豆の育種のマメな話

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恵庭の古道-6 「松園通り(中島通-松園線)」

2022-12-26 11:36:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

残したい歴史の道

明治29年版地図(長都1/50,000、大日本帝国陸地測量部)をみると、室蘭街道から茂漁川の北側、漁川左岸沿いを通る道路が描かれている。地図上に名前はないが、松園尋常小学校に通じる道路「松園通り(中島通-松園線)」である。

◇松園通り(中島通-松園線)

恵庭への最初の開拓移住者たちは漁川、茂漁川、島松川などの川岸に住まいを置き開墾を始めた。往来は河川を利用することが多かったが、次第に川沿いの陸路が生活路として定着して行く。明治6年(1873)、ケプロンの献策により札幌~函館間の「札幌本道」(森~室蘭間は航路)が開設されると街道沿いに集落が形成され、里道は街道と繋がるようになるが、松園通り(中島通-松園線)もその一つであった。

明治20年(1887)私立洞門尋常小学校が大安寺境内に開設、明治22年(1889)私立松園尋常小学校が漁川川沿い(現、恵庭開拓記念公園)に開設されると、「松園通り(中島通-松園線)」は子供らの通学路になった。また、明治30年(1897)漁外一箇村戸長役場が中央地区(松園尋常小学校の対岸)に設置され、恵庭村役場は昭和26年(1951)まで55年間この地にあったので、「松園通り(中島通-松園線)」は利用頻度の高い道路だったと思われる。

現在の地図と重ねてみよう。

道道46号線(江別恵庭線、旧室蘭街道)から恵央町地区を横切り、中島町4丁目と5丁目の境界に沿うように(若草小の北側)中島町地区を斜めに進み、国道36号線(バイパス)中島5丁目信号を渡り、花の拠点「はなふる」(庭園、道の駅がある)の北西側を漁川に沿って走る道路に重なる。道道46号線から国道36号線間の経路ははっきりしないが、花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園(松園小学校跡)北側に通じる道路(松園線)には「松園通り」の趣が残っている。現在、松園線は茂漁通に繋がる道路と位置付けられている。

「松園線」は茂漁川第三幹線用水路が道路脇地下を走り、桜並木「恵み野桜回廊」が美しい通りである。また、歩道の真ん中に楡の大木が残されているが、これは「恵庭の御神木」と噂されるもの。伐採しようとしたところ怪我人が出るなど祟りがあったとされる伝承の樹で(拙ブログ2022.4.30「松園通りのハルニレ」)、推定樹齢は160年。このハルニレは御神木と崇められる一方、開拓の歴史を語る記念樹とも言えるだろう。

恵庭開拓記念公園の記念碑や旧町役場跡など歴史地区に通じる「松園通り」は、残したい「歴史の道」。花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園に通じる案内板や標識設置、桜並木の花壇整備など、歴史を記憶に留め観光に資する試みがあっても良い。

  

◇私立松園尋常小学校

明治22年(1889):漁川の沿岸に入植した長州藩士族廻神美成によって私立松園尋常小学校開校。「松園」の名は吉田松陰に因んだものと言われる。

明治32年(1899):公立松園尋常小学校となる。

昭和46年(1971):統合により松恵小学校となり閉校。閉校跡地は恵庭開拓記念公園となる。

◇漁外一箇村戸長役場

明治13年(1880):千歳に千歳郡各村戸長役場設置。

明治30年(1897):漁村・嶋松村が千歳郡戸長役場から独立し「漁外一箇村戸長役場」設置。戸数143戸。

明治39年(1906):漁村、嶋松村を合わせ恵庭村になる。中央地区に恵庭村役場を開庁。

明治43年(1910):恵庭村役場全焼。再建。

大正15年(1926):恵庭村役場総改築。

昭和26年(1951):町政施行し恵庭町となる。

昭和27年(1952):町役場庁舎、中央から漁地区に移転新築。

昭和45年(1970):市制施行し恵庭市となる。

 

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