役目を終えた、古道
大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図(長都1/50,000)に、室蘭街道の漁村市街地から山越えで南に延びる一本の道路(小路)があるが名前は書かれていない。時代が移り大正9年版の地図(漁1/50,000)になると、この道路は「孵化場道路」と記されている。漁(恵庭)から孵化場(千歳)に通じる道路という意味だろう。
<図:明治29年版地図(長都1/50,000)と大正9年版の地図(漁1/50,000)>
◇孵化場道路
札幌本道(室蘭街道)を漁川第二幹線用水路が横切る辺り(帷宮碑の脇)を起点とし、当時の種畜場放牧場、上長都、学田を経て千歳市蘭越(千歳川)に抜ける道路。現在の地図に重ねると、旧々国道(市道恵庭線、クラーク博士通り)泉町から駒場町、恵庭公園、陸上自衛隊南恵庭駐屯地を抜け千歳市蘭越に至ることになる。現在このルートは通行できない。
千歳川(千歳市蘭越)に初の官営孵化場(現、北海道区水産研究所千歳さけます事業所)が設置されたのは、明治21年(1888)のことであった。この千歳の「さけます孵化場」に抜ける道路を「孵化場道路」と呼んだ。
なお、官営漁村放牧場は明治9年(1876)エドウィン・ダンの選定により、北海道開拓使が「真駒内牧牛場」を札幌郡平岸村(現、札幌市南区真駒内)に、漁村放牧場を現在の駒場町惠南地区に開設したことに始まる(真駒内放牧場の附属牧場。地図には種畜場出張所・種畜場牧場とある)。牧牛場は明治19年(1886)「種畜場」に名称変更、その後も「北海道庁種畜場」「北海道農業試験場畜産部」と名前を変え、昭和21年(1946)には用地が進駐軍に接収されたため新得町に移転した(新得へ移転後は「北海道立種畜場」「北海道立新得種畜場」「北海道立新得畜産試験場」「北海道立畜産試験場」「道総研畜産試験場」となり現在に至る)。
新千歳市史(平成31年)に詳細な記述がある。
・・・「躍進千歳の姿」に、当時の鮭鱒孵化場の思い出を収録した部分がある。「千歳孵化場からの交通としては、千歳市街地迄二里は荷馬車が辛うじて通る程度で夏季にでもなれば路傍の雑草が人の背丈にも伸びて、雨の時などは身体がヅブ濡れという始末、それでもタマに買物に出たり、或は山越して二里半の恵庭村に散髪に出るのは楽みの一つであった(当時千歳村には理髪店がなかった)。役所を退けてから散髪に行って髪を刈って帰れば馬で行っても帰りは夜の十時頃にもなった。かなり悩んだものである。」
この「山越して二里半」の道が孵化場道路である。もちろん孵化場の役人ばかりでなく、札幌から支笏湖へ行くルートとしても利用された。恵庭(漁)から孵化場までの道筋は、現在の恵庭駅前通りと江別恵庭線との交差点から千歳寄り漁川第二用水横を道なりに南下し、途中から恵庭公園内を陸上自衛隊南恵庭駐屯地の正門まで縦断する。正門からは駐屯地の中心道路を南下し、道央自動車道を跨ぎ演習場内を千歳の境界まで抜け、急な沢を渡り孵化場に至る経路である。漁村の行政区域内では牧場道路といわれていた。
この道は孵化場設置の明治21年(1888)以降に地図に現れる。実際この道路をいつ頃まで利用していたかは定かでない。大正時代にはこの道路沿いに、付近の炭焼きを営む者の子弟のために蘭越教授所があったと言われる。長都街道、釜加街道と同じく町村道として認定されなかった里道であったが、昭和14年の北海道庁道路課による「北海道道路図」にも示されている重要な生活道路であった。昭和29年前後にその道筋のほとんどが自衛隊(北千歳駐屯地及び南恵庭駐屯地)管理地に包含され、道路としての役目を失うことになった・・・(新千歳市史p719)。