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伊豆の人,韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」

2019-06-07 09:31:03 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」は50分間隔で運行している。韮山反射炉の見学を終えて次の便に乗車した。目的地は「江川邸」。江戸時代の世襲代官を務めた江川家の邸宅である。主屋を中心に書院,仏間,表門,裏門,肥料庫,米蔵,武器庫などが残され,江川太郎左衛門英龍(坦庵)にまつわる資料が展示されている。

主屋は,13間(24m)×10間(18m)と大きく,広い土間からは高さ12mにもなる茅葺きの大屋根を支えてきた小屋組の荒々しい架構が眺められる。土間には生えていた欅の木をそのまま利用したとされる「生き柱」が立っている。また,玄関脇には,使者の間,控えの間,塾の間などもあり,そこに佇めば歴史が蘇る。樹齢を重ねた屋敷の樹々も当時の面影を彷彿とさせる江川邸である。

 

1.江川太郎左衛門英龍(坦庵)の生い立ち

◆江川太郎左衛門英龍は韮山代官江川英毅(江川家35代当主,代々太郎左衛門を名乗る)の次男として生まれる。名は英龍,幼名は芳次郎,号を坦庵(たんなん)と称した。父英毅は42年間にわたり,農地の改良・商品作物の開発など職務に尽力し名代官と呼ばれた人物である。

◆少年時代の英龍は兄倉次郎(英虎)とともに,父から直々の教育を受け6歳頃から「論語」「大学」など儒学を学び,母からは厳しさと優しさ,人の上に立つ心構えを学んだと言う。次男で気楽な部屋住み時代に色々な分野の人物と交友したことが,その後の人生に大きく影響したと考えられる。

◆堀内永人「韮山反射炉の解説」(文盛堂書店)によれば,父英毅の多彩な交友関係の中から,①儒学は水戸学の藤田幽谷,市川寛斎,山本白山,②漢詩は山梨稲川,大窪詩仏,頼杏坪,③戯作は大田南畝,山東京伝,④医学は杉田玄白,宇田川玄真,⑤書道は市川米庵,大窪詩仏,⑥測量は間宮林蔵,⑦絵画は谷文晁,大国士豊,立原杏所に師事。武道は荒稽古で有名な剣道場,江戸神田の神道無念流岡田十松の「撃剣館」に入門,2年後に免許皆伝,撃剣館四天王の一人に挙げられたと言う。

◆堀内永人は,撃剣館での様々な人との出会いが英龍の人生に大きな影響を与えたと述べている。例えば,①斎藤弥九郎:幕末の剣豪,英龍が最も信頼した人物,②藤田幽谷・藤田東湖:儒学者,水戸学(尊王攘夷)の権威,③会沢正志斎:儒学者,勤皇思想,④渡邉崋山:儒学者,画家,⑤高野長英:蘭方医,洋学者,⑥幡崎鼎:蘭学者,蘭方医,英龍蘭学の師,⑦川路聖謨:幕臣,勘定奉行,外国奉行,英龍のよき理解者,⑧羽倉外記:幕臣,儒学者,勘定吟味役らである。確かに,各分野のオピニオンリーダーたちである。

◆江川太郎左衛門自画像が残されている。面長で,眉は太く,黒目を大きく見開き,鼻は高く,グイと引き結んだ口元が印象的である。役者絵のような存在感がある。

2.韮山代官としての英龍

◆韮山代官は,伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する行政官である。英龍は,天保5年(1834)父英毅逝去に伴い家督を相続(兄英虎は24歳で死亡),翌天保6年(1835)韮山代官に任命された。

◆伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「当時の日本は,全国的な飢饉に見舞われていて,各地で一揆や打ち壊しが頻発していた。また,異国船が相次いで来航し,補給や通商を求めてくるなど,まさに内憂外患と言っていい状態であった。・・・内政面では,飢餓で病弊した管轄地の村々を立ち直らせることが急務であった。英龍は自ら率先して質素倹約に努め,部下たちにも勤務精励と徹底した節約を求めた。また,村々を巡回して村役人への説諭と窮民の救済にあたった。同時に,各地に部下を派遣して実状を調査し,時には甲州微行図にあるように自身が現地に足を運び,正確な情報を得ようとする努力を惜しまなかった。加えて,困窮した村に対し長期低金利の貸付金を設定するなど,金融面の対策も積極的に導入している。そうした様々な努力の結果,韮山代官の管轄地の人々は英龍に心酔し,英龍は世直し江川大明神と称されるようになった(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆この地方は二宮尊徳の報徳精神が強く根付いた地域である。英龍も尊徳の教え(質素倹約,殖産振興)を受けひろく実践した。新田開発,田畑改良,道路や橋梁の改修など環境整備に努め,救済事業を推進するなど領民の幸せを願った施策を行った。

◆嘉永2年から3年(1849-50)にかけて天然痘が大流行した。英龍は牛痘種痘法をわが子に治験し,役人の子供らを初め領民にも種痘を進めた。その結果,管内の天然痘被害は軽微であったと言う。

◆安政元年(1854)マグニチュード8.4の地震が発生し,日露外交交渉最中の下田は津波で甚大な被害を受けた。875軒のうち841軒が流失し,死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人などを含めると122人と推定される)であったという。幕府の救済支援も素早い立ち上がりをみせ,英龍はその日のうちに「お救い小屋」を設置し粥の炊き出しを行い,翌日には被災者の調査や対応策を処理し,幕府から米1,500石,金2,000両を下田へ届けた。

◆沈没したロシア艦船デイアナ号を修理(造船)することになり,英龍が建造取締役に任命された。英龍の指揮のもと天城山や沼津千本松原から木材が運ばれ,戸田村の船大工たちはロシア人の指導を得ながら設計図を頼りに3か月の突貫作業で100トンの西洋型帆船を完成させた(我が国初)。プチャーチンは人々への感謝を込めて「ヘダ号」と命名,部下47名と共にこの船で帰国(後に日本へ大砲52門を添えて返還・贈呈された。この時英龍は逝去していた)。建設に係った船大工たちは,各地で造船技術の普及指導にあたり我国造船業の礎を築いた。

余談になるが,安政3年に返還されたヘダ号は2年近く下田に繫留されていた。江川太郎左衛門(英敏)の手代となっていたジョン万次郎は漂流後アメリカ捕鯨船に乗り込んでいた経験から,この船に目をつけ捕鯨船に改良し出帆するが嵐に遭い破損し断念。その後,ヘダ号は箱館戦争に参加,函館で廃船になったと伝えられている。

 

3.海防政策推進者としての英龍

◆再び,伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「英龍は,行政官として能力を発揮する一方で,海防問題にも深い関心を寄せていた。・・・幡崎鼎や渡邊崋山,高野長英といった蘭学者と親交を結び,より深く西洋事情を知って行く中で,日本にとって海防が必要不可欠であるとの思いを強くしたのであろう。後に形を成す英龍の功績の多くは,この海防というテーマを実現するために推進された事業にほかならない。西洋砲術の導入と普及,品川台場の築造,パン食の導入,農兵制度や海軍創設の建議,そして反射炉による鉄製大砲の鋳造。いずれも日本に進出してこようとする列強国と,いかに対峙するかの具体的な方法論であった。・・・英龍は,韮山反射炉の感性を見ることなく世を去ったが,反射炉築造という大型プロジェクト成功の功績は,まさにリーダーであった英龍に帰すると言える。情報収集と分析に始まり,人材の確保,実現可能なプランの策定など,事業を推進していく上で必要な総合力が,江川英龍という人物には備わっていたのである(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆天保13年(1842)英龍は,砲術を学びたいと言う者を韮山に集め私塾韮山塾を開く。江川邸玄関脇の18畳一間を教室に当てた(塾の間と呼ばれた)。塾生の中には,佐久間象山,川路聖謨,橋本佐内,桂小五郎,黒田清隆,大山巌,伊藤祐亨らが名を連ねる。

◆天保13年(1842)4月12日,日本で初めて携行食糧としてパンを焼く。兵糧や飢饉のための備蓄食料として適していると判断したものである。江川邸の一角からパン釜の切り石が発見され,江川邸の土間に再建されている。業界では4月12日を「パンの日」と定め英龍を「パンの祖」と慕っている。邸内には,徳富蘇峰の筆による「パン祖江川坦庵先生邸」の碑が建っている。

◆洋式号令を採用する。「気ヲ付ケ!」「前ヘ倣エ!」「右向ケ右!」など今でも使われる歯切れのよい号令は,オランダ語を翻訳したもので,英龍が考え実行したものだと言う。

◆武士に代わる軍隊の必要性を痛感し「農兵隊」を編成。「農民はすぐに戦力にはならないが,訓練すれば国家防衛に役立つ」と農民の潜在力を認め登用を計画。下田警備のため足軽身分の農兵隊許可が幕府から降りると,すぐに農兵隊を編成し訓練を行った。高杉晋作の奇兵隊より17年も前のことである。「農兵節」は民謡として今も歌い続けられている。

◆嘉永6年(1853),ペリー提督やロシアのプチャーチン提督が来航し日本中が騒然となる中,英龍は「勘定吟味役格海防掛」を命ぜられた。また,同年7月「江戸湾砲台築造」を拝命。直ちに台場築造に着工し1年8ヶ月で完成させた。

◆嘉永6年(1853)7月,下田反射炉の築造許可申請書を提出。同年12月,反射炉建設の御用を仰せ付かる。その後の経過については,拙ブログ「韮山反射炉再訪2019.6.3」に記したとおりである。

  

4.英龍没する

◆嘉永7年(1854),54歳になった江川太郎左衛門英龍は多忙を極めた。①韮山代官,②勘定吟味役格,③海防掛,④江戸湾台場の築造工事責任者,⑤幕府の砲兵隊長(鉄砲方),⑥反射炉築造工事責任者,⑦デイアナ号の支援責任者などを兼務していた。英龍がいかに有能で,幕府の信頼を得ていたか想像に難くない。激務の結果病を得て,主治医大槻俊斎を初め16人の医師団が治療にあたるも,安政2年(1855)1月16日逝去。病名は腸胃性リウマチ熱であった。享年55歳。法名修功院殿英龍日淵居士。江川家菩提寺の日蓮宗「本立寺」に眠る。

◆江川太郎左衛門英龍が手掛けた事業は,英龍亡き後も継承され大きな実を結んでいる。韮山代官,江川家36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵),まぎれもなく歴史に残る伊豆人のひとりと言えよう。伊豆人特有の「無私」の心を持つ日本人であった。

 

参照:堀内永人「韮山反射炉の解説」文盛堂書店2015,肥田稔「幕末開港の町下田」下田開国博物館2007,肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館2009,伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞2019)

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