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恵庭の碑-11,イザリブト番屋・船着場と 「恵庭神社遥拝所跡」の碑

2015-04-08 17:39:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

 

11. 恵庭神社遥拝所跡の碑

恵庭市林田地区,漁川の南十二号橋近くに「恵庭神社遥拝所跡」の碑がある(因みに「遥拝」とは,遠く隔たった所から拝むこと)。碑は平成8年(1996)11月に建立された新しいもので,碑の背面には「宮司本間明夫,総代表浅野重雄,副別所鉄夫,会計塚田惣松ほか,村本國治,田畑政雄,平野栄作,佐藤勇生,金田忠夫」の名前が刻まれている。

碑が置かれている境内地には,鳥居と古い一対の石灯籠が残されている。灯籠は,明治40年(1907)6月加越能開耕株式会社専務取締役林清一,取締役寿原重太郎,同大野九平,監査役林五郎平,同能嶋正次郎が献納したとある。かつて,この地区の開拓に入った加越能開耕株式会社の人々が祀っていたと推察できる。

一方,恵庭における神社の記録は,弘化3年(1846)松浦武四郎「再航蝦夷日記」の記録が初出で「イザリブトに弁天社あり」とある。また,明治元年(1868)の太政官「神仏判然令」では,この地に「稲荷の祠」があったと記録されている。

さらに,この地域に移住してきた加越能開耕社を中心とする,加賀,越中,能登の人々は,明治26年(1874)西三線南十五号の漁川堤防地に神籬を祀り,明治28年(1876)には漁村十七号の堤防地に祠を建立して郷里において尊崇していた神明,稲荷,春日の三社の祭神を奉斎し,春日神社と称している。この春日神社は,大正5年(1916)西三線南十九号に移され,大正10年(1921)には漁村612番地(現在地,恵庭中央)に社殿を改築した。そして,大正13年(1924)漁太にあった旧稲荷神社と,西三線南十四号にあった赤タモ神社(明治38年赤タモの樹を神木として祀った)を合祀し恵庭神社と改称創建を申請,昭和2年(1927)に認可されている。

この流れから推察すると,「恵庭神社遥拝所跡」は江戸時代から明治時代にかけて弁天社,稲荷神社として祀られ,大正13年(1924)に現在地の恵庭神社へ合祀された後は恵庭神社遥拝所として祀られていたのではあるまいか。そして現在,「恵庭神社遥拝所跡」の碑として姿を留めている。

ところで,この地帯は漁川が千歳川に合流する場所で,江戸時代には「番屋」が置かれ,明治期から昭和初期にかけて「船着場」があった場所である。番屋は,北方警備を重視し東蝦夷地を直轄地とした幕府が,文化4年(1807)この地に番屋を設置して官吏を置き交易を行うとともに,宿舎や漁業が行える施設として利用したものである。また,船着場は明治期から昭和初期にかけて,開拓民の移住や農産物の出荷など,恵庭の玄関口として重要な役割を果たした場所でもある。

◇イザリブト番屋と船着場

恵庭神社遥拝所跡境内に「イザリブト番屋と船着場」の説明板がある。内容は,松浦武四郎「再航蝦夷日誌」に描かれた「イザリブト番屋の図」がこの地点であることを説明したもので,平成18年9月に範囲の特定を行った旨記されている。改修される前の千歳川は蛇行し漁川と合流しているが,船着場を置くのに絶好の場所であったのだろう。恵庭から千歳にかけて低地湿地帯が広がっており,当時の交通手段が河川を利用していたことを考えれば,此処は交通・産業・文化の拠点,玄関口であったと言えよう(写真は2015.4.6,4.7撮影)。

今は,整備された堤防と河川敷が拡がるのみで,番屋と船着場の面影を残すような痕跡を見つけることは出来ない。また,周辺に目をやれば,開拓当初の湿原や曠野を想像するのも困難な拓かれた沃地となっている。訪れたのは4月の上旬,融雪後の秋播小麦は緑に映えていたが,堤防に立つと頬を打つ風はまだ冷たかった。

この場所が,恵庭開拓の歴史遺産として整備され,市民の記憶に残る場所になることを期待する。

(図は,説明板から転写)

参照:恵庭市史(昭和54),説明板「イザリブト番屋と船着場」,恵庭昭和史研究会「百年100話」(平成9)

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