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恵庭の古道-1 「釜加街道」

2022-12-14 17:13:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ「釜加街道」

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」をみると、嶋松村、漁村、長都村、千歳村の当時の状況がよく分かる。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯で道路がなく、陸地は落葉樹で覆われ農耕の形跡が見当たらない。

本地図に描かれている道路は少ない。明治6年(1873)に開通した札幌本道(室蘭街道)が北西から南東に延びていて、自札幌至函館道と記載されている(注釈に「大路」とある)。その「大路」に数本の「小路」が繋がっているが、名前は記載されていない。

その中の一つに、カマカ(釜加、現在の千歳市釜加地区)と漁市街(現在の恵庭市)を結ぶ道路がある。本道は明治、大正、昭和初期にかけて「釜加街道」と呼ばれた住民の生活路である。明治23年(1890)から始まった北海道植民区画制度により、千歳原野にも号線区画道路が引かれ耕地化が進むと本街道は次第に利用されなくなり、この古道の形跡は一部でしか見ることが出来ない(風防林が一部残っている)。

◇釜加街道

「釜加街道」は南20号・東5線のカマカ集落を起点とし、基線南24号地点まで斜めに横断し、漁墓地(現、恵庭ふるさと公園)の間を抜け、室蘭街道沿いの漁市街に通じる道路。漁村・釜加・長都地区住民の生活路であった。

明治23年(1890)から北海道植民区画制度により千歳原野でも測量が行われ基線・号線が引かれた(明治26年完成)が、その時の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)にも号線を斜めに横切る釜加街道が描かれている。この図面を現在の道路と重ね合わせると釜加街道の道筋を知ることが出来る。

大正から昭和にかけて道路整備と入植開墾が進むにつれ、釜加街道は一部の利用を残しながら次第に号線道路へ置き換わって行く。大正5年(1916)、昭和30年(1955)測図の地図をみると、その過程を知ることが出来て面白い。

なお、「新千歳市史(平成31年)」「新恵庭市史(令和4年)」に釜加街道の記載がある。新恵庭市史は新千歳市史からの引用なので、新千歳市史の概要を引用する。

「・・・起源は明らかでないが、アイヌの人たちが通行した里道であったと考えられる。近代に入ってからは、釜加地区の人々が恵庭(漁)に日常的に通うための道となった。明治27年印刷の北海道庁作成「胆振国千歳郡千歳原野区割図」には、南20号東五線の釜加集落を起点とし、号線で区画された原野を基線南24号地点まで斜めに横断し、当時の漁墓地の間を抜けて室蘭街道沿いの漁の街に通じる道路が記されている。

千歳と恵庭は成立過程や開拓移民の出身地など共通項が多い。ことに長都・釜加地区は行政区が接していることもあり親しみの度合いは深かった。明治31年に長都村と漁村の境界を東三線と定めるまで、両村の境はカリンバ川としていたことから釜加地区の一部が漁村に編入されていたなど両地域住民の生活は混然一体となっていた。・・・・また、用水組合が一緒だったり、小学校の高等科が長都になかったため恵庭小学校へ通ったり、冠婚葬祭を含め一つの生活共同体と言う意識だった(注:長都から千歳まで7km、恵庭まで4km)。この道は大正から昭和にかけての耕地整備や宅地化の進展により、昭和40年代までに地図上から消えた・・・」(新千歳市史通史編上巻p716-717)。

*カマカ(釜加)

千歳市釜加地区は千歳川長都大橋の下流左岸に広がる地域、現在の千歳市埋蔵文化財センター北側に位置し農耕地が広がっている。当時は南20号・東5線付近を中心に小さな集落があった。

河川が交通の主流だった時代には、この地に船着き場、番屋、弁天社があった。松浦武四郎が蝦夷地探査で二回目に訪れた弘化3年(1846)、江別から舟で千歳川を遡った折の記録(再航蝦夷日誌)には、シママップ(嶋松)、イザリブト(漁太)に次いでカマカ(釜加)の記述があるので引用する。

「カマカ、イザリブト番屋より三里と聞けり。此処湖水の侍にして茫々たる見通しなり。西南シコツ嶽、東北にユウバリ嶽見ゆる。湖水の岸皆川柳、蘆萩繁茂し番屋1軒あり。此処へ上陸し中飯するなり。弁天社あり。蔵あり。夷人小屋あり。土地肥沃にして野菜もの能く出来たり。・・・扨此辺鹿多きやらん。湖水え鹿の足を多く枹としてひたしありたり。皆食料に用ゆ。又夷人小屋の前に菱を莚に干したり。是また此処の食料か。熊、鷲を家毎かい、夷人皆鹿皮を着す。其形他場所の夷人と大いに異れり。此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり。」(大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座)。

*北海道の殖民区画

北海道の開拓は明治2年(1869)の開拓使設置にはじまり、明治7年(1874)には屯田兵制度が導入されたが、明治19年(1886)の北海道庁設置により北海道開拓は新たな段階を迎えることになった。

北海道庁は入植地として適当な土地を調査し区画測設を行う殖民地選定事業(明治19年開始)を実施した。植民区画は先ず、基準となる南北方向の「基線」とこれに直交する「基号線」と呼ばれる道路を定め、そこから300間(546m)ごとに格子状の道路を造った。基線に並行して引かれた道路を「東〇線」などと呼び、基号線に並行して300間ごとに引かれた道路を「南〇号線」などと呼んだ。こうしてできた道路に囲まれた300間四方の画地30町歩(ha)をさらに150間×100間の小画6個に分け、この小区画5町歩(ha)を開拓農家営農の単位としたのである。

この制度は19世紀アメリカやカナダにおいて原野開拓の基礎となったタウンシップ制を真似たものと言われ、開拓使顧問のホーレス・ケプロンの指導による。札幌農学校一期生で土佐出身の内田瀞󠄀らが植民地選定・区画割に当った。

区画測設が行われ、道路、保存林、市街地、公共用地などの配置が決定されると1/2,5000の殖民地区画図が刊行され、これに基づいて移住者への土地の処分が行われた。北海道の郊外農村の道路が碁盤目に統一され、外国風景に似ているのは此の制度の結果と言えよう。

前述の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」をみると、基線道路幅は10間、その他線号道路幅は8間と記されている。

コメント
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