く集まり、また発電所建設や軌道施設工事などで一時期は大変な賑わいを見せた。道路が整備されてトラック輸送が主体になる昭和30年頃から盤尻を離れる人々も多く、盤尻小中学校も恵庭小学校に統合され廃校となってしまった。

現在、道道117号恵庭岳公園線は「えにわ湖」「恵庭渓谷、白扇の滝、三段の滝、ラルマナイの滝」など自然美豊かな場所で観光に訪れる人々が多く、支笏湖へ抜ける道程としても人気のコースとなっている。

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